南野陽子の11タイトルが一挙にハイレゾ化! 担当プロデューサーが語るその魅力と制作裏話

2022/08/18

80年代を代表する女優・歌手として人気を誇った南野陽子さん。1985年のシングル「恥ずかしすぎて」でデビューを飾ると瞬く間にチャートを席巻し、一躍トップアイドルへと上り詰めていきました。そんな南野さんの『ジェラート』(1986年)から『夏のおバカさん』(1991年)まで10作のオリジナルアルバム、さらに20周年記念『NANNO BOX』(2005年)に収録された「最終オーダー」が一挙にハイレゾ化! 全シングル曲を網羅した『NANNO Singles Collection 1985~1991 +1』と合わせ、豊富なラインアップが揃いました。e-onkyo musicではこれを記念し、南野作品の担当ディレクター/プロデューサーだった吉田格さんにインタビュー。制作秘話からレコーディングの様子など、当時の貴重なお話をたっぷりと伺いました。

文・取材:山本 昇
写真:e-onkyo music、山本 昇






洋楽コンピ/ベスト盤の編集から邦楽の制作へ


──
まずは吉田さんのご経歴を簡単にお教えください。学生の頃は音楽とどう関わっていましたか。


吉田格(以下、吉田) 学生時代は「南十字星」というアマチュアバンドをやっていましてね。こう見えて、シュガー・ベイブと対バンしたこともあるんですよ。当時、(山下)達郎さんや大貫妙子さんとは楽屋で話しをしたこともありました。

──いきなりすごいエピソードですね(笑)。その後、1976年にCBS・ソニーに入社されるわけですが、邦楽ディレクターとして活躍されるのは79年からだそうですね。当初は洋楽のコンピレーションやベスト盤などを担当されたとか。

吉田 そうですね。洋楽はCBSの音源……例えばアンディ・ウイリアムスから始まってサイモン&ガーファンクル、サンタナ、シカゴなど、ボーカルものだとバーブラ・ストライサンドやトリオ・ロス・パンチョスとか、全カタログからセレクトしたベスト盤を6月と12月のボーナスシーズンに合わせて発売していて、私も入社当初はこういったものを担当しました。この仕事は音楽の知識を広げるうえでも大変勉強になりました。

──当時のタイトルで、特に印象に残っているものは?

吉田 映画『アメリカン・グラフィティ』のサウンドトラックがビクターから出て、ドーッと売れたんですね。CBS・ソニーにもそのようなオールディーズのカタログがたくさんあるので何かやってみようと、ポール・アンカやディオンなどのベスト盤もよく作りました。あるとき、架空の映画のサントラを作ろうという企画が持ち上がりましてね。先にサントラを出して、その後に映画を作るというものです。

 映画の監督は井筒和幸さん。主演は、新宿や原宿でロックンロールのショップを展開していた山崎眞行さんのお店のイケメンのお兄ちゃんで、お相手は風吹ジュンさん。そこまで設定は決まっていて、サントラも出たんですが、映画のほうが頓挫してしまったんです。映画の主題歌はデビュー前の中原理恵さんがRIE名義で歌っています。ちなみにこの曲、作詞は山崎眞行さんとキャロルのジョニー大倉さん、作曲は同じくキャロルの内海利勝さんでした。当時はこんなふうに、遊び心を含めていろんな企画を考え、動かしていました。まぁ、これがそこそこチャートに入ったりしましてね。「なんか面白そうなことやってるな」と、国内のディレクター/プロデューサーの目に止まり、邦楽のセクションに移ることになるわけです。

──なるほど。ご自身で担当した最初のアーティストは?

