【没後40年企画】オーディオ評論家 山之内正セレクト グレン・グールド25選

2022/12/01

20世紀で最も有名であり、且つ個性的なピアニスト=グレン・グールド。1956年にリリースされたバッハ『ゴールドベルク変奏曲』は、現代の音楽界において最も衝撃的かつ有名な演奏として多くのファンを魅了し続けています。グールドの生誕90周年であり、没後40年のメモリアル・イヤーでもある2022年の締めくくりに、e-onkyo musicでは、オーディオ評論家の山之内正氏をセレクターに迎え、オーディオでこそ楽しみたい「グレン・グールド25選」をご紹介いたします。

 

グレン・グールドは1950年代前半から1982年までの約30年間にわたって演奏活動を展開した。それはちょうどLPレコードが誕生して熟成した時代と重なり、ハイファイオーディオの全盛期でもあった。録音再生の技術と文化が著しい進化を遂げた時期、グールドが登場したのはたんなる偶然とはいえない。

いま振り返ると、グールドが1964年に聴衆の前から姿を消してスタジオ録音に軸足を移したのは、オーディオの革新と深く関わっていたとしか思えない。もしも彼があと少し早く生まれていたら、録音に全精力を傾ける道を選んでいたかどうか。

グールドは、自ら追い求める理想の響きを聴き手に正確に伝えるために、成熟期を迎えたLPレコードの可能性にかけた。現代では珍しくないが、60年前にグールドが下した決断は特にクラシックの演奏家としては画期的なもので、まさに時代を先取りしていたのである。

2022年はグールドの没後40年にあたる。彼が没したのと同時期にCDが登場してオーディオはデジタル時代に突入し、いまやストリーミングへと向かっている。その変化を超越して復活を遂げたLPレコードで聴くのもグールドの鑑賞にふさわしい楽しみだと思うが、時代を超えた演奏の価値を堪能するためには、ハイレゾを入手するのが早道だ。幸いなことに、マスターに忠実にリマスタリングされた24bit音源で主要な録音の大半が手に入り、グールドが望んだであろう原音に忠実な音で存分に楽しむことができる。もしかすると、録音を介して彼が聴き手に伝えたかったメッセージは、再生環境に恵まれた現代の聴き手の方がより深く受け止められるのかもしれない。

ここではグールドの膨大な録音のなかから、録音ならではの長所が伝わる重要な音源を大まかな時代の流れに沿って紹介することにしよう。録音の視点で見ると、グールドが活躍した時代はモノラルからステレオへの移行期にスタートし、アナログ録音からデジタル録音への変化が始まった時期にまで及んでいる。さらに、物理メディアが切り替わる節目のときに繰り返しリリースされてきたこともあり、グールドのディスクは膨大な数に上る。そんな状況をわかりやすく整理するためにも、ここでは録音の視点から重要なアルバムを厳選して紹介することにしよう。

1955年に録音されたゴルトベルク変奏曲からコンサートドロップアウトの1964年までを第一期、主にニューヨークのCBSスタジオで収録を重ねた1970年前後までの第ニ期、そして最後の録音が行われた1982年までの第三期という具合に3つの時代に分けてタイトルを絞り込む。約20タイトルのなかで、特にグールド初体験の聴き手にお薦めしたい「必聴アルバム」は★を付けているので参考にしていただきたい。


執筆・選盤:山之内正




<1955~1964年>


1955年のゴルトベルク変奏曲を皮切りにコロンビア(CBS)レーベルでの録音がスタートし、バッハとベートーヴェンを中心に据えて精力的な演奏・録音活動を展開する。ゴルトベルク変奏曲やパルティータ集はモノラル音源がオリジナルで、今回のハイレゾ(44.1kHz/24bit)音源もステレオではなくモノラルである。
グールドのゴルトベルク変奏曲がどれほど斬新なものだったかは、それ以前に録音された他の演奏を聴けばすぐにわかる。一音一音を短く切るスタッカート奏法を積極的に採り入れ、同時に進行する複数の旋律の強弱と音色の対比は鮮やかさのきわみ。疾走するテンポも異例の速さで、音色と強弱の精密なコントロールによって変奏ごとに驚くほど変化に富んだ響きを生み出す。それまで長いと感じていた曲がアッという間に終わってしまうほどで、別の曲のように思えてくる。ゴルトベルク変奏曲は最晩年の1981年に再録音した音源も発売されているので、この1955年の録音に興味を引かれたなら、両者を聴き比べてみることをお薦めする。

