ドイツのプロ音響ブランド、RMEの機材を核としたシステムでハイレゾ作品を制作する音楽配信レーベル“RME Premium Recordings”から、またしてもユニークなタイトルが登場しました。同レーベルとして11作目となる『Contigo en La Distancia 〜遠く離れていても〜』は、ヴァイオリニスト喜多直毅さんとピアニスト田中信正さんという二人の異才が、ピアソラやジョビンをはじめとする南米の音楽を独自の感性で描き切ったアーティスティックな作品です。アルバムのリリースに際して行われたプレス発表に出席した喜多直毅さんをはじめ、制作スタッフらのコメントを通して、本作の聴きどころを探ります(本文は敬称略)。
文・撮影(取材時)◎山本 昇
■ある調律師の“紹介魂”
このデュオのアルバム『Contigo en La Distancia 〜遠く離れていても〜』が作品化されたのは、ある調律師の“紹介”がきっかけだったという。6月20日、シンタックス・ジャパンの試聴ルーム“mEx-Lounge”で行われたプレス発表で、本作のA&Rディレクターを務めた三ヶ田美智子は、ヴァイオリニスト喜多直毅との出会いを振り返ってこう語る。
「私は20年間、ピアノ調律師をやっておりまして、録音やコンサートの仕事に関係することも多くあります。会場に演奏家を紹介したり、人をつなぐ仕事も若い頃から行っていたんですね。喜多さんと初めてお会いしたのは、私が専属でピアノ調律をしている“jazz inn LOVELY”という名古屋の老舗ライヴハウスでした。喜多さんがツアーでそのお店にいらっしゃったときに、私もちょうど調律を行っていたのですが、ヴァイオリンを弾くその姿を一目拝見したときのインパクトたるや、ものすごいものがありまして、すぐにファンになりました。そして、こういう演奏家さんを捜している人に紹介したいなと、ずっと想い続けていたんです」
そうした想いはやがて、“喜多直毅クアルテット”による『Winter in a Vision』(2014年)として実現。アルゼンチン・タンゴをジャズや現代音楽の手法で再構築した注目作は、ここe-onkyo musicでもハイレゾ版が配信されている。
「喜多さんと田中信正さんのお二人は、数年前からライヴハウスで共演していて、それがとても面白かったんです。南米の名曲集とか、ヨーロッパの歌物とか、テーマを決めてやっていたんですが、それがまた素晴らしくて。もっとたくさんの人たちに聴いてもらいたいと、“紹介魂”がうずきまして(笑)。それが今回のご縁に結びつきました」
田中信正と言えば、大胆かつ繊細なインプロヴィゼーションにも定評のあるジャズ・ピアニストで、2015年にはトリオによる傑作『作戦失敗』を発表しており、こちらもe-onkyo musicでハイレゾが楽しめる。
「とにかく、歌手の方から大人気のピアニスト」と三ヶ田が紹介する田中信正は、そう聞くと抑制の利いた演奏をイメージしたくなるが、実像は少し異なる。
「相手に寄り添うだけでなく、アグレッシヴに動いたりもする。そんなスタイルのピアノを、まだ知らない人にどんどん伝えたくなるんです」(三ヶ田)
また、ジャズ・ピアニストとして知られる田中信正には一方で、クラシックの要素も認められると三ヶ田は言う。
「ジャズ・ピアニストにはいろんなタイプの方がいらっしゃいますが、田中信正さんはクラシックの美意識も兼ね備えている方です。これは公表されているのでお話ししますが、ご自宅では、フランスのメーカーでショパンが愛したと言われるプレイエル(PLEYEL)のピアノを弾いていたりして、音色にはこだわりを持っている方ですね」
では、当事者たちは相手の演奏をどう見ているのか。例えば、プレス発表に同席した喜多直毅は、田中との共演をこう語る。
