【10/30更新】印南敦史の「クラシック音楽の穴」

2020/10/30
印南敦史のクラシック・コラム「クラシック音楽の穴」。ここで明らかにしようとしているのは、文字どおりクラシック音楽の「知られざる穴」。クラシックにはなにかと高尚なイメージがあって、それが「とっつきにくさ」につながっていたりもします。しかし実際には、そんなクラシック音楽にも“穴”というべきズッコケポイントがあるもの。そこでここでは、クラシック音楽の「笑える話」「信じられないエピソード」をご紹介することによって、ハードルを下げてしまおうと考えているわけです。そうすれば、好奇心も高まるかもしれませんからね。だからこそ肩の力を抜き、リラックスしてお読みいただければと思います。
自らの死を予言した作曲家がいる

フランツ・シューベルト


21世紀の新たなムーブメントであるという「効果的な利他主義」を取り上げた、『あなたが世界のためにできる たったひとつのこと 〈効果的な利他主義〉のすすめ』(ピーター・シンガー 著、関 美和 訳、NHK出版)という本に、強く感銘を受けたことがあります。

効果的な利他主義は、非常にシンプルな考え方から生まれています。「私たちは、自分にできる<いちばんたくさんのいいこと>をしなければならない」という考え方です。盗まず、騙さず、傷つけず、殺さないという当たり前のルールに従うだけでは十分ではありません。少なくとも、私たちのように、非常に幸運に恵まれ物質的に満たされた生活を送り、自分と家族の衣食住を確保でき、その上さらに時間やお金に恵まれた者にとっては、それだけではだめなのです。私たちの余分なリソースのかなりの部分を、世界をよりよい場所にするために使うことが、最低限の倫理的な生活と言えるでしょう。完全に倫理的な生活を送ろうと思えば、私たちにできる最大限のことをしなければならないということです。(「はじめに」より)

自分が生きていくことで精いっぱいだった(気がしていた)僕にとって、“人のためにいいこと”をするという考え方は非常に衝撃的なものでした。しかも本書を読む限り、“いいこと”をしている彼らはとても純粋なのです。

たまに見かける「いいことをしている自分」に酔っているような人とは違い、人のためになることについて真剣に考え、自己矛盾がないかと悩みながら、人のためにあろうとしているわけです。

しかもその中心にいるのはミレニアル世代(今世紀初頭に成人となった世代)だというので、彼らの可能性に期待せずにはいられません。そのため、上の世代である僕たちも、そのことについて考えていかなければならないなと思い知らされたのでした。

ところで「効果的な利他主義」が注目されるよりも200年近く前に、同じような恩恵を受けた作曲家がいます。「歌曲王」と呼ばれ、31歳で早逝するまでの間に600曲以上の歌曲を残したことでも知られるフランツ・シューベルト。

1797年にウィーン郊外の貧しい家庭に生まれたシューベルトは、生涯を通じて貧困から離れることができなかった人物です。

初めて作曲による報酬を手にしたのは、「3つの儀式用カンタータ(D407)」と「プロメテウス・カンタータ(D451)」を書いた1816年。しかし、それだけのことで経済状況が改善されるはずもありません。ですから以後も困窮状態は続いたわけですが、それでもやっていけたのは、本人の性格のおかげであるようなのです。

楽天的な性格が功を奏し、その証拠に困窮時にも友人からずいぶん助けられたということ。たとえばコンヴィクト(宮廷少年合唱団のメンバーを養成する学校)時代の友人たちが、「お金がなくて買えない」とこぼすシューベルトに五線紙を買い与えたというのは有名な話です。

そればかりか、「なにかできることはないか」と宿や食料をサポートしてくれる友人も少なくなかったため、お金がないわりには生活に困窮するようなことはなかったといいます。

まさに明るい性格がプラスに作用したということなのでしょうが、結果的に友人たちは「効果的な利他主義」を発揮し、シューベルトを助けたわけです。

ところでシューベルトは1827年の3月29日にウィーン市内の教会で行われたベートーヴェンの葬儀に参列し、そののち友人たちと立ち寄った酒場で「いま、私たちが葬ってきた偉大なる人のために」とグラスを掲げ、次いで「次に逝く人のために」と献杯したそうです。

そのとき友人たちは不吉な予感を覚えたといいますが、事実、その翌月の11月に彼は世を去ってしまったのでした。図らずも彼は、自らの死を予言してしまったことになるわけです。

「冬の旅」は、29歳だった1826年に、「弦楽四重奏曲ニ短調」(死と乙女)に次いで書かれた歌曲集。失恋した心の傷を癒すため冬の旅に出た青年が、その渦中で体験したことを歌い上げたという構成になっています。

というだけあって、全体を通して暗いイメージ。ある意味で明るいキャラとはかけ離れているため、当初は友人たちのなかにも困惑する人がいたそうで、なんとなくうなずける話ではあります。

ただ晩年のシューベルトが病に悩まされていたことを考えると、経済的に困窮していたうえ病にも冒されていた自身の境遇を、失礼した青年の境遇と重ね合わせたとも推測できるのではないでしょうか?

考えすぎかもしれませんが、あながち的外れでもないような気はしています。いずれにしてもこの歌曲集は、寒くなってきたこれからの季節にぴったり。深く心に染み込んでくる魅力があるので、静かな夜に聴いてみたいところです。



『シューベルト:冬の旅 【ORT】』
ヘルマン・プライ




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印南敦史 プロフィール

印南敦史(いんなみ・あつし)
東京出身。作家、書評家、音楽評論家。各種メディアに、月間50本以上の書評を執筆。新刊は、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)。他にもベストセラー『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)をはじめ著書多数。音楽評論家としては、ヒップホップなどのブラック・ミュージックからクラシックまでを幅広くフォローする異色の存在。

◆ブログ「印南敦史の、おもに立ち食いそば」
◆連載「印南敦史の 名盤はハイレゾで聴く」

 

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