月間50本以上の書評を執筆する書評家であり、ベストセラー『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』の作家としても知られ、更にヒップホップなどのブラック・ミュージックからクラシックまでを幅広くフォローする異色の音楽評論家としての顔を持つ印南敦史による連載「印南敦史の名盤はハイレゾで聴く」。
スティーヴィー・ワンダー『ホッター・ザン・ジュライ』
“Happy Birthday”の日本での“使われ方”が、どうしても納得いかないんですよ
近著『音楽の記憶 僕をつくったポップ・ミュージックの話』(自由国民社)にも書いたとおり、僕のスティーヴィー・ワンダー初体験は小学6年生のときにリアルタイムで聴いた『ファースト・フィナーレ(Fulfillingness' First Finale )』(1974)でした。
そこから前年の『インナーヴィジョンズ(Innervisions)』(1973)、そのまた前年の『トーキング・ブック(Talking Book)』(1972)へとさかのぼっていった結果、“3部作”と呼ばれているそれらが自分のなかで大きな意味を持つことになったわけです。
いいかえれば、その時点でスティーヴィーに対する信頼感はがっちりと固まったということ。
だから中学2年の年に超大作『キー・オブ・ライフ(Songs in the Key of Life)』(1974)が出たときにも、そりゃーもうワクワクしたものです。それだけでなく、駄作といわれたサウンドトラック『Journey Through the Secret Life of Plants』(1979)でさえ、「こういうのもアリだよな」と肯定的に解釈していました。
速い話が、それだけ信頼していたわけです。
そして高校3年だった年の9月に、『ホッター・ザン・ジュライ(Hotter Than July)』が発売されたのでした。まだ暑い時期だったこともあり、オレンジを基調とするスティーヴィーの似顔絵が描かれたジャケットを手にしたときは、「ちょっと暑苦しいなぁ」と感じたことを覚えています。
しかし、そんなどうでもいい話はともかく、スティーヴィー待望の新作なのですから悪いはずがありません。
たしかに完成度の高さという点では、3部作や『キー・オブ・ライフ』には及ばないかもしれません。が、それだって単なる比較の問題。全10曲がじっくりとつくり込まれていることは間違いなく、ダンス・トラックからバラードまで、非常にバランスがとれた仕上がりになっていたのでした。
しかも楽曲のよさもさることながら、このアルバムについて特筆すべきもうひとつの点は“流れ”です。
グルーヴ感に満ちたオープニング・トラックの“Did I Hear You Say You Love Me”でしょっぱなから一気に疾走し、盛り上がりが頂点に達したところでミディアムの“All I Do”へ。
いい感じにクール・ダウンしたら、お次はバラードの“Rocket Love”。そこからリズム隊のキレがすばらしい“I Ain'’Gonna Stand For It”でまた盛り上げていき、続いてはクールな質感をたたえた“As If You Read My Mind”へ。
と、ここまでで前半は終了。
この時点で、DJのミックスのように曲間の切れ目なく進行していく構成にも心を奪われてしまったのでした。
そして後半は、歌詞にボブ・マーリィの名も出てくるレゲエ・ナンバーの“Master Blaster(Jammin’)”。大ヒット・シングルにもなったこの曲は、アルバムを代表する楽曲でもあります。
“Do Like You”は、勢いのあるダンス・トラック。泥くさい“Master Blaster(Jammin’)”の次に対照的な質感の曲を持ってくるあたりに、明確な意図を感じさせます。
そしてゆるいファンク・トラックの“Cash in Your Face”に続き、そこからシングル・ヒットした極上のバラード“Lately”へ突入。いまやスティーヴィーを代表する名曲のひとつとしても知られていますが、何度聴いてもまったく色褪せません。
そしてラストは、これまた有名な“Happy Birthday”で幕を閉じるわけです。
が、最後のこの曲の日本での扱われ方に関しては、個人的にちょっと抵抗を感じるところがあるのです。曲そのものについてではなく、あくまでも“扱われ方”の問題ね。
というのもこれ、ご存知の方も多いでしょうが、公民権運動の指導者として重要な足跡を残したマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師に捧げられた曲なのです。
その目的は、キング牧師の誕生日である1月15日を祝日にしようという運動を推進することでした。
つまり、実は政治的な、とても深い意味があるのです。だからこそ、飲み屋などで誰かの誕生日のお祝いにこの曲がかかり、居合わせた人たちが「うえ〜い!」と盛り上がるような光景を目の当たりにすると、なんとも複雑な気分になってしまうわけです。
大昔、御徒町にあったイケてないソウル・バーでDJをやっていたときにも、何度もかけさせられたっけなぁ。あれはつらかったなぁ。
アフリカン・アメリカンのコミュニティ内でも似たようなことがあるという話も聞いたことがありますけれど、そもそも本質的な部分が違いすぎる気がするし。
ってなわけで、ラストのこの曲がはじまると、つい余計なことまで考えてしまったりもするのでした。
でもアルバム自体は、文句なしにすばらしいんですよ。

『Hotter Than July』
Stevie Wonder