印南敦史のクラシック・コラム「クラシック音楽の穴」。ここで明らかにしようとしているのは、文字どおりクラシック音楽の「知られざる穴」。クラシックにはなにかと高尚なイメージがあって、それが「とっつきにくさ」につながっていたりもします。しかし実際には、そんなクラシック音楽にも“穴”というべきズッコケポイントがあるもの。そこでここでは、クラシック音楽の「笑える話」「信じられないエピソード」をご紹介することによって、ハードルを下げてしまおうと考えているわけです。そうすれば、好奇心も高まるかもしれませんからね。だからこそ肩の力を抜き、リラックスしてお読みいただければと思います。
落第しまくった作曲家がいる
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セルゲイ・ラフマニノフ
高校1年のとき、危うく留年しそうになったことがあります。
当時、数学を担当していたのは、教師になって1年目の若手。そのため教え方はうまくなく、授業は全然進みませんでしたが、それはまあ仕方がありません。慣れていなかったわけですしね。けれど、彼は別の面でツッコミどころ満載だったのです。
どうやら青春ドラマに出てくるような先生になりたかったようで、授業そっちのけで「みんな、もっとキャンパスに出て汗をかこう!」「議論をしよう!」ってな感じでいちいち青春の押し売りをするわけです。
僕、そういうのがすごく苦手なんですよ。
汗をかきたければ動くし、議論をしたけりゃするけれど、それは人に押しつけられるようなものはないじゃないですか。なのに“明るく爽やかな青春”をぐいぐい押しつけてくるもんだから、なんだか体じゅうが痒くなってくるような感じで。
だからその先生には反抗しまくっていたのですが、あるとき数学の試験で赤点をとってしまったのでした。自業自得と呼ぶしかありませんが、そのとき初めて「落第→留年」というコースを現実的に意識することになったのです。
「いやいや、赤点ひとつ取っただけで、そんなことにはならないだろう」
自分にいい聞かせながら職員室へ行き、信頼していた生物の先生に相談を持ちかけました。
「あの、ちょっとお聞きしたいんですけど、赤点ひとつ取っただけで留年ってことは……ありえませんよね?」
「あるよ」
クールなその先生は、冷静に答えました。そのあとのことは記憶にありません。が、屋上へ行って寝転び、空を見上げながら絶望感に浸っていたことは覚えています。「なにこの青春っぽいシチュエーション?」などと感じたりしながら。
相手のツッコミどころを狙っていい気になっていると、ロクなことにはなりませんね。
さて、クラシックの世界にも、落第しまくった作曲家がいます。1873年のロシア・セミョーノヴォに生まれたラフマニノフがその人。とはいっても彼の場合は僕のようにお粗末なケースではなく、深刻な事情が関係していたようです。
裕福な地主階級の家に生まれ育つも、父親に浪費癖があったため借金がかさみ、やがて破産することに。かくして一家は領地を追い出されてサンクトペテルブルクへ移住したのですが、その後に両親が離婚。以後、ラフマニノフ少年は母親に育てられることになり、奨学金を利用してサンクトペテルブルク音楽院に入学したのでした。
しかし、複雑な家庭環境の影響か精神的に不安定な状態になった彼は、12歳だった1885年の学期末試験で落第してしまうのです。しかも僕のように一教科だけではなく(そんなところで自分と比較するなよ)、音楽以外の全科目で落第したというのですから大変。当然ながら奨学金も打ち切られてしまいます。
そこで母親は、彼の従兄弟であるピアニストのアレクサンドル・ジロティに助けを求めます。その結果、モスクワ音楽院への転入が決まり、厳しい指導で知られていたピアノ教師、ニコライ・ズヴェーレフの家に寄宿生として住み込んでピアノを学ぶことになったのでした。
苦難の多い少年時代だったことは疑いようもなく、ズヴェーレフ家でも早朝6時からの特訓に耐えていたようです。しかし、悪いことばかりではありませんでした。ズヴェーレフ家には多くの音楽家が出入りしていたため、チャイコフスキーに才能を認められたのです。
作曲を手がけるようになったのもこの時期のこと。ところが、ズヴェーレフは弟子がピアノ演奏以外のことに興味を持つことを快く思っていなかったため対立し、ズヴェーレフ家を出ることになります。
でも、そののち1891年には、モスクワ音楽院ピアノ科を優秀な成績で卒業し、同じ年にピアノ協奏曲第1番を完成させます。さらに翌年には同音楽院の作曲科を卒業し、卒業制作として歌劇『アレコ』を数日で書き上げたというのですから驚き。同年にモスクワ電気博覧会で前奏曲嬰ハ短調を初演すると絶賛を浴び、結果的にこれはラフマニノフにとって重要な作品になったのでした。
とはいえ、これですべてが解決したわけでは当然なく、1897年に初演された交響曲第1番は酷評を受けて大失敗。そのため自信を喪失して神経衰弱となり、一時は作曲ができないほどの状態に陥ってしまったのだとか。
実はラフマニノフに関してはやはりピアノ曲のイメージが強く、交響曲はさほど熱心に聴いてきたわけではないのですが、改めて聴いてみるとこの第1番、重厚さと力強さを併せ持っていてなかなかいいと思うんだけどなあ。
当時の人が認めなかったとしても、そこは素直に評価したいものです。苦難の半生を乗り越えてきた末に生み出した曲、すなわち血と汗と涙の結晶であることは間違いないわけですしね。
『ラフマニノフ : 交響曲・管弦楽曲全集』
エド・デ・ワールト, オランダ放送フィルハーモニー管弦楽団
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【2/5更新】『ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第14番(弦楽合奏版)&序曲集』ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団, レナード・バーンスタイン
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【新連載】『エリック・サティ:新・ピアノ作品集』高橋悠治
ふざけた曲名の楽曲をたくさん残した作曲家がいる→エリック・サティ
印南敦史 プロフィール