【2/28更新】印南敦史の「クラシック音楽の穴」

2020/02/28
印南敦史のクラシック・コラム「クラシック音楽の穴」。ここで明らかにしようとしているのは、文字どおりクラシック音楽の「知られざる穴」。クラシックにはなにかと高尚なイメージがあって、それが「とっつきにくさ」につながっていたりもします。しかし実際には、そんなクラシック音楽にも“穴”というべきズッコケポイントがあるもの。そこでここでは、クラシック音楽の「笑える話」「信じられないエピソード」をご紹介することによって、ハードルを下げてしまおうと考えているわけです。そうすれば、好奇心も高まるかもしれませんからね。だからこそ肩の力を抜き、リラックスしてお読みいただければと思います。
性的嗜好に翻弄された作曲家がいる

ピョートル・チャイコフスキー


20代のころ、デザイン会社に勤めていたときの話です。当時は、Iさんという直属の上司と仕事をしていました。とてもお世話になったのですが、ひとつだけ、気になって仕方がないことがありました。そこで、ある日の飲みの席でそのことについて話してみました。

「僕、Iさんが休日に女の子を連れて歩いているところが、どうしても想像できないんですよね」

すると、こんな返事が戻ってきました。

「僕は女には興味がないから」

そこで思わず「はー! 硬派なんですねえ!」と返してしまった僕もマヌケすぎますが、当然ながらそういうことではなかったようです。事実、そのあとには「いや……そうじゃなくて、つまりその……男が好きなんだよね。ゲイなんだよ」との答えが。

「でも、そのことを明かしたのは君が初めて。もしばれたら、僕は会社にいられなくなってしまうから」
「そんなもんですかねえ」
「いや、そうだよ。でも、君ならわかってくれそうな気がして」

たしかに僕はゲイにまったく偏見がなく、世の中に同性愛者がいるのはむしろ自然なことだと思っていました。

だから、以後はIさんの恋愛相談に乗ったりもしていましたし、ゲイの人がやっている飲み屋にも連れていってもらうこともありました。

でもIさんが言うように、LGBTへの理解が深まっている現代とは違い、あのころは現実問題として、偏見を持つ人のほうが多かったのかもしれません。そういう雰囲気を感じていたからこそ、Iさんは会社にばれることを極度に恐れていたのでしょう。

さて、クラシックの世界で同性愛者といえば、すぐに思い浮かぶのがチャイコフスキーです。心に残るメロディ、心地よいリズム感覚など特筆すべき点は非常に多く、とくにバレエ音楽はすばらしいですよね。

「白鳥の湖」「眠れる森の美女」もさることながら、個人的には「くるみ割り人形」が子どものころから大好きでした。交響曲だと、やっぱり第4番かなー。

彼は幼少時から音楽の才能を発揮していましたが、音楽では生活していけないという事情もあり、10歳のときにサンクトペテルブルクの法律学校に寄宿生として入学し、卒業後は法務省に勤めました。

音楽家としては遠回りをしたわけですが、それはともかく、ほぼ男子校状態だったこの法学校時代に同性愛に目覚めたと言われているのです。

にもかかわらず、28歳のときにはアントニーナ・イヴァーノヴァ・ミリューコヴァという女性から熱烈なアプローチを受け、結婚することになります。しかも、まず2か月ほど文通をし、そののち会って1週間程度で結婚したというスピード婚。

「同性愛者だったのに、なぜ?」と思わずにはいられませんが、もしかしたら自らの性的嗜好を隠すための偽装結婚だったのかもしれません。その証拠に、肉体関係は一切持たないという条件つきで結婚したのだとか。

むちゃくちゃな話ですが、当然ながらそんな結婚がうまくいくはずもありません。結果、アントニーナは自殺未遂にまで追い込まれ、チャイコフスキー自身も精神を病んでしまうことになったのです。

彼自身については自業自得だという気がしなくもありませんけれど、いずれにしてもふたりはわずか3か月程度で結婚生活を終えることになったのでした(離婚が成立しなかったため、以後も死ぬまでアントニーナに仕送りを続けたという説も)。

それ以前にも、資金援助を受けていた富豪の未亡人であるフォン・メックと会わずに交際したり(先に触れた交響曲第4番は夫人に捧げられたもの)、アントニーナとの関係が終わって以降、44歳のときに甥っ子(14歳!)と恋愛関係に陥るなど、他にもツッコミどころ満載のなのですが、どうあれ自らの性的嗜好に翻弄された人生を送ったというべきなのかもしれません。

「ゲイは、きらびやかな音楽が好きなんだよね。ハウス(というダンス・ミュージック)がゲイ・カルチャーのなかから生まれたのも、そのせいなんだ」

かつて、Iさんからそう聞いて納得したことがあります。そう考えると、チャイコフスキーの音楽のきらびやかさにも納得できる気がしますが、それは考えすぎでしょうか?



『チャイコフスキー:《くるみ割り人形》、《眠りの森の美女》組曲』
パリ管弦楽団, 小澤征爾




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印南敦史 プロフィール

印南敦史(いんなみ・あつし)
東京出身。作家、書評家、音楽評論家。各種メディアに、月間50本以上の書評を執筆。新刊は、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)。他にもベストセラー『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)をはじめ著書多数。音楽評論家としては、ヒップホップなどのブラック・ミュージックからクラシックまでを幅広くフォローする異色の存在。

◆ブログ「印南敦史の、おもに立ち食いそば」
◆連載「印南敦史の 名盤はハイレゾで聴く」

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