吉田 川﨑麻世さんです。彼はすでに何枚か作っていたんですが、現場担当が足りなくなってしまって僕が派遣されることになったんです。日音の大プロデューサーである小栗俊雄さんの傍らでお手伝いをさせていただきました。その後はシングルやアルバムを任されるようになって、国内制作の仕事をおぼえていったという感じです。

──バンドものではSHOGUNなども担当されたそうですね。

吉田 はい。SHOGUNやNASA、To Be Continued、シネマ、Two of Us などなど。SHOGUNくらいのバンドになると、もう彼らだけでほとんどできちゃうんですね。僕は現場担当だったけど、「どう?」って聞かれて「いいですね」って相づちを打つくらいで(笑)、文句の付けようがなかった。そのあとに担当したNASAや シネマは年齢が近かったこともあって、いろいろ話し合いながら制作を進めるようになり、自分なりに成長していけたと感じます。川﨑麻世さんのようなアイドルからバンド系まで、いろんな現場を経験させてもらいました。そんな中、僕は突如、仙台の営業所へ異動になるんです。

──えっ、どうされたのですか。

吉田 いわゆる“ニューハーフ”の方のシングルを作ったことが当時の社長には理解していただけなかったようで……。スタッフは全員、ノッてやっていたプロダクトだったんです。その曲「I Love Youはひとりごと」の作詞・作曲は桑田佳祐さん。今で言うジェンダーギャップの悲哀をテーマにしたもので、ビクターではサザンオールスターズの原由子さんのソロデビューシングルとして制作されていました。この曲についてアミューズ側から、演歌でよくある“競作”のように、別の歌手でソニーでも出さないかと打診があったのです。それで、当時の宣伝部長から「吉田、これちょっとやってみない?」ということで、うちのほうはベティという大阪のニューハーフの方に歌ってもらいました。原由子さんのバージョンはチャートの上位に入っていましてね。で、こっちもチャートを上りかけたところで社長が「これは何だ」と。次の定期人事で異動になりました。みんなで動いたものでしたが、担当者は僕になってしまうのでね。「じゃあ、ピーターさんはどうなんですか」って上司に言ってしまって、それでまた逆鱗に触れたという(笑)。その後、この曲は放送禁止になったりして、まぁ、いろいろありました。

──それはなんとも……。しかし、その後、また制作に復帰されるのですね。

吉田 仙台営業所に赴任して1年半くらい経ったところで、急に所長に呼び出され「明日、東京に行ってくれ。正式発表はまだだけど、またスタジオに戻れるみたいだぞ」と言われて。急いで東京に戻り、人事部への挨拶もそこそこに、命じられて向かったサウンドシティ(スタジオ)に行ってみると、そこで待っていたのが原田知世さんでした。

──吉田さんが、南野陽子さんを手掛ける少し前に担当されていたのが原田知世さんだったのですね。

吉田 そうです。挨拶したその日はちょうど「天国にいちばん近い島」のリズム録りでした。ソニーが角川のレーベル"KADOKAWA RECORDS"をやることになって、僕は知世さんと野村宏伸さんを担当しました。



当時の時代背景も交え、制作にまつわる興味深いエピソードの数々をご紹介くださった吉田格さん


作家陣や編曲家を中心とした制作チームの奮闘


──
さて、今日の本題である南野陽子さんはどのような経緯で担当することになったのですか。

吉田 仙台に行く前から懇意にさせていただいていた都倉俊一さんから、「こんな娘がいるんだけど、どう?」と写真を拝見したのが南野陽子さんだったんです。歌はまだ聴いていませんでしたが、本当に可愛くて。講談社に持ちかけると「週刊少年マガジン」の編集長は“マガジンガール”にすると。原田知世さんもやりながら、南野さんもそのあたりからとんとんと始まっていきました。

──実際に会った南野さんにはどんな印象を持たれましたか。

吉田 すごく照れ屋さんで、人前で歌うのが苦手なタイプでした。最初のデモテープを録るとき、スタジオのボーカルブースのカーテンを降ろして歌ってもらったのをおぼえています。デビューシングルの「恥ずかしすぎて」(作詞:康珍化/作曲:都倉俊一)というタイトルは、そんなエピソードを基に付けられたものです。