「僕にとって田中信正さんのピアノの印象は、まず音色に独特の美しさがあるということ。そして、たくさんのジャズ・ヴォーカリストとも共演している田中さんは、歌わせてくれるピアニストでもあります。僕も歌うようにメロディを弾きたいと思っていますので、まさに一緒にやってみたかったピアニストの一人。共演はとても楽しかったですね」
プレス発表で本作について語る喜多直毅さん
ディレクターを務めた三ヶ田美智子さんの本職はピアノ調律師
■楽器に対する両者のこだわり
そんな喜多が今作のヴァイオリン演奏でフィーチャーしたのがガット弦である。
「羊の腸を伸ばして撚り合わせたのがガット弦ですが、それに鉄線を巻いてコーティングしてあるものもあります。今回使ったのは、コーティングしていない剥き出しのもので“裸ガット弦”と言われています。この弦を使うと、いい意味での雑味やノイズ成分が音の中に籠もって、普通の弦では出ない周波数帯があるらしく、オーガニックと言いますか、人の声に近い温もりのある響きになるという特徴があります」(喜多)
ただし、そうしたガット弦は、演奏や管理に難しいところもあるそうだ。気温や湿度の影響を受けやすく、傷みやすい。また、コーティングをしていないため、弾いているうちに撚り合わせてある腸がほつれてきてしまうらしい。しかし、「弦が摩耗して死んでいく様も、今回はいいなと思いつつ弾きました」と喜多は言う。
「2日間のレコーディングで、2日目にはもう弦がほつれてきたり摩耗してきて、思わぬところでノイズが出たり、音がひっくり返ってしまったりもしているんですが、そういうコントロールできずに鳴ってしまう音も味わい深いと思って、あえてこの弦を使い続けたんです」
「裸ガット弦」を張った喜多さんのヴァイオリン
ヴァイオリンの喜多が固執したのがガット弦なら、ピアニストの田中信正がこだわったのはピアノそのもの。今回使用されたピアノは、日本ではやや珍しいニューヨーク・スタインウェイだという。
「スタインウェイには、ドイツのハンブルクとアメリカのニューヨークの2カ所に工場があり、日本にあるスタインウェイは営業圏のからみで多くがハンブルク製なのですが、あえてニューヨーク・スタインウェイのフルコンサート・ピアノを入れているホールも数カ所あります。今回、ご縁があって私がホールをブッキングするにあたり、田中信正さんとも相談したうえで決めたのがニューヨーク・スタインウェイでした。個性的な音色が特徴のピアノですが、“歌”にはよく合うんじゃないかという想いで選びました」(三ヶ田)
■レコーディングのコンセプトとマイキング
そのようにして選定されたのが今回の録音現場である三鷹芸術文化センターの「風のホール」だ。レコーディング/ミキシング・エンジニアは、主宰するUNAMASレーベルのハイレゾ作品でも高い評価を得ているミック沢口。プレス発表の場で録音の全体像についてこう説明してくれた。
「アルバムを制作する時にいつも考えるのが、“全体の絵をどうするか”です。本作では、お二人のリハーサルを聴いた時に、“朝靄が漂う湖面に浮かぶ小舟の上で、喜多さんが笛を奏でているようだなあ”と感じたので、ホールの空気感をたくさん取り入れたピアノの上に、焦点が定まったガット弦のヴァイオリンが乗るというマイキングにしました」
事前にコンセプトをしっかりと練り、現場ではそれに沿って確実に作業を進めていくのがミック沢口のいつもの手法。続いて、マイキングのポイントをこう話す。
「まず、ガット弦を張った喜多さんのヴァイオリンでは、デリケートなニュアンスをちゃんと録りたいと思いました。そこで、通常は1本のマイクで録るところ、同じマイク(NEUMANN KM-133D)を2本使いました。マイク1本のガツンとくるような良さもあるんですが、2本使用すると情報量がすごく増えますから、ガット弦で演奏するニュアンスをうまく録ることができます。マイクをステレオにすることで、ホールの空気感もより捉えることができますからね」
ピアノの音を狙うのも、同じくノイマンのデジタル・マイクKM-133Dで、こちらには3本を使用している。
