オリジナル曲での表現にこだわるピアニスト妹尾美里の最新作が旧譜3作と共にハイレゾで登場!

2022/08/28

3歳からピアノに親しみ、クラシックの音大ピアノ科を卒業した妹尾美里(せのお・みさと)さん。その後、あるきっかけでジャズに転向し「自身で作曲し演奏するスタイル」を貫き、すでに6枚の作品を発表しています。そしてこの度、6年ぶりの新作となる『猫の森 Forêt de Chat』が、レコーディングエンジニアの阿部哲也さん(HD Impression)の手により完成しハイレゾでのリリースとなりました。妹尾さんの耳の良さに阿部さんが舌を巻く一幕もあったというニューアルバムの制作過程、さらに、ハイレゾで甦った『HANA~chatte tricolore~』(2012年)、『La Blanche』(2016年)、『Sofia』(同)の聴きどころとは? お二人にリモートでお話を伺いました。


取材・文:山本 昇


猫の森 Forêt de Chat
妹尾美里



INTERVIEW:妹尾美里、阿部哲也(HD Impression)


──今回、ハイレゾでリリースされる4作のうち、阿部さんがレコーディングエンジニアを務めたニューアルバム『猫の森 Forêt de Chat』以外の3作は、2018年に癌闘病の末に亡くなったレコーディングエンジニアの赤川新一さんが手掛けたものですね。


阿部:はい。僕は、赤川さんが立ち上げた会社「STRIP」にいたことがあり、彼が妹尾さんの作品を録っていたことも知っていました。音に対する強いこだわりで知られる赤川さんが手掛けたこれらの作品が、ハイレゾで出ていないことはずっと気になっていたんです。今回の新作『猫の森』のお話をいただいたのを機に、過去タイトルのハイレゾ化も提案させていただきました。

──妹尾さんも、ハイレゾには興味があったのでしょうか。

妹尾:私はそうしたデジタル技術やオーディオにはそれほど詳しくはないのですが、録音やミックスではいつも、ピアノの音色がよりナチュラルな感じで聞こえるようにしてほしいとお願いしていました。阿部さんとは以前、映像のための曲の録音で初めてご一緒させていただきましたが、そのときからハイレゾの良さについては伺っていました。『猫の森』の録音では音作りの方向性など、とても深く追求することができ、阿部さんが音をとても大切にしてくださっているのもよく分かりました。そんな阿部さんのご提案ですから、これはぜひハイレゾの世界にも踏み込んでみるべきなのかなと思いました。

 

オリジナル曲にこだわる猫好きピアニスト


──幼少よりクラシックピアノを学ばれた妹尾さんが、ジャズへ傾倒することになったきっかけは何だったのですか。


妹尾:ジャズを身近に感じたのはけっこう遅かったんです。音大ではクラシックを学んでいましたが、その頃にジャズミュージシャンの方と知り合い、ライブを聴きに行ったりするようになりました。いちばん好きになったジャズピアニストがミッシェル・ペトルチアーニでした。少しずつジャズを勉強していくうちに、いろんなアーティストが作ったオリジナル曲というものに惹かれました。私がジャズという音楽で最も魅力だと感じる“魂を揺さぶられるようなパッション”も、そのミュージシャンの個性にこそ表れると思ったんです。

──実際、妹尾さんの作品はすべてがオリジナル曲で占められています。

妹尾:自然にそうなったという感じですね。ジャズの勉強をし始めた頃はスタンダードも弾いたりしていましたが、自分の作品を作るにあたって、自らの中のものをよりさらけ出せるのがオリジナル曲でした。

──では、その曲作りについて教えてください。作曲するとき、どんなものから曲想を得ることが多いですか。

妹尾:そうですね。基本的にはピアノを弾きながら作ることが多いのですが……。例えば、今回の『猫の森』は、「ルイの冒険」という子猫の物語を描いた絵本(絵:宇野亜喜良、田島征三/文:南部和也)の絵や言葉から湧き出てくるイメージが基になっています。ミックスなど最終的な音作りの段階でも、シーンや絵を思い浮かべてそのイメージに合うように進めていきました。

──作曲の際には、アレンジも同時に作っていく感じですか。

妹尾:メンバーと一緒に作るアルバムでは、一緒に演奏する中でアレンジを組み立てていくこともありますから、その顔ぶれによってアレンジの方向性も変わっていきますね。ライブを重ねることで作り上げていく曲もあります。今回の新作はソロピアノとベースのデュオなのですが、特にソロピアノでは、現場で作っていく部分が大きかったです。楽譜もないまま、録音しながら作り込んでいくことで、とことん自らとピアノに向き合う濃密で貴重な時間になりました。

