音楽制作の新しい形! スタジオクオリティで“ライブ”を捉えた藤田恵美の画期的な最新作『Headphone Concert 2021』

2021/06/11

「この企画は“コンサートのようなレコーディング”であり、“レコーディングのようなコンサート”という不思議なコンセプトです。ステージ上の景色も進め方も、私たち演者さえ経験したことのないものになりそうです。 皆さまにはこの初めての経験を一緒に楽しむ“見届け人”のような気持ちで、気軽にご参加頂けたらと思っています」 ---2021年2月18日・19日、横浜市のサンハートホールで開催された「藤田恵美 Acoustic Concert 2021」の告知には、藤田恵美さんのそんな言葉が添えられていました。一体どのような催しだったのでしょう。藤田恵美さんとキーボーディストで作編曲家の宇戸トシヒデさん、当企画の発案者で「HD Impression」レーベルを主宰するレコーディングエンジニアの阿部哲也さんにリモートでお話を伺いました。

文・取材/写真◎山本 昇


Headphone Concert 2021』/藤田恵美






 2日間にわたって行われた今回のヘッドフォンライブ(入場無料)は、1日2ステージの計4ステージという構成。主に男性ボーカリストの名曲をカバーして話題となった昨年のアルバム『ココロの時間』から「ケンとメリー~愛と風のように~」(Buzz)、「セクシイ」(下田逸郎)、「パレード」(山下達郎)のほか、「The Water Is Wide」(スコットランド民謡)や「Let It Be」(ビートルズ)、「卒業写真」(荒井由実)、「酒と泪と男と女」(河島英五)などのカバー、さらに「ひだまりの詩」(Le Couple)や「愛の景色」(藤田恵美)といった人気曲も披露された……と聞けば、通常のコンサートを思い浮かべるだろうがさにあらず。実はこれ、レコーディングの現場なのである。レコーディングなのに有観客? ホールなのにヘッドフォン? いわゆる公開録音ともヘッドフォンコンサートとも異なる前代未聞の試みとなった今回の企画。その狙いとは? 成果とは?





■前代未聞のレコーディング企画が生まれた経緯

――ホールでのライブレコーディングで、しかも観客はヘッドフォンで聴くというスタイルが何とも珍しい今回の試みですが、この企画は阿部さんがあたためていたものなのですか。

阿部 そうなんです。わりと以前から考えていたことではあったんですよ。

――どんなきっかけで?

阿部 恵美さんのライブを僕もずっと昔からそばで聴いてきて、「これをそのまま残せたら」と強く思っていました。ただ、「カモミール」シリーズが世界中のオーディアファイルにご好評いただけたことで、「藤田恵美作品が高音質でないのは許されない」というふうに感じていました。映像作品は別にして、ライブを通常のやり方でレコーディングしてリリースするには音質の点でいろいろと問題があります。

――問題となる主な要因とは?

阿部 ライブでは通常、PAシステムが入ります。客席用のメインスピーカーのほか、演者用のモニタースピーカーが必要となりますから、どうしても本来の歌や楽器ではない音が回り込んで一緒に録音されてしまいます。主にモニターから出る音をマイクが拾ってしまうので、音が濁ってしまうのです。

――確かにステージにはサイドフィルやコロガシなど演者さんが自分の音や他の人の音を確認するためのモニタースピーカーが多く配置される場合があります。最近ではイヤモニを使うことも増えたとは言え、まだまだスピーカーで音を確認する演者さんは多いですね。また、客席に向けたメインスピーカーもかなりのボリュームが出ています。

阿部 メインスピーカーの影響もありますが、音が濁る要因として大きいのはモニターのほうなんです。歌もそうですが、楽器によっては実音よりも、戻って来たモニターのほうが大きかったりするものですから。そこで今回は、ステージの皆さんにはスタジオでの録音と同じようにヘッドフォンでモニターしてもらい、客席のお客様にもヘッドフォンやイヤフォンを持ってきて聴いていただくというスタイルのライブレコーディングを企画しました。

――ステージにも、客席向けのスピーカーもないという大変珍しい光景でした(笑)。

阿部 普通はちょっとできないことですよね。そもそもライブの音に関する主導権はPAスタッフにあり、レコーディングする側はマイクの選択に関わることもできません。音はPA用のコンソールから「回線を分けていただく」という形になります(笑)。通常は、そうした制約もあるわけですね。

――会場は横浜市のサンハートホールとなりました。ここを選ばれたのは?