──吉田さんをはじめスタッフの皆さんは、南野さんの将来にどんなアイドル像を描いていたのですか。

吉田 CBS・ソニーの女性アイドルというと、天地真理さん、南沙織さん、浅田美代子さん、キャンディーズ、もちろん山口百恵さん、松田聖子さんもいました。そうした時代のアイドルは、何と言いますか、エンターテインメントしてる存在で、その周りに生活感のある言葉はありませんでしたよね。それよりも僕は、例えばニューミュージックの女性シンガー、ユーミンや竹内まりやさんのように、自身のライフスタイルを歌詞に乗せるのがいいのではないか、そんなアイドルがいてもいいんじゃないかと思って作品作りを始めました。ユーミン、竹内まりやさんの曲の本歌取りをしながら、南野さんに寄せていったという感じでした。

──そのほうが、若いリスナーには響くだろうと?

吉田 そうです。彼女は兵庫県伊丹の出身ですが、イメージとしては阪急電車の急行が止まる駅に住んでいて、学校に通うときはその急行の何両目かに乗っている。休日はポートアイランドなどで友達とお茶している。学校の帰りに本屋に寄るとどんな本を手に取るのかとか。そんな彼女の日常、生活スタイルが見えるよう、本人にも聞き取りをしたりして、作詞家たちと共有してイメージを作っていきました。

──作家陣もチームとなって作り上げていったという感じだったのですね。

吉田 はい。「話しかけたかった」というシングル曲は、好きな男の子に声をかけたいのにかけられない、すれ違いの妙みたいなものを描いた歌詞ですが、ユーミンにも「DESTINY」という曲がありますね。また、「『いちご白書』をもう一度」があれば、こちらは『E.T.』をテーマにした「リバイバル・シネマに気をつけて」を作ったり。普段からいろんなアイデアやテーマをストックして、それを基に作詞家にプレゼンしたり、何人かの作家が曲ごとにチームとなってやっていました。

──南野さんご本人にライフスタイルに関する聞き取りまでしていたとは意外でした。

吉田 彼女がそれを受け入れてくれたんですね。それで、自分のスタイルもできてきたというのはあったという気がします。

──詞先・曲先はどちらが多かったのでしょうか。

吉田 詞先が多かったかな……いや、そうでもないか。まずテーマ出しをして、サビとかで使うキーワードだけを作曲家に渡して、上がってきた曲を基に作詞家がきれいに仕上げるというのも多かったかもしれません。そんなやり方だから、偉い先生は使えなかったんですよ。

──ああ、なるほど。

吉田 当時、野村宏伸さんでお世話になっていた松本隆さんからもラブコールを受けていましたが、初代「スケバン刑事」の斉藤由貴さんも手掛けていらっしゃるからとやんわりお断りして。歌詞でよく貢献してくれた康珍化(かん・ちんふぁ)さんは、NASAの亀井登志夫さんと大学からの大親友で、僕も以前からいい付き合いをさせてもらっていて、南野陽子さんの作品でもキーとなるような曲については主に康さんに頼んでいました。ただ、康さんは量産できるようなタイプではないので、別の方を彼に紹介してもらったり、作詞家の養成学校にもアンテナを張ってみたりしていましてね。ビクターの作詞家教室に出向いて、「こういうテーマで書いてみませんか」と呼びかけると、小倉めぐみさんという、後にSMAPの楽曲も手掛ける作詞家と出会いました。

──小倉めぐみさんは、南野さんの作品としては2枚目『VIRGINAL』の「ガールフレンド」で初めて歌詞を提供していますね。

吉田 はい。彼女は山川啓介さんの教室の特待生でした。僕が最初に依頼したのは野村さんの「真夜中の倉庫」で、これが彼女の作詞家として2作目か3作目だったと思います。

──そして、南野陽子作品のアレンジャーとして、また作曲家としても腕を振るわれたのが萩田光雄さんです。

吉田 そうですね。当時すでに武部聡志さん、大村雅朗さんら若いアレンジャーも台頭していて興味はあったのですが、萩田さんに頼むと、もう完璧なんですよ。お互いに波長が合うというのもあったと思います。南野さんに関しては荻田さんも面白がって、「次はこれで行こうよ」と、いろんなアイデアを出してくれました。山口百恵さん、南沙織さん、太田裕美さんなどを手掛けた流れの中で、自分のアイデンティティと言えるのは南野陽子の作品だと言ってもらえて。すごく嬉しかったですね。