──妹尾さんが作る曲はリフが印象的なものも多く、またどの曲もしっかり盛り上がるポイントも巧みに用意されていて、常に全体の構成を意識されているのかなと思いました。

妹尾:そのあたりも、作りながら見えてくる感じでしょうか。基本的には自由にピアノと戯れる中で心に残るメロディやフレーズが浮き彫りになっていく感じで、このフレーズがあって、次はこう行ってみたいな……試行錯誤しながら、本当に弾く中で作られていくことが多いですね。頭の中でというよりは、感覚的な部分を大切にしています。

──新作のほかにも、猫をモチーフにした曲が多いですね。

妹尾:はい、メチャクチャ好きなんです。単に「好き」というレベルじゃないくらいに(笑)。なんでこんなに取り憑かれるのか不思議になるんですが、容姿も精神性も神秘的で魅力的な生き物だと思います。

──作曲に関して、影響を受けたアーティストはいますか。

妹尾:そうですね。いちばんはミッシェル・ペトルチアーニです。クラシック出身のピアニストにとってジャズのフィーリングは、例えばリズムの取り方など、根本的な部分での違いを意識させられることも多いんですね。私はラテンなどのフィーリングの方がすんなり入ってきたこともあり、当初はミシェル・カミロやチック・コリア、アビシャイ・コーエンといったアーティストや、キース・ジャレットのようなパッションを感じさせ、メロディや音色のきれいなピアニストにも惹かれました。

──阿部さんにとって、妹尾さんというアーティストの魅力とは?

阿部:妹尾さんは本当に耳がいいんですよ、怖いくらいに。ミックスやマスタリングの場面で、ほんの0.01くらいのレベルの違いを聴き取って、「こっちのほうがいい」とか言われる(笑)。怖いなという気持ちと、そんなアーティストと一緒に作品を作ってみたいなという気持ちが相半ばしていましたが、怖い物見たさもあってご一緒させていただきました。

 

『HANA~chatte tricolore~』『La Blanche』『Sofia』の聴きどころ

 
──ではまず、旧譜3タイトルについて、使用した楽器などの解説をアルバム毎にお願いします。

妹尾:はい。3作目の『HANA~chatte tricolore~』は、メンバーが最も多く参加してくれたアルバムです。西嶋徹さん(ベース)、石川智さん(ドラム)とのピアノトリオに、ゲストミュージシャンとしてチェリストの柏木広樹さん(「Coco Ange」、「Sis」)とギタリストの馬場孝喜さん(「Pas de Chat」、「猫城」)にも加わっていただきました。
 レコーディングは「音響ハウス」だったのですが、このスタジオにはそれまでに味わったことのない特別な空気感があり、いい意味での緊張感を生かせた曲もあったりして、メンバーの演奏も素晴らしく、個人的にも好きな作品でしたので、ぜひハイレゾでも聴いていただきたいと思っていました。全体としては言いたいことがギュッとコンパクトにまとまっている感じのアルバムですね。ライブっぽいものとは対称的な作品として楽しんでいただけるかなと思っています。


ハナ
妹尾美里



──順番にいくと、次は2016年発売の『La Blanche』(ラ・ブランシュ)です。

妹尾:『HANA~chatte tricolore~』のリリース後、いまからちょうど10年くらい前に私はベーゼンドルファー(Bosendorfer)に出会い、包み込まれるような魅力があって、すごく素敵なピアノだなと感じて好きになりました。『HANA』まではスタインウェイで録音していたのですが、『La Blanche』はベーゼンドルファーのサロンでレコーディングさせていただいたんですよ。サロンの方によると、そこで録音をしたのは初めてだったそうです。鍵盤が普通の88鍵よりも低音が多い97鍵の「Model 290 Imperial」というモデルを2台使って録音しました。お相手のピアニストは中嶋錠二さん。ライブを観に行く機会があって、すごく素敵な演奏だなと感じていましたので、ぜひご一緒させていただきたいなと思っていたんです。実際の録音では、低音が多いピアノが2台ということであまりにも低い音が混じってしまうため、エンジニアの赤川さんは苦労されていましたね。
 このアルバムではまた、ベーシストの鳥越啓介さんと「Partire」と「Babel」でご一緒させていただきました。この2曲の録音は、「サローネ・フォンタナ」という小さなサロンで、奥行きが290cmの「Imperial」よりもコンパクトな「Model 200」という80年くらい前の古いピアノを演奏しています。天井が高くて、木の優しい響きがとても気持ちいい空間。「Imperial」は弾きこなすのが大変なほどタッチが重めで、音色も太いのですが、繊細なテイストの「Model 200」は「サローネ・フォンタナ」の空間的な特徴と相まって、いい感じにとろけるような音色となっています。同じピアノブランドでも響きが全然違うので、ハイレゾではそのあたりも感じていただけると思います。