ゴルトベルク変奏曲の衝撃が冷めやらぬなか、同じくバッハのパルティータ集が登場。さらにベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番と併せてバッハのピアノ協奏曲第5番も収録したが、この時期は演奏会にも積極的に取り組み、1957年には当時のソ連への演奏ツアーにも出かけて絶賛を博した。20代半ばにして実演と録音でピアニストとしての評価と人気は一気に上昇し、CBSにとって重要なアーティストとして継続的に録音が進められることになった。

1960年代にはバッハの平均律クラヴィーア曲集(第1巻、第2巻)の録音に挑戦するが、全曲を一度に録音するのではなく、第2巻は6年間かけて完成させる慎重な姿勢を見せている。録音の視点から見ると、ここまで時間が空くと演奏会場など録音条件の違いが無視できなくなり、実際に作品による音の差は小さくない。ここで推薦する第1巻は1962年に録音されたもので、音調には一貫性がある。同じ年にはバッハのフーガの技法を珍しくオルガンで演奏しているが、トロントで行われたこの録音は深々とした空間をとらえた優秀録音である。

この時期の音源は、初期のモノラル録音も含めてグールドのピアノ録音の特長をはっきりと聴き取ることができる。楽器との距離が近く、細部の克明な描写が手に取るようにわかること。そして、演奏しながらハミングのように歌うグールドの声が隠しようもなく記録されていることもすぐに気付く特長の一つだ。各声部の強弱や音色の変化にこだわり、理想の響きを追求しているにも関わらず、ピアニストの声に聴き手がどう反応するかについては頓着しない。というより声を出さずに演奏するのは難しかったようで、晩年まで変わることなく克明に刻まれている。

グールドファンにはすっかりおなじみの歌声だが、録音環境によっては目立ちにくくなることもあるし、同じ音源でもマスタリングの違いで声の調子と音色が変わることもある。1980年代、デジタル録音になって声が非常にきれいに聴こえるようになり、びっくりした記憶がある。












<1965〜1970年>


1964年を最後に聴衆を前にした演奏活動から退き、それ以降はスタジオやホールでの録音と映像収録に専念する姿勢に転じる。それまで以上に録音活動に集中できるようになり、ベートーヴェンやブラームスなどバッハ以外の作曲家の作品を録音する機会も増えていくが、それでも他のピアニストに比べるとレパートリーは広いとはいえない。

録音活動に専念するようになった背景として、ピアノの幅広い音域を均等なバランスで収録できるようになるなど、録音技術の進化とノウハウが蓄積された事実を見逃すことはできないだろう。モノラル収録の時代に比べるとダイナミックレンジにも余裕が生まれ、以前に比べて精度の高い編集ができるようになったこともグールドにとって深い意味があったはずだ。

対位法を駆使したバッハの作品では複数の旋律が広い音域のなかで複雑に交錯する。チェンバロのような音量の変化を表現しにくい楽器ではピアノのように旋律や声部を対比させるのが難しく、表現に制約が生まれるが、グールドがピアノに向かうと音量と音色の変化は一気に広がり、まるで別の曲のように感じられるほどだ。この時期に録音された平均律クラヴィーア曲集第2巻はその演奏アプローチの極致とも言える到達点といえるだろう。ハイレゾ音源ではグールドならではの強弱と音色の微妙な階調変化を鮮明に聴き取ることができる。