──制作チームの中でも、大きな存在だったのですね。

吉田 入社当時に聞きまくっていた洋楽のカタログやオールディーズなど僕も好きな音源がたくさんあるのですが、その中から「こんな曲調はどうですか」と持ちかけると、「うん、なるほどね。じゃあ、これで行こうか」とか、そんなやりとりはしょっちゅうしていて。「ああ、それだったらこっちの方向もいいんじゃない?」とかね。そういうコール&レスポンスがうまくできていました。萩田さんとタッグを組めたことは本当にありがたかったですね。

──アルバムとして特に印象に残っているのは?

吉田 1988年にリリースした『SNOWFLAKES』は、僕の中では、彼女の絵本のようなアルバムにしたかったんです。そのコンセプトに康さんも乗って、いろいろアイデアを出してくれて。ある少女のひと冬が7話のストーリーで綴られているのが、曲のタイトルから分かるようになっています。歌詞は全て康さんですが、アンデルセンやイソップといった童話をベースにした、なかなか深い内容になっていると思います。曲は150曲以上の候補から絞っていったのですが、その選考には萩田さんにも参加してもらい、全曲のアレンジもお願いしました。導入曲である1曲目の「七つのスノーフレイク」は作曲も萩田さんですね。

──このアルバムで、萩田さんはシンセの使い方にもこだわりがあったそうですね。

吉田 そう。2曲目以降の7曲で、いいなと思うシンセの音を、各曲でそれぞれ一つずつ使っているんです。つまり、アルバム全体が7つの音色で彩られているというわけで、あとで言われて「ああ、なるほど」と感心したことをおぼえています。作詞家もアレンジャーも、こだわりを持ってやってくれたのは嬉しかったですね。

──シンセポップ的な打ち込みと、バンドサウンドやストリングスなど生音とのバランスはどう考えていたのですか。

吉田 初期の頃は生のバンドが基本でしたよね。で、途中でシンセの入り方も、その他の楽器の在り方も変わってくる。打ち込みを担当するマニピュレーターはいろんなやり方を模索していたし、アレンジャーも洋楽のヒット曲をたくさん聴いていますから、みんないろいろ試したくなるんですね。80年代の半ば頃にはそうした傾向はけっこう強くなっていきました。いま聴くと、ちょっとトゥー・マッチな感じもするんだけど、当時はそれを良しとしてシンセをいっぱい使っていたわけです。

──世界的な流れに呼応していた面もあったのでしょうね。

吉田 そうですね。しかも、売れている人は制作の予算が潤沢にありましたから、何パターンか作ったりもしていましたしね。ただ、後に自分で振り返ってどうなのかなと思うところもあったので、25周年を記念したベスト盤『ReFined-Songs Collection〜NANNO 25th Anniversary』(2011年)ではシンセを生楽器に差し替えたり削ぎ落としたりといったお色直しを行いました。アコースティックで温かい印象に変わっていると思います。

──南野陽子さんはもちろん、当時のヒット曲はイントロの比重が大きいというか、かなりのこだわりを感じます。

吉田 そうですね。もちろんアレンジャーさんにもよるんだけど、南野さんの場合はそのあたりも含めて作家さんに恵まれました。特に亀井登志夫さんや上田知華さんのデモは完璧に近かったんです。イントロも素晴らしいものが多くて、萩田さんも「これは採用だね」という感じで。作家たちもいろんなアイデアを持っていたんですね。そして何より、萩田さん自身がイントロも一つの作品だと捉える人でしたから。久保田早紀さんの「異邦人」を聴いても分かるように、イントロ一つで聴く人の胸ぐらを掴んでこっちに向かせて曲に入り込ませることができる。そういうテクニックも、萩田さんはピカイチでした。