ラ・ブランシュ
妹尾美里



──続く6作目は4曲入りのミニアルバムの『Sofia』。アナログレコードでリリースされたこの作品は『La Blanche』の続編という位置づけなのですね。

妹尾:そうですね。メンバーは『La Blanche』で別々に共演させていただいた中嶋錠二さんと鳥越啓介さん。2台のピアノとベースという変則的なトリオ編成でのレコーディングです。アナログで出したのは、『La Blanche』の続編をちょっと違う形にしてみたかったのと、レコードらしい高音質で制作してみたいなと思っていたからです。録音は「サウンド・シティ世田谷」。ベーゼンドルファーが常設されているスタジオです。


ソフィア
妹尾美里



──ベーゼンドルファーのピアノはやはり創作のキーの一つとなっているのですね。どのあたりが魅力ですか。

妹尾:「Imperial」は低音の響きが本当に豊かなので、包み込まれるような魅力がすごくあるんです。その後、いろんなタイプのベーゼンドルファーを弾かせていただくうちに、例えばコンパクトな「Model 200」のような繊細な音色が出す微細な陰影や、とりわけ年月を経てきたピアノならではの透明感や煌きがとても美しいなと感じています。

 

自宅でのレコーディングを敢行した新作『猫の森 Forêt de Chat』


──では、ここからは7枚目の最新アルバム『猫の森』について伺います。阿部さんがエンジニアを担当した本作の制作は、どんなコンセプトでスタートしたのでしょうか。


妹尾:本と連動したこのアルバムは、「音楽物語」を基本的なコンセプトにしています。昨年の3月頃から少しずつ曲作りを進めていきました。今年9月に発売される絵本「ルイの冒険」は、獣医師で絵本の執筆もされている南部和也さんによる物語。私の音楽を聴く中で閃いた物語だということで、当初はこれを基にした音楽劇を作ろうとしていたのですが、最終的に音楽は独立したアルバムとしてリリースさせていただくことになりました。ですので、ピアノで物語る音の世界としてアルバム単体で楽しんでいただけることを大切にしながら、絵本と同時に楽しんでいただけるものにもなったと思います。書籍では、宇野亜喜良さんと田島征三さんが絵を描かれていますが、宇野さんには『La Blanche』と『Sofia』のジャケットでもお世話になりました。

──猫的にも素晴らしいアルバムだと思います。

妹尾:この作品は、言葉や絵から膨らむイメージを音に変えて表現していくような作業でした。本に出てくるあるシーンに対して、ピアノで物語を紡いでいくみたいな感じで。

──参加ミュージシャンは西嶋徹さん。「Fondant」から「Langue de Chat」までの5曲でベースを演奏しています。

妹尾:西嶋さんは非常にナチュラルで優しく寄り添いながらも力強く、包み込むような音色が印象的なベーシストです。今回のピアノと作品を思い浮かべた際に、西嶋さんの音がぴったりだと思い描いていました。方向性を定めて一緒に音楽を創り上げていく過程はとても有意義で、ご一緒できて良かったです。

──では、そのレコーディングがどのように行われたのか、阿部さんからご説明いただけますか。

阿部:はい。まず、今回のレコーディングは、妹尾さんのご自宅で行いました。でも、録音の場に僕はいないんです。

──え? どういうことでしょう。

阿部:録音機材を持ち込んでセッティングして、「好きなときにこのボタンをクリックして録ってください」と。ソロピアノの曲に関しては、妹尾さん自身によるセルフレコーディングなんです。

──そうでしたか。でも、なんか新しい感じですね。

阿部:制作を始めるにあたって、妹尾さんからそういうふうにできないかと相談があって。最初は「どんな機材を買えばいいですか?」というところから始まったんですが、耳のいい妹尾さんが安価な機材の音に納得するはずはないから、「いや、機材はうちのものを持っていきますよ」と。