阿部 レコーディングのことを考えると、ある程度の広さがあるホールの適度な響きがほしいわけですが、そうした条件に適うホールの一つがここでした。響き過ぎるのも困るので、ちょうどいいところを探していたんです。




レコーディング現場となったサンハートホール(横浜市)の全景。
平土間形式のホールで、残響時間は空席時で約0.9秒となっている



■実験的な試みを体験して

――お二人は今回の企画を受けて、どう感じたのでしょうか。

宇戸 阿部さんからこの企画が明かされたのは去年の11月の打ち合わせで、集まったのは恵美ちゃんとギターの西海孝君と僕の3人でした。基本的にはレコーディングなんだけど、お客さんもいらっしゃる。でも、いわゆるライブレコーディングとも違うと……。最初はちょっとイメージができなかったんですが、きっと楽しいものになるだろうなと、勝手に思ってはいました(笑)。

――実際にやってみて、いかがでしたか。

宇戸 僕は普段から、ライブではレコーディングのように丁寧に、レコーディングではライブ感をもって演奏することを心掛けています。今回はその両方が重なって、いい意味での緊張感があり、いままで味わったことのない楽しさがありました。アンサンブルの仕方でも、互いの距離感が如実に分かるので、ピアノだったらタッチをどうするかも考えながら演奏を進めていくことができました。

――レコーディングだけどお客さんも入っているという状況は、演奏にとっていい方に作用しましたか。

宇戸 そうですね。いい方向に向かったと思います。

阿部 最初のミーティングでこの企画を持ちかけたとき、宇戸さんはすごく前向きに捉えてくれたんですが、西海さんからは「コンセプトが見えない」って言われました(笑)。

宇戸 そうそう(笑)。

阿部 僕が説明したのは、「ライブに特有の、あの緊張感ある演奏を、いい音で録音したい」ということでした。でも、西海さんからすると「でも、レコーディングなんでしょ?」と。演奏者にとっては難しい部分もあるんだなと思いました。

――西海さんが戸惑われるのも分かる気がしますよね。プロのミュージシャンとして、ライブでは目の前のお客さんを喜ばせたいと思うし、レコーディングは演奏だけに集中することで生まれてくるものがある。普段から、ステージとスタジオでは頭を切り替えて演奏してきたとすれば、確かにこの状況は「どっちなの?」となってしまうでしょう。でも、阿部さんはそこをあえて一緒にすることで、両方の良さを引きだそうと考えたわけですよね。

阿部 そうです。今回はなんとかお願いしました。

――では、恵美さんはどう思われたのでしょうか。

藤田 私も最初はあまり深く考えずに「いいよ。面白そうだからやってみようか」という感じで引き受けたんです。でも、ミーティングで話し合っているうちに、私もだんだん西海君と同じように、ライブとレコーディングではモードが全く違うので大丈夫かなと思うようになりました。ライブ感というのも善し悪しで、勢いを出せる反面、雑になってしまう可能性もあります。それが記録されて残るのは、演者としてはちょっとまずいかなとも思うわけですよ。ライブとレコーディング、どっちのモードでやるべきなのか、また、MCはどうしたらいいのか……よく考えるとこれはなかなか大変なことだと気付きました(笑)。

――いちばん影響を受けるのが、ボーカリストである恵美さんですものね。

藤田 私はレコーディングで歌う前はほとんどしゃべりません。ノドを使わないようにしたいし、話す声と歌う声も違いますから、とにかく気を付けてスタジオに入るんです。コンサートではお客さんに向けてしゃべるし、気持ちがのれば大声を張って歌うこともある。そこで今回は、MCはしないようにしようと思いました。淡々と曲をやっていき、お客さんにはそれを見守っていただくことにしようと決めていたんです。初日の最初のステージが始まる10分くらい前までは。

一同 (笑)