──候補となる曲は、コンペとなることが多かったのですか。

吉田 レギュラーの作家陣も、みんな当たり前のように複数の曲を書いてきましたからね。「今回は3拍子のマイナー調が欲しい」と伝えると、一人で3曲くらいずつ書いてきて。彼らも、なんとか採用されたい、1位を獲りたいと必死ですから。

──選ばれるのはその中の1曲だけですから、競争は熾烈です。

吉田 はい。ただ、曲によって、そのときは落ちてもキープさせてもらって、次のアルバムで採用できたものもある。または、「サビの部分はすごくいいから、AメロとBメロをちょっと変えてみない?」と言って作り直してもらったり。さらには、違う人が作ったサビとABメロを合わせて、共作にしたというのも何曲かありました。すごくいい形になったので、それぞれの作家さんからはOKをもらえて。そういうことも萩田さんと相談しながらやっていましたね。

 面白いなと思ったのは、ある作家さんが1音転調するように指定された曲を作ってきたときのこと。確かに格好いいんだけど、流れが今一つかなと。そこで萩田さんが、1音ではなく半音にして、さらに転調のポイントを数小節後ろにずらしたら俄然よくなった。これには作家さんも、「なるほど、こういうアイデアもあるんだね」と納得してくれて。また、あるときもらった、すごくスローな曲は、メロディはいいんだけど、なんかダルい。試しに倍のテンポにしてみたらしっくりきた。「話しかけたかった」「瞳のなかの未来」もそんなふうにしてできた曲です。



業界では“カクさん”の愛称で親しまれる吉田さんの楽しいお話は尽きません。左は聞き手の山本昇さん


南野作品のレコーディング


──
1987年以降には9枚のシングルがヒットチャート1位を獲得するなど、南野陽子さんはトップアイドルへと成長していきます。

吉田 あの頃は、松田聖子さん、KYON2(小泉今日子さん)、中山美穂さん、おニャン子クラブもいて。みんな1位を獲りたいから、発売日をずらすんですね。「斉藤由貴さんは今度いつ出すの?」「あー、じゃあ1週ずらそう」みたいな(笑)。テレビのチャート番組に出るためにも1位獲得は必須でしたから、ローテーションで出していく必要があったんです。

──曲の構成も凝ったものが多く、ミュージシャンの手配など、ディレクターとしての業務も大変だったのでは?

吉田 そうですね。ただ、指定のミュージシャンはだいたい決まっていたので。ドラムやギター、ベースなどで第1候補、第2候補となる人たちのスケジュールは把握していました。候補の常連はドラムなら島村英二さん、ギターなら松原正樹さんや今剛さんなど。

──いずれもトップレベルのスタジオミュージシャンたちですね。

吉田 仕事が的確なんですよね。イメージを伝えただけで、完璧な演奏がすぐにできちゃう。把握する力がすごいんです。やっぱり一流のプロは違うんですよ。ギャラも高かったけど(笑)。

──南野陽子さんのレコーディングは、どのスタジオで行うことが多かったのですか。

吉田 やはりソニーですから、信濃町ソニーか六本木ソニー、あとは距離感から麹町のサウンドインあたりが多かったです。萩田さんが生の弦を入れたりするので、6・4・2・2編成でも録れるところでやっていました。

──レコーダーについて教えてください。アナログマルチを回していたのはどのあたりまでですか。

吉田 初期の作品はアナログですね。アルバムで言うと、3作目の『BLOOM』と4作目の『GARLAND』はいずれも1987年のリリースですが、このあたりはアナログとデジタルの両方を同時に回していました。その後、アナログは回さなくなり、デジタルは24トラックから48トラックになって。2chマスターも、アナログから弁当箱(U-MATIC)に変わっていった頃ですね。先ほど、スタジオの距離感と言いましたけど、アナログマルチのテープってすごく重くて持ち運びが大変じゃないですか。だから近いほうがよかったんですよ(笑)。