妹尾:こういうふうにやってみたいというのは以前から思っていたんですね。先ほどお話しした「音響ハウス」のように、またいつか録ってみたいと思うような素敵なスタジオの音もあるのですが、一方で、誰の目も気にせず、自分のタイミングで、納得できるまで録音したいという思いもあったんです。すべての情報をシャットダウンした素の状態でやってみたいと。

阿部:その気持ちはよく分かるんですね。例えばミックスも昔はスタジオでなければできませんでしたが、いまは自宅で自分がやりたいときに時間も気にせず作業できるようになりました。だから、そのリクエストにはなんとか応えたいなと思って。ただ、不安だったのはマイクを含めたセッティングは1回きりだから、そこは間違えられないということでした。

──結果的に、今回はその作戦が上手くいったわけですね。

阿部:そうなんです。ただ、妹尾さんから「あの画面が出てこないんですけど……」とか、操作に関するお問い合わせは何度かありましたけど(笑)。

妹尾:ありましたね。「(録音データが)消えちゃったみたいなんですけど、復元できますか?」とか(笑)。

阿部:「いま録りたいのに……」と、もどかしい時間もあったでしょうから、そこは大変だったと思います。

──DAWは阿部さんが普段使っているものを?

阿部:はい。デジパフォ(Digital Performer)がインストールされたMacBook Airを中心とした、僕が外に持っていくときの録音システムを丸ごと持っていきました。ADコンバーターはMOTU 896 HDです。もちろん、電源ケーブルなどの周辺機器も含め、高音質録音のために必要なものはすべて持ち込みました。

──マイキングはどのような?

阿部:サラウンド録音のための8chのマイクアレイです。

──その他、セッティングで工夫したことはありましたか。

妹尾:ピアノがある部屋には反響板を入れてまして、レコーディングに際してあらためてその位置を阿部さんと相談しながら決めていったんですが、元の場所から動かしたので、弾いたときの感じが変わってしまって……。反響板を導入したのは、空間に対して音がちょっとしんどかったからですが、位置によってキツくなったり、まろやかになったりものすごく変化するんです。セッティング後、阿部さんがお帰りになったあとにちょっと気になって、数センチほど移動させたのですが、それだけでもメチャクチャ変わっちゃって(笑)。最後はミリ単位で、いいポイントを探し出すのに数日間を要しました。録り始めてからは変えない方がいいと思いましたので、そこは入念に行いましたね。

阿部:こっちも焦りましたけどね(苦笑)。

妹尾:「反射板を動かしました」って連絡したときは、阿部さんも相当ビックリしていました(笑)。

阿部:通常のスタジオでピアノを録るときも、最初にやるのはピアノの位置を決めることです。つまり、いちばんいい反射が得られる場所に置くということで、これが決まってからマイクを立てていくわけですね。だから、反射板の位置を変えたと聞いて、マイクの位置はそのままで大丈夫かなと思ったのですが、録音はもう始めていると言う(笑)。じゃあ、このまま行きましょうと。
 その後、再びご一緒したのは西嶋さんとのデュオの録音でした。ピアノがある防音室の前に空間があったので、録音機材もそこに移し、そこでベースを録りました。妹尾さんと会えたのは久々(笑)。そのときにピアノの録り音も確認しましたが、大丈夫だったので安心しました。

──ということは、ベースとのデュオは別空間での演奏を同時に録音したのですね。

阿部:そうです。ただ、ベースを録った部屋は防音されているわけではありませんので、やっているうちにいろんな音が入ってきて……。

妹尾:近くの学校のチャイムが鳴ってしまったり(笑)。


『猫の森』の録音が行われた妹尾さんの自宅のピアノ室。1982年製のベーゼンドルファー「Model 170」の
後方に立ててあるのは阿部さん考案の8chマイクアレイ。その後ろには日本音響エンジニアリングの
柱状音響拡散機構「AGC」の「ANKH」(アンク)が。また、壁にはヤマハの調音パネル「TCH」を設えている。

 

 