この時期に取り組んだベートーヴェンの作品はピアノ協奏曲も含めていずれもスタジオ録音であり、1960年代前半のようなコンサート活動とリンクしたものではない。その結果として、以前よりもさらにグールドの志向が色濃く反映されることになり、ピアノ協奏曲第5番のゆったりとしたテンポ運びなど、はっきりした個性を聴き取ることができる。ここではストコフスキーが柔軟な姿勢でオーケストラをコントロールしていることもあってスリリングなハプニングはそれほど起こらないが、堅固な推進力や安定したハーモニーと詩情豊かなグールドの独奏が美しく調和し、聴き応えのある演奏を繰り広げている。ピアノとオーケストラを立体的に描写した録音も秀逸だ。

個性的な遅めのテンポといえばモーツァルトのピアノソナタ第11番を外すわけにはいかない。第1楽章の主題と変奏曲だけでなく、おなじみの第3楽章「トルコ行進曲」もテンポとフレージングが他のどのピアニストとも異なり、グールドの解釈の斬新さに最初はとまどうはずだ。だが、特に変奏曲は聴き進むにつれて聴き手を強く引き込むグールドならではの魅力があるのでぜひお試しを。










<1971〜1982年>


録音活動最後の10年間に相当するこの時期はグールドを取り巻く環境に少なからず変化があった。録音の視点からみると、長年録音を続けてきたニューヨークのCBSスタジオからトロントのイートン・オーディトリウムに会場を移したことと、ハイドンのソナタ集とゴルトベルク変奏曲の再録でデジタル録音を導入したことが大きな変化で、そのほかにも愛用してきたスタインウェイが破損して別のピアノを探すというアクシデントにも見舞われた。

録音でなければ挑戦が難しいような作品にもあえて取り組んでいて、バッハのトッカータ集やベートーヴェンの一連のバガテルの録音、そして自ら編曲したワーグナーの管弦楽作品集など、意欲的なプログラムが並んでいる。特にマイスタージンガー前奏曲やジークフリート牧歌はワーグナー作品の音響的な仕掛けと管弦楽法の秘密を解き明かす明晰な編曲と演奏で、作品の本質を的確にとらえるグールドの才能がよくわかる注目作だ。

作品への共感の強さが伝わる演奏として、スクリャービンの作品集も推薦に値する。そのしばらく後に取り組んだシベリウスも含め、音場の透明感が高く、澄み切った空気のやや冷たい温度感に強く惹かれる。演奏会場の余韻をいつもより眺めに捉えているにもかかわらず、響きが混濁しない点も特筆に値する。

最晩年に収録したハイドンの最後のピアノソナタ集とバッハのゴルトベルク変奏曲は、グールドが初めてデジタル録音に取り組んだ重要な録音である。1960年代以降は録音技術の進化に強い関心を寄せていたグールドにとって、アナログ録音にはないデジタルならではの長所は大いに気になったはずだ。実際にはこの2作品はLPレコードで発売された時点でもそれまでの録音に比べて一音一音の粒立ちが明瞭でピアニシモの静寂感も際立っていた。ピアノが目の前に広がる距離の近さは相変わらずだが、楽器の特長や余韻の消え際まで精妙にとらえた録音の威力は絶大で、遅めのテンポでていねいに歌い込むグールドの個性が鮮明に浮かび上がってくる。














 

■プロフィール




山之内 正(やまのうち ただし)
神奈川県横浜市出身。オーディオ専門誌編集を経て1990年以降オーディオ、AV、ホームシアター分野の専門誌を中心に執筆。大学在学中よりコントラバス演奏を始め、現在も演奏活動を継続。年に数回オペラやコンサート鑑賞のために欧州を訪れ、海外の見本市やオーディオショウの取材も積極的に行っている。近著:「ネットオーディオ入門」(講談社、ブルーバックス)、「目指せ!耳の達人」(音楽之友社、共著)など。

◆Phile Web連載:山之内正のデジタルオーディオ最前線
https://www.phileweb.com/magazine/digital-audio/


 


 

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