──エンジニアさんはどなたが担当されることが多かったのでしょうか。

吉田 先ほどお話ししたコンピレーションアルバムの制作で、例えば映画音楽大全集を編む場合、主にパーシー・フェイスやカラベリのオーケストラなどの音源を使っていたのですが、ソニーにない音源もあるわけです。そんなときは国内で“アンサンブル・プチ・アンド・スクリーンランド・オーケストラ”という架空の名前で録音していたのですが、エンジニアはもちろんソニーの面々が担当していました。その中には、若き日の鈴木智雄さんもいて、お世話になりました。そんなつながりもあって、南野さんや知世さんの作品は鈴木智雄さんをメインにお願いすることが多かったんです。智雄さんが忙しいときは、芳川隼人さんなど親方の下で育った方に担当してもらったりしていました。音作りの方向性などを共有している方でないとスムーズにリレーションできませんからね。

──南野陽子さんのボーカル録りはどうように行われていたのですか。

吉田 初期の頃は、寝る時間もほとんどなかったと思います。まぁ、売れているアイドルたちはみんなそうでしたが、家にも帰れず、撮影の合間にクルマの中で仮眠を取る程度で。テレビの収録も続く中、歌はどうしても後回しになって、夜中の12時に「南野、入ります」と言われて待機して、2〜3時間歌ってまた出ていく。どこまで極めるか、どこで妥協するか、判断は難しかったですが、なんとかやっていましたね。でも、彼女も頑張り屋さんだったから、いい作品ができたと思っています。

──ピッチの修正も簡単にはできなかったあの時代。アイドルも相当努力していたのでしょうね

吉田 一生懸命に歌っていましたよね。あと、やっぱりテイクを多く録っていました。選んで編集する作業は大変だったけど、限られた時間の中で可能な限り歌ってもらっていました。人によってはテープの回転速度を遅くして録ったり、ダブルトーンにしたりもしましたが、南野さんの場合はそういうことはやりませんでした。

──当時、歌謡曲にまで打ち込みが広まったのはなぜだと思いますか。

吉田 世界的な流れもありましたからね。アレンジャーもヒットしている曲に近いほうに行こうと思っていましたし。あの頃はやっぱりアメリカやヨーロッパの音楽が先行していましたから。

──70年代の歌謡曲っぽさを払拭したかったからかなとも思うのですが、いかがでしょう。

吉田 ああ、なるほど。それもあると思うけど、アレンジャーも含めてみんな、新しいものは試してみたいと思っていたのではないでしょうか。演歌でシンセを入れる人もいっぱいいましたからね(笑)。シンセという楽器やシーケンスフレーズをどう採り入れるかは、アレンジャーやプロデュースする側のセンスが問われるところ。それを使ってもなぜかイナタく聞こえるアーティストもいましたから、そこは使い方のセンスとトータルな仕上げ方が大きかったと思います。




ハイレゾマスタリングで実感した音の良さ


──
今回のハイレゾマスタリングはどなたが手掛けたのでしょうか。また、ハイレゾ化によってあらためて気付いた南野作品の良さとは何でしたか。


吉田 ハイレゾマスタリングは、大瀧詠一さんの『A LONG VACATION』の再発盤も手掛けたソニーの内藤哲也さんが担当しています。マスタリングに立ち会って思ったのは、やっぱりアナログで生でやっていた頃の音はすごく深くて温かみがあるということでした。誰もが感じることとは思いますけど、こんなにいい音で録れていたんだなと、あらためて実感しました。あの頃も、音の良さは感じてはいたと思うけど、それよりも作り込むことに意識が向かっていましたので。

──当時、ミックスの段階でこだわっていたことはありましたか。

吉田 最初のミックスができたら、それをカーステレオで聴いてみるのですが、運転席はもちろん、後部座席でも確認するとか、日頃、自分がいちばん聴き慣れている環境スペースでも試聴してみることを大事にしていました。これは大瀧詠一さんの教えです。また、ロンドンのエンジニアに教えてもらったのは、ステレオで聴いたスピーカーを真ん中に寄せてモノラルでどう聞こえるかを確認すること。当時はまだ、AMラジオなどではモノラルで再生されていましたから、そこも大事にしていました。先日のハイレゾマスタリングで気付いたのですが、スタジオの真ん中で聴いても、入り口で聴いてもバランスがよくて心地よく聞こえるんです。音も温かくて素晴らしい。マスタリングスタジオでは幸せなひとときを過ごせましたね。