試行錯誤のミックス~マスタリング

 
──なるほど。録音についてはちょっとイレギュラーなアプローチとなったわけですね。ミックスやマスタリングのほうはいかがでしたか。

阿部:えーっと……一言で言うと大変でした(笑)。

妹尾:……(笑)。

阿部:何度かめげそうになりました。

──それはまたどういうことでしょう。

阿部:僕自身、ある程度それが問題となるのは分かっていたんです。例えば、作業を行う時間帯によって音が変わってしまうこと。ミックスをバウンス――つまり2chに落とし込むのを、24時間のうちのいつ行うか。そのタイミングによって音は必ず変わるんですよ。大本の電源がどう作られているかも関係するし、作業する場所の電源環境にも影響されてしまう。町中に溢れるパソコンなどスイッチング電源を伴う電子機器からも大量のノイズが出ています。こうした影響を受けると、音はどんどん硬くなります。そして、今回はさらにマスタリング作業の途中から電力不足の時期と重なってしまいました。それ以前と全く同じことをしているのに、妹尾さんから「音が違うんですけど」と。結局、マスタリングは10パターンほど作ったんですが、それらは同じミックスデータで、日付や時間帯を変えただけのものですけど……。

妹尾:それぞれ音は違いましたね。

阿部:怖いことに妹尾さんはそこをちゃんと聴き分けてしまうんです。9テイク目でようやくOKをもらえました。静かな中で、音がちゃんと響いている感じが明らかでしたね。

妹尾:9番目は、冬の澄んだ空気のような感じがしました。

阿部:うん、ちゃんと奥行きがあるように感じられて、倍音成分の鳴り方がとてもピュアだったんですね。ある意味、エンジニアの耳でないと分からないような部分も分かってしまう。

──そうした微妙な音質の違いを丁寧に見極めて、今回も高音質につなげていったのですね。

阿部:僕は普段からEQを多用せず、基本的に“音を変えないミックスやマスタリング”を心掛けていますが、今回のミックスに関してこんなことがありました。その方向性について妹尾さんと話し合ったところ、当初は「ピアノとベースが同じ空間にある感じにしてほしい」というリクエストがありました。今回のように完全に違う空間で録った場合、どうしても人工的に空間を作って合わせることになるのですが、そうして作ったミックスを聴いてもらうとどうも違うらしく、「録音したときのあの音が聴きたい」と言うんです。つまり、3人で録音したときのプレイバックの音のことですね。
 その時点で、妹尾さんがイメージしているのは、人工的に空間を作るのとは真逆のアプローチであり、“いじらない方向”のミックスをしなければならないと気付きました。と言うのも、妹尾さんがいい音として記憶していたプレイバックの音は、トラックの音をそのまま返したもので、マスターフェーダーも何も通していません。デジタルでは、フェーダーやグループをかました時点で音はどんどん劣化していくんです。ミックスの段階で、録音時にモニターしていた音を完全に再現することはできないので、少しでも近付けるようにやってみたつもりです。

妹尾:録音したときのプレイバックの音は本当にすごくいい音だったので、どうしてもそれと比較してしまうんですよね。

阿部:普通は憶えてられないものなんですけど(笑)、プレイバックは妹尾さんの家にあるスピーカーを使ったので、憶えていれば比較はできるわけですね。

妹尾:空気感が違って聞こえました。

阿部:その空気感によって変わるのは音の重なりの部分なんですね。そこを憶えているということ自体、普通じゃないんですよ(笑)。音量感の違いを憶えているというのなら分かるんです。でも、重なり具合を憶えているというのはすごいこと。音と音が重なっている部分の滲みが分かっているということですからね。いやぁ、参りました(笑)。

妹尾:私としては、ピアノの残響を含めた音色が削ぎ落とされるのは演奏に乗っている魂が削がれてしまうかのように感じたので、できるだけそこが失われないように、最大限にナチュラルな方向でお願いしました。そこで話題になったのがハイレゾでしたね。

阿部:そう。それまで、音の確認は44.1kHz/16bitでやり取りしていたんですよ。

──ああ、なるほど。

妹尾:阿部さんが、「そこまで分かるなら、ハイレゾで聴いてもらったほうがいいかも」と。でも、そうなると私はますます聞こえちゃうから、「また気になることも増えるかもしれないですけどいいですか」と。そうしたら……。

阿部:もう、どこまでも付き合います!って(笑)。そこからまた始まったわけです。でも、重なりや奥行き感も、こちらと同じように聴いてもらえるので、ハイレゾでやり取りすることで会話がかみ合うことも多くなりました。44.1kHz/16bitでは表現できない部分もありますからね。

妹尾:ハイレゾで聴いた印象は、私たちが普段聴いている本来の音というか、“こうあってほしい”と思える音でした。そこからは、なるべく手を加えない方向で落ち着きましたね。

