【12/24更新】 印南敦史の「クラシック音楽の穴」

2021/12/24

印南敦史のクラシック・コラム「クラシック音楽の穴」。ここで明らかにしようとしているのは、文字どおりクラシック音楽の「知られざる穴」。クラシックにはなにかと高尚なイメージがあって、それが「とっつきにくさ」につながっていたりもします。しかし実際には、そんなクラシック音楽にも“穴”というべきズッコケポイントがあるもの。そこでここでは、クラシック音楽の「笑える話」「信じられないエピソード」をご紹介することによって、ハードルを下げてしまおうと考えているわけです。そうすれば、好奇心も高まるかもしれませんからね。だからこそ肩の力を抜き、リラックスしてお読みいただければと思います。

演奏するのに4日もかかる楽劇がある

ワーグナー『ニーベルングの指輪』



あっという間に年末ですね。

毎年、この時期になると多くの人が「ちょっと前に正月だったのに、もう年末だよ」などというお決まりのフレーズを口にしたりするわけですが、新型コロナ以降、時間の経過はさらに早くなったような気もしますよね。

いずれにしても12月の声を聞けば忙しくなるわけで、僕もいま、とても厳しい状況下におります。とにかくやることが多すぎて、しかしモチベーションは上がらず、加えて忘年会の影響で二日酔いになったりもするので(それは自分のせいだよね)、時間が矢のように過ぎていくのです。

そんなわけでいまさらながら、「毎日を無駄なく過ごさなければいけないなあ」などと感じている次第。心がけ“だけ”は立派だよなと自己ツッコミを入れたくなりますけれど、実際のところ、そうでも思っていないと1日なんて、2日なんて、それどころか1週間なんてあっという間に過ぎてしまいますからねえ。

だから、完成するまでに26年もかかったうえ、演奏するには4日もかかる曲があるという話を思い出したりすると、あらためて「昔の人は呑気なものだったんだねえ」などと失礼なことを感じたりもするわけです。

なんのことかといえば、ワーグナーの楽劇『ニーベルングの指輪』。ワーグナーはこれを35歳だった1848年から書き始めるのですが、完成したのは1874年、つまり61歳のときだったのです。

で、なぜ演奏がそんなに大変かというと、お察しのとおりこの4部作が「めっちゃ長い」から。北欧神話をモチーフにした壮大な叙事詩なのですが、なにせ“序夜”にあたる「ラインの黄金」が約2時間40分、続く「ワルキューレ」が約3時間50分、お次の「ジークフリート」が約4時間、最後の「神々の黄昏」にいたっては約4時間半もかかるのです。

したがって4日間に分け、順番に演奏する必要があったということ。現代人からすると、ちょっと考えられない感じですよね。

なお、これを作曲することができたのは、バイエルン王国国王であるルートヴィヒ2世による経済的な支援体制があったからです。ワーグナーの才能に惚れ込んだ彼は多額の援助を行い、ワーグナー作品の上演を目的としたバイロイト祝祭劇場をつくってしまうほどの入れ込みようだったのです。ちなみにここで最初に上演されたのも、『ニーベルングの指輪』でした。

しかし初演までの経緯も、決して順風満帆というわけではなかったようです。なにしろ、繰り返しますが完成までに26年もかかったのですからね。26年も経てば、当時生まれた赤ちゃんだって立派な社会人になっているはず。そう考えると、ルートヴィヒ2世もよく待ち続けたものだなあと感心したくなりますが、決してじっと待ち続けたわけではなかったようです。

「ぶっちゃけ時間かかりすぎだからさあ、とりあえず、できあがったものから順に上演してってくんない?」

はたしてそんな口調だったかは疑問ですが、このように提案をしたわけです。ビジネスの世界ではクライアントを待たせすぎたりしたらその話自体がなくなったりしますから、むしろ好意的な話ですよね。

とはいえワーグナーにしてみれば、それは不本意なことだったでしょう。が、なにしろパトロンの要求なのですから断るわけにもいきません。かくして1869年9月に「ラインの黄金」が、翌年6月に「ワルキューレ」がミュンヘン宮廷歌劇場で初演されたのでした。

しかし、この時点で「ラインの黄金」の初演は作曲開始から21年後、「ワルキューレ」は22年後です。そのためワーグナーは、「俺、ちょっとこういうやり方は気に入らないんだよねー」などと文句はいえなかったわけです。

しかも、第1回バイロイト音楽祭において全曲の初演が実現したのは、さらに数年を経た1876年8月。すなわち作曲開始から28年後のことだったのです。この公演にはルートヴィヒ2世はもちろんのこと、チャイコフスキーやリスト、ブルックナーらも訪れたということですから、さぞや期待されていたのでしょう。くどいようですが、なにしろ28年も待たせちゃったんですから当たり前ですね。

ところが、それだけの時間をかけて書き上げた渾身の一作は、とても評判が悪かったのだそうです。しかも大赤字になったため、バイロイト音楽祭自体も1882年まで開催されなかったのだとか。『ニーベルングの指輪』も1896年まで上演されることはなかったようです。

そのためワーグナーはうつになってしまったのですが、納得できるまでとことん時間をかけたのですから、そりゃ落ち込みもしますよね。さっき“呑気”だなんて書きましたけど、そんなひとことで簡単にまとめられるようなものではなかったわけです。



『Der Ring des Nibelungen (Excerpts) - The complete recordings of the famous Pathe Ring 1929』
Walter Staram Orchestra




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印南敦史 プロフィール

印南敦史(いんなみ・あつし)
作家、書評家。
1962年東京生まれ。広告代理店勤務時代に音楽ライターとなり、音楽雑誌の編集長を経て独立。「1ページ5分」の超・遅読家だったにもかかわらず、ビジネスパーソンに人気のウェブ媒体「ライフハッカー[日本版]」で書評を担当することになって以来、大量の本をすばやく読む方法を発見。その後、ほかのウェブサイト「ニューズウィーク日本版」「東洋経済オンライン」「サライ.jp」「マイナビニュース」などでも書評欄を担当することになり、年間700冊以上という驚異的な読書量を誇る。
著書に『遅読家のための読書術 情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(PHP文庫)、『書評の仕事』(ワニブックスPLUS新書)、『読書する家族のつくりかた』『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)、『プロ書評家が教える 伝わる文章を書く技術』(KADOKAWA)など。

◆ブログ「印南敦史の、おもに立ち食いそば」
◆連載「印南敦史の 名盤はハイレゾで聴く」

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