藤田 本番直前にマネージャーがやってきて、「恵美さん、大変です。客席がすごく緊張しています。何かしゃべったほうがいいですよ」って(笑)。やっぱり最初くらいはMCを入れて、お客さんにリラックスしてもらったほうがいいなと気が変わりました。でも、最初の1?2曲だけしゃべって途中で何も話さなくなるのもおかしいかなと思い、結局最後までMCを入れることになりました(笑)。

――お客さんのほうにしても初めての体験ですから、勝手が分からず緊張してしまうのも仕方ありません。

藤田 そうなんです。始めてみて思ったのは、これはコンサート形式のレコーディングというよりは、レコーディングそのものをコンサート形式で公開するという、ほとんどの人がまだ経験していないことなんだと。やりながらいろんなことに気が付いていったんです。ステージのメンバーもみんなそうだったんじゃないかな。一体どうなるのか分からないけど、手探りで進めていったと思います。

――バックの皆さんの演奏も、普段とは違う感じでしたか。

藤田 初日の最初のステージは、多少緊張していたかなと思いました。“スタジオ作品”としてアンサンブルを作ると同時に目の前のお客さんにアプローチする気持ちもあって混乱したと思うけど、やっていくうちに本来の力が出てきました。皆さん、いろんな経験を積んだ方たちだから、コツをつかめば大丈夫なんですね。おそらく、このメンバーのアンサンブルの良さやグルーヴ感は、やればやるほどもっともっと出てくるんじゃないかなと思います。

――なるほど。

藤田 アドリブもやりづらいと思うんですよね。コンサートであれば「やっちゃえ!」と思っても、「これはレコーディングなんだから」と踏みとどまるかもしれない(笑)。

宇戸 通常のレコーディングだと、「あ、ちょっともう1回やらせて」とか、部分的にはパンチインしたりもするわけで、最初の打ち合わせでは、そういうのもやっていいよねと言っていたんですよ。

藤田 曲の途中で止めて、やり直したりね。

宇戸 そう。レコーディングなんだからとね。でも、お客さんがいるとそれはできなかった。やっぱり純粋にレコーディングのモードではなかったということでしょうか。それも含めて、初めての経験でしたね。

藤田 2日目の後半のステージで、私はさすがにノドが疲れてしまって、「ゴメン、もう1回」っていうのはありましたけど。

宇戸 うん。あれは仕方がないよね。

藤田 でもね、終演後のサイン会でお客さんに「ああいうレコーディングらしいシーンがもっとあってもよかったのに」って言われました。こっちはモードが揺れ動く中で大変だったんだけどね(笑)。

宇戸 お客さんの中には、恵美ちゃんが客席ではなく、周りを囲んだ僕らのほうを見て歌うのかなと思ったという人もいたようですね。

藤田 うん、私も最初はそんなふうに輪になってやるのかなと思ったけど、それは音的に難しいと阿部さんに言われて(笑)。



客席をMCで和ませながらも“レコーディングモード”で歌う藤田恵美さん



宇戸トシヒデさん(ピアノ/ティンホイッスル/アコーディオン)



西海孝さん(ギター/コーラス)



武川雅寛さん(バイオリン/トランペット)



河合徹三さん(ベース)



朝倉真司さん(パーカッション)


――私も当日はヘッドフォンで聴いていましたが、上手のギターから下手のピアノまで、見たとおりの定位だったから、違和感なく音楽に集中できました。

阿部 イメージとしては半円で包まれている感じにミックスしていました。

――ステージの皆さんのモニターには、客席の音も聞こえていたのですか。

阿部 はい。ステージのすぐ前に立てたアンビエンスマイクの音は全体の2ミックスに混ぜていて、この2ミックスは客席にも演者にも同じように送っていました。演者用は、それに加えて自分が聴きたい音を上げ下げできるようになっていました。

――じゃあ、会場の空気感は演者の皆さんにもヘッドフォンを通じて伝わっていたわけですね。

阿部 そうなんです。だから、客席のちょっとしたノイズも実はみんなに伝わっていました。曲によっては、「あ、このテイクはダメかな」というのも分かっていたかもしれません。