阿部:そうですね。リバーブなどいくつかのプラグインを挿したり、ボリュームをコントロールするためにマスターフェーダーを通したり、最低限必要な手は加えなければならないのですが、妹尾さんがイメージするナチュラルなサウンドは僕も普段から目指している方向性とも合致します。

──それにしても、僅かな差異を聞き分ける妹尾さんの耳もすごいですね。

阿部:きっと、ピアノがそういう耳を養ったんじゃないかと思うんです。妹尾さんのピアノって、ものすごく繊細な音なんですよね。自分で弾いた音をよく聴いて反応しているからこそ、ピアニシモも本当にいい音で鳴る。演奏家にとって、小さな音をどれだけきれいに鳴らせるかはすごく大事じゃないですか。ピアノを追求してベーゼンドルファーに出会い、自宅に導入して弾き込んで、その音を録音したいと思ったのも、そこを大事にしているからでしょう。

──いまのピアノは、いつ頃ご自宅にやって来たのですか。

妹尾:年月を経たピアノの枯れた木の中に宿る、透明感のある音色を探し求めて出会ったのは製造から40年ほど経ったもので、オーバーホールが完了したのが昨年の夏でした。直後はなかなか安定しないので、そのサロンでしばらく寝かせていただいて、家に迎えたのは年末のことでした。そこから弾き込み始めて、環境が変わると馴染むのにまたしばらくかかるのですが、今回の録音を行ったのは2月の終わりから3月にかけてのことでした。このピアノはまだまだ鳴り切っていない部分もありますが、私が好きなピアノのいまの素の音を聴いていただけると思います。

──では、妹尾さんにとって、ピアノという楽器はどんな存在なのでしょうか。

妹尾:小さい頃から遊びながら親しんできた身近な存在で……それこそ猫と同じように、なぜかは分からないけれど自然に好きになったものですね。ジャズを始めてからは――いまやっている音楽がジャズかどうかは置いといて(笑)――自分の内面も含めていろんなものを表現させてくれる存在です。

 

音楽の陰影を表現するハイレゾ


──あらためて、新作を含めた今回の4タイトルのハイレゾの聴きどころは?


阿部:旧譜の3作については、やはり赤川さんの音へのこだわりをぜひ感じ取っていただきたいですね。『HANA~chatte tricolore~』は当初、レーベルにはCDのマスターしか保管されていなかったんです。たまたま僕が赤川さんの会社にいたことで、当時のスタッフを通じて元のマスターに辿り着くことができました。そして、『La Blanche』以降は妹尾さんが原盤を持っているのでマスターを探してもらったところ、マスタリング済みのデータのほか、バージョン違いのミックスデータも出てきました。マスタリングは、それによって音が良くなる場合ももちろんありますが、先ほどもお話ししましたように、どうしてもいろんな回路を通ることによる劣化が避けられません。あらためて妹尾さんの耳で聴き直してもらった結果、ハイレゾ音源にはどちらも元のミックスデータを使用しました。

妹尾:赤川さんの音源はいま聴き返しても本当にいい音だと思います。録りでもミックスでも、よりいい音で私の求める音色に向けて作業してくださったことを思い出します。そして、赤川さんにも阿部さんにも、共に作業する中で、私の耳を養っていただいたことに感謝しています。

阿部:そうした努力を分かって共有いただけるのは、エンジニアとしても嬉しいことですね。

──ありがとうございます。では最後にe-onkyo musicリスナーへのメッセージをお願いします。

妹尾:『猫の森 Forêt de Chat』は、本当に繊細でナチュラルな音色の陰影というものにこだわって作ったアルバムですから、赤川さんに録っていただいた3作を含め、ハイレゾではその良さを十分に感じていただけると思います。ピアニシモからフォルティシモまで、音楽を表現する楽器の陰影とか息遣いといったものが必ず感じ取れるはずですので、ぜひ目を閉じて浸っていただきたいと思います。

阿部:原音が壊れないように、細心の注意を払って制作したことで、音の密度が高く、聴けば聴くほど曲の世界観や妹尾さんの想いが伝わる作品に仕上がりました。ハイレゾでなければ、伝わらない作品と言えます。10年前にリリースされた『HANA』は96kHz/24bitで、次の『La Blanche』からは192kHz/24bitで録音されていました。赤川さんが遺したこだわりの音源も、ぜひこのハイレゾでお楽しみください。そして、妹尾さんのピアノはこれからもっといい音になってくるでしょうから、次の作品も楽しみにしています。


 


 

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