【2/25更新】 印南敦史の「クラシック音楽の穴」

2022/02/25

印南敦史のクラシック・コラム「クラシック音楽の穴」。ここで明らかにしようとしているのは、文字どおりクラシック音楽の「知られざる穴」。クラシックにはなにかと高尚なイメージがあって、それが「とっつきにくさ」につながっていたりもします。しかし実際には、そんなクラシック音楽にも“穴”というべきズッコケポイントがあるもの。そこでここでは、クラシック音楽の「笑える話」「信じられないエピソード」をご紹介することによって、ハードルを下げてしまおうと考えているわけです。そうすれば、好奇心も高まるかもしれませんからね。だからこそ肩の力を抜き、リラックスしてお読みいただければと思います。

1日に4時間しか働かなかった作曲家がいる

モートン・フェルドマン



新型コロナの影響でリモートワークが浸透し、いまでは家で仕事をしているという方も珍しくなくなりましたね。当初は“会社へ行かない生活”に違和感や不便さを覚える方も多かったようですが、2年も続いてしまえばさすがに慣れてしまって当然かもしれません。

などと書いてはいるものの、じつをいうと僕の場合、生活スタイルはコロナ前もコロナ後もあまり変わらないんですよ。なぜってもう何十年も、自由業者として自宅で仕事を続けているから。つまりはコロナ前からのリモートワーカーなので、ずっと通勤されていた方とは事情が少しばかり違うのです。

でも、「通勤しなくていいから楽」かといえば、そうともいい切れない気はします。とくに自覚はしてはいないものの、考えてみると朝の8〜9時台から夜の20時くらいまで、ずーっと仕事をしていたりすることもよくあるからです。なにしろ家なので、なかなかそこで「休もう」という発想には至らず、気がつけば集中しすぎていたというようなケースもしばしば。食事の際にデスクを離れたら頭がクラクラし、そこで初めて疲れていたことに気づいたとか、そういうこともよくあるわけです。

もちろん、深夜の2〜3時まで普通に起きていたころにくらべれば、早寝になったいまはだいぶまともになったと考えることもできます。けれども、できれば「1日◯時間」と仕事をする時間をきっちり決め、あまり自分を追い込まずに生活したいところではありますねえ。

そもそもワーカホリックなのでそれも難しいのですけれど、そういう意味で理想的な生活をしていたんだなあと憧れずにはいられないのが、作曲家のモートン・フェルドマンです。いうまでもなく、「図形譜(図形で書かれた楽譜)」の発案者でもある、現代音楽界の第一人者。“天才”たちの日常を淡々とつづった好著『天才たちの日課 クリエイティブな人々の必ずしもクリエイティブでない日々』によると、彼は1日に4時間しか働かなかったそうなのです。


朝六時に起きて、十一時まで作曲。それで一日の仕事は終わりだ。そのあとは外に出て歩く。元気に何時間も歩く。マックス・エルンストが、そう遠くないところに住んでいる。ジョン・ケージもこっちへきた。ここではほかのすべての活動から遮断されている。(『天才たちの日課 クリエイティブな人々の必ずしもクリエイティブでない日々』メイソン・カリー 著、金原瑞人/石田文子 訳、フィルムアート社 より)


「そんな生活がどのような影響を及ぼしているか」という問いに対しては「最高だね」と答えていますが、そこには理由があるようです。それ以前は時間に追われながら作曲の仕事をしてきたため、「のんびりできることに慣れていない」と明かしているのです。しかも、以前は“音楽以外の仕事”もあったのだとか。


両親が“事業”をしていてね。二人の心配事や生活に、僕も関わってきた……
そのあと結婚したんだけど、妻はすごくいい仕事についていて、一日中外に出ていた。僕は朝六時に起きて、買い物をしたり、ご飯を作ったり、必死で家事をした。夜には友人がたくさんくる(僕は友人がたくさんいたんだ。自分では気づかなかったけどね)。(『天才たちの日課 クリエイティブな人々の必ずしもクリエイティブでない日々』メイソン・カリー 著、金原瑞人/石田文子 訳、フィルムアート社 より)


奥さんがどのような“すごくいい仕事”をしていたのかは定かではありませんが(なんか気になりますよね)、つまり結婚してからの彼は主夫だったわけです。それはそれでひとつの生き方ですけれど、その年の終わりになって、「今年はひとつも曲を作っていない」と気づいたというのだから驚き。「もっと早く気づきましょうよ」って気がしなくもありませんが、いずれにしてもそれでは本末転倒というもの。そのため、生活スタイルを改めたということなのでしょう。