藤田 もう、出だしでけっこう聞こえてきたりして。でも、それで止めちゃうと、音を出してしまったお客さんが自分のせいでと思ったらかわいそうなので……。

――なんとお優しい! 恵美さんらしいエピソードですね。それにしても今回は、結果的にスタジオでの一発録音を次々とお客さんに披露するという形となり、非常に実験的な催しとなりました。

阿部 2日間で4回のステージが行われ、お客さんはステージごとに入れ替えられました。ミーティングでは、1曲ごとに何テイクかやろうという話もあったんですが、それだとお客さんは曲数を多く聴くことができないので、それもどうなのかなとか、いろいろ話し合ったうえで、最終的に全曲を通しでやっていく形になりました。

――演者のお二人として、この試みで得られた手応えは?

宇戸 レコーディングを終えたいまでは、もう一回チャレンジしてみたい気持ちはあります。もっといろんな曲もやってみたい。そして、先ほど話に出たような、本当のレコーディングをお客さんに見ていただくというのも興味があります。どのような形にするかは一考を要するとは思いますけれど。

藤田 私はもう、終わってからクタクタで。

宇戸阿部 (笑)

藤田 こんなに疲れるものかと思いました。2日続けて、1時間半のステージを2回ずつ行いましたが、その間ずっとヘッドフォンで繊細な音を聴き続けていました。言うなれば、自分のノドを内視鏡でずっと見ているような感じで、やっぱりすごく神経を使っていたんですね。途中で頭も痛くなってしまうし……しばらくは遠慮したいなと思いましたね(笑)。

宇戸 うん、僕もちょっと間を空けてからにしたいかな(笑)。

藤田 (画面越しに)阿部さんもニヤニヤしてますけど、ステージに立った人にしかあの感覚や緊張感は分からないんじゃないかな。そんなこともあって、今日のインタビューには宇戸君にもぜひ参加してほしかったんですよ。とにかく非常に実験的なコンサートであり、レコーディングでしたが、何か意義深いものがあると感じるんですよね。当日来てくださったお客さんも、もしかしたら同じ想いだったかもしれません。

阿部 緊張ということでは、言い出しっぺの僕も大変でした。実は当日、けっこう機材がトラブっていたんですよ。演者の皆さんが緊張しながら頑張ってくれているのに、「いまの録れてませんでした」はあり得ない(笑)。なんとか無事に録りきれるよう、最後は神頼みでした。リハーサルのときに一度止まってから、ハラハラしっぱなしで。あの状況は僕もしばらく御免被りたいですね(笑)。

――それはスタジオとは電源環境も違うことから?

阿部 そうですね。スタジオに比べてホールは電圧が安定しないので、トラブルは付きものではあるんです。大抵はしばらくすると落ち着いてくるものなのですが、あの日は熱によるものと思われる暴走もあったりして大変だったんですよ。

――阿部さんもほとんど命がけだったと。

阿部 はい。かなり削れました(笑)。

藤田 今回の企画はスタッフもごく少数で、阿部さんにかかる負担もかなり大きかったんですよね。いま思うとよくできたなという感じもするくらい。客席の皆さんが使うヘッドフォン用のケーブルとかも阿部さんの手作りですからね。事前の準備も含めて大変だったと思います。考えてみれば、何もかもが手作りの催しでもありました。舞台監督もいないから、楽屋にいてもいつ出ていっていいのか分からなくて、メイクさんが「隣の皆さん、上がったようです」って教えてくれて、「あ、そう。じゃあ私もそろそろ行こうかな」とか(笑)。まぁ、そういう温もりのある現場でしたね。

阿部 すみません(笑)。

藤田 いえいえ。でも、これまで誰もやらないようなすごいことをやったわけですからね。

宇戸 そうだよね。

藤田 地味かもしれませんが、今後に向けてすごく意味のある試みだったと思います。







■宇戸トシヒデさんとの出会い

――ところで、藤田さんと宇戸さんは、どのような出会いから共演を続けられているのでしょうか。

宇戸 僕が恵美ちゃんと出会ったのは、まだ20代の頃でした。ウェストコーストやカントリーなどのアメリカンミュージックを主に演奏するバンドを一緒にやっていたんです。その後、恵美ちゃんがLe Coupleを始めて、しばらくして「ひだまりの詩」のちょっと前くらいからまたご一緒させてもらっています。

