マーヴィン・ゲイ『ホワッツ・ゴーイング・オン』
ハイレゾとの相性も抜群。さまざまな意味でクオリティの高いコンセプト・アルバム
「シンガー」と「アーティスト」の境界線は、ときに当事者を困惑させるものなのかもしれません。本人のなかにアーティスト志向があったとしても、スタッフやリスナーがそれを求めていなければ、以後もシンガーであり続けるしか道はないからです。
でも、その時点でシンガーを超えてしまっている本人にとって、それはつらいことでもあるはず。そこで下手な立ち回りをしてしまえば、「あいつ、勘違いしてるよね」というように誤解されるなど、墓穴を掘ることにもなりかねないのですから。
とはいえそれを乗り越えられる人もいるわけで、たとえばソウル・ミュージックの世界でいうと、そのハードルを乗り越えることができたのがマーヴィン・ゲイです(のちのち離婚問題や破産やらのトラブルに見舞われるのですが、それはさておき)。
なぜなら、モータウンからデビューした時点での彼は、スタンダード・ナンバーを歌うポップ寄りのシンガーだったから。ナット・キング・コールのような、白人層からの支持を得やすい“シンガー”として売り出されたわけです。
たとえばオーケストラをバックにブロードウェイ・ミュージカル・ナンバーを歌う1964年の『Hello Broadway』などを耳にしてみれば、初期の方向性がよくわかるはず。
もちろんこれはこれで、とても聴きやすく、よくできてはいます。しかし、人の曲を歌うだけのポップ・シンガーである以上、主義主張を盛り込むことはビジネス的に許されません。
悪い言い方をすれば、聴き手のニーズを配慮した“商品”であるからです。商品が期待に反した主張をしたりすれば、ファンは失望する可能性もあります。いわばそれは、ポップ・シンガーの宿命であるともいえるのです。
しかしマーヴィンは、そんな立場に甘んじることはできなかったようです。1971年にリリースした『ホワッツ・ゴーイング・オン』によって、アーティストとしての方向性を明確に示してみせたのです。
とはいえ、最初からすべてがうまくいったわけではありませんでした。「ホワッツ・ゴーイング・オン」はベトナム戦争に対する疑問や不安を表現した反戦曲だったため、所属していたモータウン・レーベルの社長であるベリー・ゴーディはこれを評価しなかったわけです。
この曲の完成度や価値は、以後の世代である我々にとってはもはや“常識”ですが、その反面、ゴーディの気持ちもわからないではありません。
なにしろ、ポップ・シンガーとして売っていく予定だった男が、反戦などのメッセージ性を志向しはじめたのです。つまりゴーディにとっては、「それ、約束が違うじゃんよ」ってな感じだったのだろうということ。
でも結果的に、マーヴィンのこの選択は間違っていませんでした。幾多の障害を乗り越えてつくりあげられたアルバム『ホワッツ・ゴーイング・オン』は、メッセージ的にも、楽曲的にも、きわめて高品質な作品となったからです。
メッセージ性の高さもさることながら、もうひとつの特筆すべきポイントは音楽性の高さです。ソウルとジャズをミックスさせたような心地よい質感があり、オーケストラやパーカッションが表現する奥行き、立体感が秀逸。
多重録音されたマーヴィンのヴォーカルも、バック・トラックと見事な融合感を見せます。つまり音楽的にもさまざまな実験が行われており、それらが見事に成功しているということ。
当然ながらそんな側面は、e-onkyoユーザーにとってのメリットでもあります。オーディオ的なクオリティが高いので、その質感はハイレゾで聴くとさらに際立つのです。
なお、ベトナム戦争に対する不安感を“What’s Going On(これからどうなってしまうんだろう)”という言葉に置き換えたコンセプト・アルバムだということもあって、テーマ曲といえる「ホワッツ・ゴーイング・オン」のメロディはアルバムのいたるところに顔を出します。
そんな構成も、オーディオ面との相性抜群。聴いていると、マーヴィンの心のなかに入り込んだような感覚にすらなってしまうのです。しかもテーマが重たいとはいっても、その質感はとても心地よいもの。
ちなみに「ホワッツ・ゴーイング・オン」に続いて登場する「ホワッツ・ハプニング・ブラザー」は、ベトナム戦争から帰還した弟に捧げられた反戦歌。他にも「セイヴ・ザ・チルドレン」では児童虐待への問題提起をし、「マーシー・マーシー・ミー(エコロジー)」では環境問題に踏み込み……と、タイトル曲以外にもさまざまなメッセージが込められています。
一般的にメッセージ・ソングは必要以上に重苦しくなってしまいがちですが、少なくともこのアルバムに関しては心配不要。ソングライターとしてのマーヴィンの才能が余すところなく発揮されているので、心地よく聴くことができるのです。
マーヴィンはこの作品を契機として、以後もさまざまなコンセプト・アルバムを送り出していくことになります。しかもおもしろいのは、ここでベトナム戦争の悲惨さを浮き彫りにしておきながら、1973年の『レッツ・ゲット・イット・オン』も1976年の『アイ・ウォント・ユー』も性愛をテーマにしている点。
そもそも“Let’s Get It On”は「エッチしようぜ」って意味ですし、「アンタ、ちょっと前まで社会問題に切り込んでたんじゃなかったっけ?」とツッコミを入れたくもなるのですが、そんな振り幅の広さもまた、マーヴィンの魅力のひとつ。
これらの作品も本作に負けず劣らずの完成度なので、ぜひ聴いてみてください。
◆今週の「ハイレゾで聴く名盤」

『What's Going On』/ マーヴィン・ゲイ

『Hello Broadway』
/ マーヴィン・ゲイ

『Let's Get It On』
/ マーヴィン・ゲイ

『I Want You』
/ マーヴィン・ゲイ
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印南敦史 プロフィール
印南敦史(いんなみ・あつし)
東京出身。作家、書評家、音楽評論家。各種メディアに、月間50本以上の書評を執筆。新刊は、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)。他にもベストセラー『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)をはじめ著書多数。音楽評論家としては、ヒップホップなどのブラック・ミュージックからクラシックまでを幅広くフォローする異色の存在。
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