ちなみに作曲のための充分な時間を確保したのち、フェルドマンはジョン・ケージから「いままで人から教わったなかで、最高の助言」を得たのだといいます。


「ケージは、少し書くたびに中断して、書いたものをもう一度書き写すといい、といったんだ。なぜかというと、書き写しているあいだはその曲のことを考えているから、また新しいアイデアが浮かんでくるんだよ、と。そこで僕もそのやり方でやるようになった。作曲することと書き写すこと。その関係はすばらしい、ほんとに驚いてしまう」。周囲の環境――よい筆記具やよい椅子などーーも大切だ。(『天才たちの日課 クリエイティブな人々の必ずしもクリエイティブでない日々』メイソン・カリー 著、金原瑞人/石田文子 訳、フィルムアート社 より)


どこかのビジネス書にありそうなアイデアですし、「ちょっと感動しすぎじゃないの?」とツッコミを入れたくもなりますが、ともあれフェルドマンはここで、自分にとって最適な仕事の進め方を身につけることができたのでしょう。だとすれば、それはそれで意味のあることですよね。

しかし、午前中の4時間しか仕事をしない生活って、正直なところうらやましいなあ。これまでは無意識のうちに「ワーカホリックな自分」に酔っていたような部分もあった気がするのだけれど、そういうのはもうやめにしたい気が。これからはフェルドマンを見習って、少しずつでも生活スタイルを改善していくことにしようかな。



『Rothko Chapel - Morton Feldman / Erik Satie / John Cage』
Kim Kashkashian, Sarah Rothenberg, Steven Schick, Houston Chamber Choir, Robert Simpson




◆バックナンバー
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当初、タイトルがものすごく長かった名曲がある→ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン『交響曲第9番ニ短調作品125「合唱付き」』

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偏屈で嫌われていた作曲家がいる→ドビュッシー

【3/12更新】『リスト:《巡礼の年》全曲』ラザール・ベルマン
他人の曲を借用しまくって自分のスキルを自慢した作曲家がいる→リスト

【3/5更新】『Rossini:Overtures/ロッシーニ序曲集』アントニオ・パッパーノ指揮、サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団
誰よりも早く「働き方改革」を実践した作曲家がいる→ロッシーニ

【2/26更新】 『Kagel: Chorbuch - Les inventions d'Adolphe sax』マウリシオ・カーゲル指揮、オランダ室内合唱団、ラシェール・サクソフォン・カルテット
ティンパニ奏者が自爆する曲がある→カーゲル「ティンパニとオーケストラのための協奏曲」

【2/19更新】『Haydn: The Creation』ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、フリッツ・ヴンダーリヒ
妻への恨みを曲にした作曲家がいる→ハイドン「4分33秒」

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【2/5更新】『ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第14番(弦楽合奏版)&序曲集』ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団, レナード・バーンスタイン
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【1/29更新】『プッチーニ:歌劇『トゥーランドット』(演奏会形式)』アンドレア・バッティストーニ, 東京フィルハーモニー交響楽団
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【1/22更新】『ドヴォルザーク:交響曲第9番《新世界より》 【ORT】』ヴァーツラフ・ノイマン指揮, チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
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【1/16更新】『モリエールのオペラ~ジャン=バティスト・リュリの劇場音楽』ジェローム・コレア&レ・パラダン
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【新連載】『エリック・サティ:新・ピアノ作品集』高橋悠治
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印南敦史 プロフィール

印南敦史(いんなみ・あつし)
作家、書評家。
1962年東京生まれ。広告代理店勤務時代に音楽ライターとなり、音楽雑誌の編集長を経て独立。「1ページ5分」の超・遅読家だったにもかかわらず、ビジネスパーソンに人気のウェブ媒体「ライフハッカー[日本版]」で書評を担当することになって以来、大量の本をすばやく読む方法を発見。その後、ほかのウェブサイト「ニューズウィーク日本版」「東洋経済オンライン」「サライ.jp」「マイナビニュース」などでも書評欄を担当することになり、年間700冊以上という驚異的な読書量を誇る。
著書に『遅読家のための読書術 情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(PHP文庫)、『書評の仕事』(ワニブックスPLUS新書)、『読書する家族のつくりかた』『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)、『プロ書評家が教える 伝わる文章を書く技術』(KADOKAWA)など。

◆ブログ「印南敦史の、おもに立ち食いそば」
◆連載「印南敦史の 名盤はハイレゾで聴く」

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