――藤田さんとのセッションではいつも、歌を自然に引き出すような伴奏が印象的ですが、元々はどんなピアノスタイルを目指していたのですか。

宇戸 小さな頃からクラシックをやっていたのではなく、中学の頃はフォークギターやベースなど、いろんな楽器を弾いていました。独学でピアノを弾き始めたのは18歳くらいからなんですよ。ポップスをやりたくてコード弾きから入りました。

藤田 宇戸さんのピアノは私にとって、素直に歌わせてくれるものなんです。デビュー前から一緒にバンドをやってきましたが、宇戸さんのピアノによって、私は自由に、自分のペースで歌うことができます。自分を主張するというよりも、歌わせてくれるピアノなんです。そこがすごく好きなところですね。そして、カントリーやアイリッシュなど音楽の好みも重なっていて、そういう感覚的な部分も特に説明しなくても分かってくれるというのもあります。

――恵美さんにとっても心強い存在であることは、音楽を聴いていても分かるような気がします。宇戸さんは今回のレコーディングでも、ピアノのほか、アコーディオンやティンホイッスルも演奏されていますね。

宇戸 はい。ティンホイッスルは昔から嗜んではいたんですが、恵美ちゃんの『camomile』で共演したノルウェーのグループ、VAMPのオイヴンが吹くホイッスルが本当にいい音で。バイオリンやビオラを演奏する人ですが、ホイッスルも素晴らしかったんです。彼に憧れて、またちゃんとやり始めました。いいきっかけを与えてもらったなと思っています。







――宇戸さんが考える、恵美さんの歌の魅力とは?

宇戸 一言ではなかなか言い表せませんが、恵美ちゃんの歌が世界各国のファンを魅了するのは、決して私的な感情を押し付けることなく、どこか俯瞰している感じで一つひとつの歌詞をとても丁寧に歌うこと、その姿勢が昔から一貫して変わらないこと、そして、声の響きが唯一無二であるということですかね。

■レコーディングとミックス

――では、ここからは阿部さんに今回のエンジニアリングについて伺います。実際に録ってみて、やはりホールの響きは今回のレコーディングにとって狙いどおりの効果を与えてくれましたか。

阿部 そうですね。スタジオでもそうなのですが、初期反射が速いほど音が濁りますから、壁や天井はなるべく遠くにあるほうがいいんですね。直接音から二次反射音までの間を長くとれるように、スタジオは広いほうがいいし、ホールにしても最低限あれくらいの広さはほしいところです。

――とすると、ホールをレコーディング目的で利用するのも理に適っているわけですね。

阿部 『ココロの食卓』で初めて、埼玉のミューズホールという施設でレコーディングしました。そのときは無観客だったので、演者の皆さんにはホールのあちこちに散っていただいて録音しました。あのときに、ホールではどう録ればいいかはだいたい把握できました。

――では、マイキングについても教えてください。恵美さんのボーカルや各楽器のオンマイクは通常のレコーディングと同じセッティングですか。

阿部 はい。全く同じですね。マイク自体もすべてスタジオで使うのと同じものです。

――そして、ステージのすぐ前には8本のマイクアレイが設えてありました。この狙いは?

阿部 あのアンビエンスマイクはサラウンドに対応するセッティングです。僕が「HD Impression」レーベルを立ち上げる際に、マルチチャンネルは一つの大きなコンセプトでしたから、とにかくサラウンド用のマイクを仕上げるためにいろんな実験を重ねてきました。そうして辿り着いたのがあのマイクアレイです。ステレオにまとめても、音の立体感がちゃんと出ますので、今回もそのあたりを聴いていただきたいですね。