──そのように、アナログレコードやCDの時代も、丁寧な音作りや調整がされていたことで、ハイレゾでもさらに楽しめるのでしょうね。

吉田 その都度いい音だなとは思っていたんですよ。ただ、いま思うと、レコーダーがアナログからデジタルになり、録音できるトラック数も24から48になり、「ああ、ここまで音が重ねられるようになったんだ」と驚きつつ、録音機材の進化と“いい音”がどう関係しているのかを見極めるのはなかなか難しかったかもしれません。言葉も、一言で伝わるなら、それを飾る言葉は余計ですよね。音ももしかしたらそういうことなのかなと思ったりもしています。

──ディレクター/プロデューサーとして、いい曲を作る意識と、歌手に合った曲を作るという意識ではどちらが強かったですか。

吉田 それは両方ですよね。例えばバンドであれば、彼ら・彼女らが作ってくる曲については自らのアレンジやアンサンブルをどう積み重ねるかが大事なので、形にして恰好よければいいと思う感じ。一方、アイドルのように作詞家や作曲家があるものに関しては、いい作品=売れる曲ということだから、両方欲しいということになります。

──歌手にもそこはついてきてほしいと。

吉田 そうです。いい作品がきたのに、本人がその良さをちゃんと理解できずに空振りに終わったというのも多々あって、それは悔しいことですけどね。歌い手と僕の呼吸が合わず、そこまで持って行けなかったということもありました。

──関わられた作品に、吉田さんご自身の音楽性はどれくらい反映されるものなのでしょうか。

吉田 女性ボーカリストとして精一杯歌ってくれた南野陽子さんは、僕があの頃にやりたかった音楽を体現してくれたと、そんなふうに感じる曲もいっぱいありました。その意味で、作品の半分くらいには僕の色が出ているかもしれません。だからこそ、南野陽子の音楽にはより強い愛着があります。バンドのNASAやTo Be Continuedはサポートしたという感じだけど、南野さんなどアイドルの作品は関わる比重も大きく、自分の色が出ているものも多い。それは幸せなことだと思っています。

──今日は貴重なお話をたくさんいただき、ありがとうございました。では最後に、e-onkyo musicリスナーへのメッセージをお願いします。

吉田 今回のハイレゾは、ボーカルにふくよかさがあり、楽器の音もより深く聞こえてきます。生楽器は特にそうですね。僕自身、「CDとは、こんなに違うんだ」と感じていて、ハイレゾにして本当によかったと思っています。リスナーの皆さんも、きっと新たな発見をされることでしょう。これを機に、あらためて南野陽子の音楽を楽しんでいただければ嬉しいですね。

手にしているのは最新のベスト盤『Four Seasons NANNO Selection』と7インチアナログ「空を見上げて/大切な人」


 

PROFILE

吉田 格(よしだ・ただし)

1953年生まれ、奈良県出身。1976年にCBS・ソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)に入社。1978年より邦楽ディレクターとなり、SHOGUN、原田知世、To Be Continued、知念里奈など50組を超えるアーティストを担当。南野陽子では8作連続を含むシングル9作をヒットチャート1位に送り込む。1999年には「GOLDFINGER'99」で郷ひろみの再ブレイクに成功する。2002年からはソニー・ミュージックダイレクトにて山口百恵のトリビュートアルバムや、五輪真弓、大貫妙子、太田裕美、尾崎亜美、辛島美登里、サーカスなど。2012年にはアラフォーユニット“Blooming Girls”(南野陽子、森口博子、西村知美)のプロジェクトも手掛けている。現在、音楽制作会社「Spring Tune Inc.」代表。



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