【6/25更新】印南敦史の「クラシック音楽の穴」

2021/06/25
印南敦史のクラシック・コラム「クラシック音楽の穴」。ここで明らかにしようとしているのは、文字どおりクラシック音楽の「知られざる穴」。クラシックにはなにかと高尚なイメージがあって、それが「とっつきにくさ」につながっていたりもします。しかし実際には、そんなクラシック音楽にも“穴”というべきズッコケポイントがあるもの。そこでここでは、クラシック音楽の「笑える話」「信じられないエピソード」をご紹介することによって、ハードルを下げてしまおうと考えているわけです。そうすれば、好奇心も高まるかもしれませんからね。だからこそ肩の力を抜き、リラックスしてお読みいただければと思います。
日常生活のリズムを乱す曲がある

ワーグナー『ニーベルングの指輪』


僕は書評家なので、日常的に多くの本を読んでいます。子どものころから本は好きでしたし、そういう意味では天職だなぁと感謝もしています。

しかし読む本が多いということは、それだけの時間が必要になるということでもあります。もちろん読み方にもコツがあって、だから1日に2冊くらいの本を読めるのですけれど。

ちなみにその方法については『遅読家のための読書術』(ダイヤモンド社)という本に詳しく書きましたので、興味のあるかたはぜひ。

と、宣伝はこれくらいにしておきますが、そのいっぽうには“時間をかけざるを得ない本”や、“時間をかけて熟読せずにはいられない本”などもあるわけです。

長編で、しかも、ものすごくおもしろい本。

たとえば最近では、リクルート創業者、江副浩正氏の生涯を追った『起業の天才!』(大西康之 著、東洋経済新報社)とか、イギリスのロック・アーティストが自身の反省を綴った『エルヴィス・コステロ自伝』(エルヴィス・コステロ 著、夏目 大 訳、亜紀書房)などがそれにあたるかな。

どちらにも読まずにはいられないような説得力があったのですが、とはいえ前者は476ページ、後者は776ページですからねえ。かなりの時間を浪費してしまったわけです。

しかもそういった場合、少なくとも読み終えるまでは読書が生活の中心になってしまいます。そのため必然的に、「他の本をいつ読むか」「原稿をいつ書くか」「食事はどうする」などなど、さまざまな問題が起きることになります。

ぶっちゃけ、日常生活に支障が出る、いいかえれば日常生活のリズムが乱れるということですよ。

それは困るのですけれど、でも、残念ながらどうにかできるものでもありません。ある意味で、こちらの事情などお構いなしに、そこまで気持ちを持って行きやがる本というものは、やはり魅力的ですからね。

クラシックの世界にも、そんな作品がありますよね。世界観やストーリー展開が壮大そのもので、おまけに演奏時間も長いというような。

いうまでもなく、その際たるものはワーグナーの過激……じゃなくて歌劇『ニーベルングの指輪』ということになるでしょう(ある意味では過激)。

細かく書くとキリがないのでざっくり説明すると、神が統治する世界で、魔力を持つ指輪をめぐって地底人、神々の長、巨人族などがバトルしまくるという壮大なストーリーです。

ワーグナー自身が台本を手がけているあたりからも力の入れ具合がわかりますが、とはいえこれ、いろいろな意味で常識を逸脱しています。

なにしろ35歳だった1848年から61歳になった1874年まで、完成までに26年もの時間が費やされているのです。しかも上演には15時間、4日間が必要とされるというのですから、ぶっ飛びすぎとしか表現のしようがありません。

具体的には、序夜『ラインの黄金』が2時間40分ぐらい、第1夜『ワルキューレ』が3時間50分ぐらい、第2夜『ジークフリート』が4時間ぐらい、第3夜『神々の黄昏』が4時間30分ぐらいかかるのです。

チャイコフスキー は、(中略)「専門の音楽家である私が、四部作の個々の部分の上演ののちに、精神的にも肉体的にもすっかり疲労困憊したのであってみれば、熱心に傾聴した愛好家たちの疲労はどんなに大きかったことだろう」と書いている。たしかに、この完成までに二十六年もの歳月を要した超大作は、聴き手にとっても全部聴きとおすには大変な時間と体力を要求される労作なのである。

僕が敬愛してやまない音楽評論家の志鳥栄八郎先生は、著作『クラシック名曲ものがたり集成』(講談社+α文庫)にこう記していますが、たしかにそのとおり。チャイコフスキーでさえ疲労困憊したというのですから、一般人が受けるダメージはかなりものものであると思われます。

とはいえ名作として名高いだけのことはあり、これが非常に聴きごたえのある作品でもあるんですよね。

もちろん4日もかかる作品を劇場で鑑賞した経験はなく、それどころか恥ずかしながら、貫徹しようと意気込んで観たDVDも結局は途中で挫折してしまったので偉そうなことはいえません。けれど、映像なしでも充分に説得力を感じさせてくれるのです。

