【9/25更新】印南敦史の「クラシック音楽の穴」

2020/09/25
印南敦史のクラシック・コラム「クラシック音楽の穴」。ここで明らかにしようとしているのは、文字どおりクラシック音楽の「知られざる穴」。クラシックにはなにかと高尚なイメージがあって、それが「とっつきにくさ」につながっていたりもします。しかし実際には、そんなクラシック音楽にも“穴”というべきズッコケポイントがあるもの。そこでここでは、クラシック音楽の「笑える話」「信じられないエピソード」をご紹介することによって、ハードルを下げてしまおうと考えているわけです。そうすれば、好奇心も高まるかもしれませんからね。だからこそ肩の力を抜き、リラックスしてお読みいただければと思います。
ストーカーに近かった作曲家がいる

エクトル・ベルリオーズ


ヴァイオリニストの千住真理子さんが“天才少女”として話題を呼んだのは、僕が中学生だったとき。「中3コース」という雑誌の記事でその存在を知り、同い年だったこともあり、可憐さに強く惹かれたのでした。

もしかしたら、恋心に近かったのかもしれません。気持ち悪い話ですが、なにせ中学生だったので勘弁してください。

ともあれ我ながら驚くべきは、それからすぐに貯金をはたいてチケットを買い、日比谷公会堂までコンサートを観に行ったことです。あの行動力はなんだったのか。

どういうわけか一番前の席で観たのですが、見上げた先にいる彼女の姿には大きな衝撃を受けました。天才の名にたがわぬ演奏力もさることながら、その華やかさを見るにつけ、“住む世界の圧倒的な違い”を痛感せずにはいられなかったからです。

「もっと現実を見ろや」と神様に言われたかのようで……いや、僕は神様を信じていないのですけれど、しかしそう思わずにはいられなかったわけです。

21世紀に入って以降、千住さんには数回インタビューしたのですが、そんな過去があったからこそ、なんだか不思議な気持ちでした。しかもあの当時は意外と近い場所に暮らしていらっしゃったようで、でも境遇はまったく違うわけで、改めて“住む世界の違い”について考えさせられたりもしたのでした。

でもね、普通はそんなものだと思うんですよ。ステージに立つ女性がいくら可憐だったとしても、一時的に恋心に近い気持ちを抱いたとしても、“それだけの話”でしかないということ。

でも芸術家のなかには、僕のような凡人には思いもよらないことを考え、行動してしまうようなタイプもいるようで、たとえばそのいい例がベルリオーズ。

彼は23歳のとき、イギリスから訪れた劇団によるシェイクスピアの劇を見ていたく感動したそうです。もちろん、それは間違いではないのでしょう。でも、この話を突き詰めていくと、感動した原因の何割かは劇そのものとは別なところにあったとも考えられるのです。

花形女優であったハリエット・スミスソンに魅了され、とことん惚れ抜いてしまったということ。早い話が一目惚れです。

結果、なにも手につかなくなり、パリの街をさまよい歩くほどだったそうで、はたから見れば典型的な「恋の病」。よくある話。中学生時代の僕が千住真理子さんにときめいたことと、たいして差はありません。

ところがベルリオーズは、それから連日劇場へと通い続けて熱心にステージを注視することになったのでした。ときには感情を昂らせて雄叫びをあげたりもし、劇場から要注意人物として扱われたというのですからヤバすぎ。ぶっちゃけ、いまの世なら間違いなくストーカーですよね。

いずれにせよ、なんとかスミスソンの気を引こうと画策したものの、結局は失恋することに。とはいえそれで終わらず、やがて愛情は憎しみへと変わっていったというのですから、やっぱりストーカーチックです。

で、そんな彼が27歳だった1830年に完成させたのが、代表曲として知られる『幻想交響曲』。この曲は情景や気持ちなどを織り込んだいわゆる「表題交響曲」で、つまりは失恋の体験を曲にしたわけです。そのストーリーは、「恋に狂ったあげく絶望した芸術家がアヘンを飲んで自殺を図るも未遂に終わり、深く重たい眠りのなかで異常な幻覚を見る」というドロドロな世界。

第一楽章「夢、情熱」の序章は美しい旋律が印象的ですが、ここで表現されているのはアヘンを飲んだあとの状態だというのですからびっくり。それどころか緊張感のある主部では、高まる情熱と、狂気のような苦悩が露出します。

ワルツになっている第二楽章「舞踏会」は、華やかな舞踏会で恋人の姿を目にするシーンを表したもの。続く第三楽章「野の情景」は、若い芸術家が静かな自然のなかで牧童の吹く牧笛に耳を傾ける光景。そんななか、「もし恋人から裏切られたらどうしよう」という不安にかられていくさまが描かれています。

そこまでなら淡い恋の情景として理解もできるのですが、問題はここから。第四楽章「断頭台への行進」では嫉妬心から恋人を殺してしまった芸術家が死刑を宣告され、第五楽章「ワルプルギスの世の夢」では、彼が夢のなかで魔女の饗宴に列席するのです。

有名な「断頭台への行進」を引き合いに出すまでもなく、抑揚に富んだ楽曲の完成度はすばらしいのひとこと。しかし、裏側にあるこうしたストーリーを改めて確認すると、中二病まっただなかの中学生の妄想みたいです。

とはいえ結果的に、この曲はベルリオーズの代表曲として知られることとなったわけです。その一方、新たな恋人との破局などもあったといいますが、特筆すべきは最終的にスミスソンと結ばれたこと。

ただし、この結婚もうまくいかず、スミスソンとの死別後に再婚した妻にも先立たれるなど晩年のベルリオーズは寂しい余生を送ったそう。なかなかうまくいかないものですが、とはいえ残された『幻想交響組曲』の完成度の高さだけは、どうやっても否定できません。



『ベルリオーズ : 幻想交響曲』
ヤクブ・フルシャ, 東京都交響楽団




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印南敦史 プロフィール

印南敦史(いんなみ・あつし)
東京出身。作家、書評家、音楽評論家。各種メディアに、月間50本以上の書評を執筆。新刊は、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)。他にもベストセラー『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)をはじめ著書多数。音楽評論家としては、ヒップホップなどのブラック・ミュージックからクラシックまでを幅広くフォローする異色の存在。

◆ブログ「印南敦史の、おもに立ち食いそば」
◆連載「印南敦史の 名盤はハイレゾで聴く」

 

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