「3本の配置は、L-RとCです。L-C-Rと並べるのではなく、L-Rでピアノ全体を録り、低域の弦を狙った一番奥に立てたマイクをセンターに定位させています。この組み合わせのほうが、前の音場でピアノの音が安定すると思うので、ピアノはだいたいこの3chで録っています」
アンビエンス・マイクは、サンケンのCO-100Kを2本使用。5.0chヴァージョンのリア2chに振り分けられ、残響時間が1.8秒という特性を持つ「風のホール」の豊かな空気感を演出している。また、サンケンのワンポイント・ステレオマイクCUW-180も2本立ててあり、こちらの計4chはハイト・チャンネル用に収録されている。プリ・アンプはRMEのDMC-842 M(デジタル・マイク用)、Micstasy M(アナログ・マイク用)を使用、同じくRMEのオーディオ・インターフェースMADIface XTにより24bit/192kHzでレコーディングされた。これまで同様、徹底したノイズ低減策が施され、不要な雑音を感じることなく、ハイレゾを楽しめる音質となっている。
本作のレコーディングが行われた三鷹芸術文化センター「風のホール」
現場で録音作業にあたるミック沢口さん
■ラテン音楽の人気曲をピックアップ
収録曲についても触れておこう。タイトル・チューン「Contigo en La Distancia 遠く離れていても」は、キューバのシンガー・ソングライター、セサル・ポルティージョの代表曲で、多くのアーティストにカヴァーされているラテンの大ヒット・ナンバー。
「カエターノ・ヴェローゾやルイス・ミゲルも歌っている、みんなが知っているラテンのスイートな歌です。実は田中さんとライヴでこの曲を共演したことが、デュオ活動を始めるきっかけにもなりました。今回はあらためて、素晴らしいピアノとミック沢口さんの録音で作品にすることができ、とても嬉しく思っています」(喜多)
タイトルからしてユーモラスな「蚊の飛行(O Voo da Mosca)」は、ブラジルのマンドリン奏者、ジャコー・ド・バンドリンが作曲した短い曲で、喜多によればテクニックを鍛えるには打って付けのナンバーなのだとか。ほかにも、アントニオ・カルロス・ジョビンの「オーリャ マリア(Olha Maria)」や「エウ チ アモ(Eu te amo)」、アストル・ピアソラの「Chiquilín de Bachín(チキリン デ バチン)/バチンの少年」といった人気曲も採り上げられている。そんな中、喜多が最も想いを込めて選曲したと覚しい1曲が「ソレダー(Soledad)/孤独」だ。
「僕はアルバムを作るとき、死を描くことを意識せずにはいられません。〈ソレダー〉は、その核心かなと思います。先ほど、ガット弦によるノイズのことをお話ししましたが、それは三味線や尺八など邦楽器で言うところの“さわり”に近いものです。この曲では、ピュアな音だけでなく、そうしたノイズも含めた空気感を出したいと思いました」
弦にあえてビビリを加えて共鳴させている三味線。息の漏れる音や風切り音が混ざる尺八。邦楽器の音色を決定づけるそうした要素を“さわり”と呼ぶが、この曲で聴かせる喜多のヴァイオリンは確かに凄まじく、時に甘美に、時に暴力的にその形相を変化させ、驚くべきノイズ成分を放出させている。ヴァイオリンという西洋楽器に対する一般的な理解を破壊するように、音を軋ませながら死のイメージへと突き進む「ソレダー」は、間違いなく本作のハイライトの一つだ。
喜多直毅と田中信正という希有なミュージシャンが出会い、その音楽を広く知らせるために尽力する人がいれば、その音楽に相応しい録音を手掛ける人がいて、さらにそれを様々な形で支援する人々もいる。そうした素晴らしいリレーションを経て出来上がった本作を、ぜひ心ゆくまで堪能してほしい。
記者たちを前に、即興演奏を披露してくれた喜多さん