これまでに何度かあったのは、読書や執筆のBGMとして利用してみたこと。「15時間ぐらいあるんだから、ちょうどいいかな」と思ったわけですが、そもそもこれだけ濃厚な作品をBGMで終わらせられるはずもなく、気がつけばめくるめく展開に気を取られてしまい、結局は読書も執筆も鑑賞も、すべてが中途半端になってしまったのでした。

そんなわけで、恥ずかしながら僕はこの作品を本当の意味で聴き通せたとは思っていません。そこがもどかしいところなのですが、だからこそ、死ぬまでにはどっぷりと浸かりきってみたいものだと考えているのです。



ワーグナー:舞台祝典劇《ニーベルングの指輪》
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団, ヘルベルト・フォン・カラヤン




◆バックナンバー
【5/28更新】『ヘンデル:組曲「水上の音楽」全曲』ヘルムート・コッホ, ベルリン室内管弦楽団
「クラブ・イヴェントの原点のような曲がある→ヘンデル『水上の音楽』

【4/30更新】『ブルックナー:交響曲全集』韓国交響楽団, イム・ホンジョン
「純粋にもほどがあらぁ!」と突っ込みたくなる作曲家がいる→アントン・ブルックナー

【3/26更新】『J.S.バッハ: マタイ受難曲 BWV244』ゲオルク・ポプルッツ, マインツ・バッハ合唱団, マインツ・バッハ管弦楽団, ペトラ・モラート=プシネッリ, ラルフ・オットー
「葬式が多いと収入が増える」などと発言した作曲家がいる→ヨハン・ゼバスティアン・バッハ

【2/26更新】『グラナドス:ピアノ組曲「ゴイェスカス」-恋するマホたち-&「スペイン舞曲集」より』アブデル=ラーマン・エル=バシャ
ものすごく劇的な死に方をした作曲家がいる→エンリケ・グラナドス

【1/29更新】『サン=サーンス:交響曲第3番《オルガン》、死の舞踏、バッカナール、他』シカゴ交響楽団, パリ管弦楽団, ダニエル・バレンボイム
多才なのにイマイチ評価が低い作曲家がいる→カミーユ・サン=サーンス

【12/25更新】『Bizet: Carmen』Sir Simon Rattle, Berliner Philharmoniker, Chor des Deutschen Staatsoper, Jonas Kaufmann, Magdalena Kozena
“3”に因縁のある作曲家がいる→ジョルジュ・ビゼー

【11/27更新】『ベートーヴェン:交響曲 第9番 「合唱」』ヴュルテンベルク・フィルハーモニー管弦楽団, 飯森範親
「歌声喫茶」と関係の深い名曲がある→ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン『交響曲第9番ニ短調作品125「合唱付き」』

【10/30更新】『シューベルト:冬の旅 【ORT】』ヘルマン・プライ
自らの死を予言した作曲家がいる→フランツ・シューベルト

【9/25更新】『ベルリオーズ : 幻想交響曲』ヤクブ・フルシャ, 東京都交響楽団
ストーカーに近かった作曲家がいる→エクトル・ベルリオーズ

【8/28更新】『R.シュトラウス:交響詩《英雄の生涯》』ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団, カール・ベーム, ゲルハルト・ヘッツェル
自らを「英雄」だと豪語した作曲家がいる→リヒャルト・シュトラウス

【7/31更新】『ブラームス:交響曲第1番』ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団, カール・ベーム
石橋を叩きすぎた作曲家がいる→ヨハネス・ブラームス

【6/26更新】『Rothko Chapel - Morton Feldman / Erik Satie / John Cage』キム・カシュカシャン, Sarah Rothenberg, Steven Schick, Houston Chamber Choir, Robert Simpson
午前中しか働かなかった作曲家がいる→モートン・フェルドマン

【5/29更新】『ハチャトゥリャン ヴァイオリン作品集「ソナタ=モノローグ」』木野雅之
たったひと晩で書かれた名曲がある→アラム・ハチャトゥリアン『剣の舞』

【5/1更新】『Maurico Kagel: Ludwig Van』Mauricio Kagel
指揮者が倒れて痙攣する曲がある→マウリツィオ・カーゲル「フィナーレ」

【3/27更新】『ベートーヴェン: 交響曲 第5番、シベリウス: 交響曲 第2番』ジョージ・セル, ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
浮浪者に間違えられ逮捕された作曲家がいる→ベートーヴェン

【2/28更新】『チャイコフスキー:《くるみ割り人形》、《眠りの森の美女》組曲』パリ管弦楽団, 小澤征爾
性的嗜好に翻弄された作曲家がいる→ピョートル・チャイコフスキー

【1/31更新】『ヴィヴァルディ:四季』イ・ムジチ合奏団, フェリックス・アーヨ
敏腕DJ以上に仕事が速かった作曲家がいる→アントニオ・ヴィヴァルディ

【12/27更新】『ベートーヴェン: 交響曲全集』ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団, ヘルベルト・フォン・カラヤン
当初、タイトルがものすごく長かった名曲がある→ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン『交響曲第9番ニ短調作品125「合唱付き」』

【11/29更新】『バッハ・カレイドスコープ』ヴィキングル・オラフソン
いち早く少子高齢化対策をした作曲家がいる→ヨハン・ゼバスティアン・バッハ

【11/1更新】『ショスタコーヴィチ:交響曲第10番&第11番 (96kHz/24bit)』スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ, 読売日本交響楽団
呪いをはねのけた作曲家がいる→ドミートリイ・ショスタコーヴィチ

【9/27更新】『ブルックナー:交響曲 第6番』上岡敏之, 新日本フィルハーモニー交響楽団
出だしが非常に遅かった作曲家がいる→アントン・ブルックナー

【8/30更新】『世界の愛唱歌ベスト』V.A.
38セントしか遺産を残さなかった作曲家がいる→リストスティーブン・フォスター

【7/26更新】『レーガー: オルガン作品集 第14集 5つのやさしい前奏曲とフーガ/52のやさしいコラール 前奏曲』ジョセフ・スティル
食欲で身を滅ぼした(かもしれない)作曲家がいる→マックス・レーガー

【6/28更新】『R.シュトラウス:交響詩《ツァラトゥストラはかく語りき》、他』ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮, ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
家庭の事情を仕事に持ち込んだ作曲家がいる→リヒャルト・シュトラウス

【5/31更新】『Khachaturian: Suites from Spartacus and Gayane / Ravel: Daphnes et Chloe 』St Petersburg Philharmonic Orchestra, Yuri Temirkanov
突貫工事でつくられた名曲がある→ハチャトゥリアン「剣の舞」

【4/26更新】『ブルックナー:交響曲 第8番 (ハース版) 』朝比奈隆, 大阪フィルハーモニー交響楽団
実の息子に対抗意識を持った指揮者がいる→朝比奈隆

【3/28更新】『Satie: Vexations (840 Times)』Alessandro Deljavan
最後まで演奏するのに18時間かかる曲がある→サティ「ヴェクサシオン」

【3/19更新】『Debussy: Piano Works, Vol. 2 - Estampes, Children's Corner, Pour le piano & Other Pieces』Jacopo Salvatori
偏屈で嫌われていた作曲家がいる→ドビュッシー

【3/12更新】『リスト:《巡礼の年》全曲』ラザール・ベルマン
他人の曲を借用しまくって自分のスキルを自慢した作曲家がいる→リスト

【3/5更新】『Rossini:Overtures/ロッシーニ序曲集』アントニオ・パッパーノ指揮、サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団
誰よりも早く「働き方改革」を実践した作曲家がいる→ロッシーニ

【2/26更新】 『Kagel: Chorbuch - Les inventions d'Adolphe sax』マウリシオ・カーゲル指揮、オランダ室内合唱団、ラシェール・サクソフォン・カルテット
ティンパニ奏者が自爆する曲がある→カーゲル「ティンパニとオーケストラのための協奏曲」

【2/19更新】『Haydn: The Creation』ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、フリッツ・ヴンダーリヒ
妻への恨みを曲にした作曲家がいる→ハイドン「4分33秒」

【2/12更新】『Cage: Works for 2 Keyboards, Vol. 2』Xenia Pestova, Pascal Meyer, Remy Franck, Jarek Frankowski, Bastien Gilson
4分33秒、無音の曲がある→ジョン・ケージ「4分33秒」

【2/5更新】『ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第14番(弦楽合奏版)&序曲集』ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団, レナード・バーンスタイン
コーヒーに異常な執着を見せた作曲家がいる→ベートーヴェン

【1/29更新】『プッチーニ:歌劇『トゥーランドット』(演奏会形式)』アンドレア・バッティストーニ, 東京フィルハーモニー交響楽団
たばこ好きが高じて犯罪の域に足を踏み入れた作曲家がいる→プッチーニ

【1/22更新】『ドヴォルザーク:交響曲第9番《新世界より》 【ORT】』ヴァーツラフ・ノイマン指揮, チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
「鉄オタ」だった作曲家がいる→ドヴォルザーク

【1/16更新】『モリエールのオペラ~ジャン=バティスト・リュリの劇場音楽』ジェローム・コレア&レ・パラダン
床を足で叩いて命を落とした作曲家がいる→リュリ

【1/9更新】『モーツァルト:レクイエム』ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団, ヘルベルト・フォン・カラヤン
お尻をなめることを要求した作曲家がいる→モーツァルト

【新連載】『エリック・サティ:新・ピアノ作品集』高橋悠治
ふざけた曲名の楽曲をたくさん残した作曲家がいる→エリック・サティ



印南敦史 プロフィール

印南敦史(いんなみ・あつし)
東京出身。作家、書評家、音楽評論家。各種メディアに、月間50本以上の書評を執筆。新刊は、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)。他にもベストセラー『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)をはじめ著書多数。音楽評論家としては、ヒップホップなどのブラック・ミュージックからクラシックまでを幅広くフォローする異色の存在。

◆ブログ「印南敦史の、おもに立ち食いそば」
◆連載「印南敦史の 名盤はハイレゾで聴く」
 

 | 

 |   |