――いままさに作業中かと思いますが、今回のミックスはどんなコンセプトで行われていますか。

阿部 これが思っていた以上に難しくて……。演者のみんなには「ライブのようにやってください」とお願いしてスタジオ作品を作ろうとしているわけですが、僕の頭にもどこか「これはライブだよね」というのがあるんですよ。そもそもライブのミックスとレコーディングのミックスは考え方が全然違います。ライブのミックスは一体感がないと意味がないので、ある程度、どの曲も万能的な音像で作っていくことになります。でも、そのやり方では、一つひとつの楽曲がスタジオ作品としては仕上がってこない。やはり楽曲ごとに合った音作りをしないとまとまっていかないんですね。そのことに気付くのに、ちょっと時間がかかりました。恵美さんにそれを話したら、「やっと私たちの気持ちが変わったでしょ?」って言われました(笑)。

――先ほどの音の“かぶり”も、なんとかなりそうですか。

阿部 やっぱりそこがいちばん難しいところで、楽曲として成立できるよう、落ち着かせるのには苦労しています。具体的に言うと、最も難しかったのはトランペットの音。いちばん大きな音なので、すべてのマイクに入っていて、トランペットのチャンネルを切ってもほとんど変わらないくらい(笑)。だから、かぶっている部分が主張しないようにしたいけれど、そのチャンネルの楽器のいい部分は崩したくない。そのあたりはけっこう悩みました。




武川雅寛さん(ムーンライダーズ)の素敵なトランペットが、どのようにミックスされたかも本作の聴きどころの一つ



――そうでしたか。

阿部 とは言え、目指しているのはあくまでもスタジオ作品としていいものにするということ。「ライブみたいなのに、こんなにいい音で録れたんだ」と皆さんに感じていただけないと、この企画の意味がなくなってしまいます。だからこそ、このミックスをしくじるわけにはいきません。と、どんどん自分を追い込んでいるところです(笑)。

藤田 どうなるのかしらねぇ。

――お二人は、仮ミックスを聴いてどんな印象を持たれましたか。

宇戸 僕も途中経過を聴かせてもらって、スタジオで録ったような音だと感じました。アンビエンスの部分には“ライブ”の感じもあるんだけど、全体的なクオリティはスタジオの音になっているので、これはすごいなと思いました。聴いていて心地よくて、楽器同士のバランスや恵美ちゃんの歌とのバランスとかも含めて、すごくいいなぁと思いました。

阿部 ありがとうございます!

藤田 阿部さんに何度かファイルを送ってもらううちに、先ほどお話しした“内視鏡”から、徐々に全体を俯瞰できるようになりました(笑)。普通のリスナーの方ならコンサート形式で行われたものだとは分からないくらい、スタジオ作品の音になっていますよ。拍手の音が聞こえて、初めてお客さんがいたことに気付くでしょうね。

――お客さんの拍手については、客席に用意された注意書きに「完全に演奏が終わってからお願いします」と書かれていました。録音の邪魔にならなければ拍手しても大丈夫なのだと、お客さんが理解できるようになっていたのはいいアイデアだと思いました。

阿部 そうですね。ただ、こちらとしては演奏が終わって、少し間を空けてから拍手をいただきたかったのですが、若干早めにされる方もいらっしゃるので、そのあたりもミックスではちょっと苦労しています(笑)。

藤田 ああ、やっぱり。多少はかぶるよね。間を空けてと言っても、その感覚は人それぞれだものね。

――今回のプロジェクト、阿部さんとしても手応えはつかめたと?

阿部 そうですね。ようやく見えてきました。続編をやってみたいなという気持ちも芽生えてきました。恵美さんたちに「イヤ」と言われなければですが(笑)。

■シリーズ化へ向けて

――演者の皆さん、それを見守るお客さん、エンジニアさん、そしてスタッフの方たち。当日集まったすべての人たちにとって初めての経験ですから、細かいところで課題もあったでしょうけれど、この新しい発想による創造のための実験は本当に意義深いと思います。先ほども少しお話がありましたが、これがシリーズ化される可能性はいかがでしょう。

阿部 全国ツアーをやりたいですね(笑)。

――レコーディングで回るホールツアー、いいですね!

阿部 恵美さんも確か、録音を終えて少し経ってから、「連続はきついけど、期間を空けたらまたやってもいいかも」と言ってくれましたから。

藤田 そんなこと言ったかしら(笑)。でも、もしやるなら、次は乾燥していない時期にしてほしいですね。今回は私がいちばん苦手な2月だったので。

阿部 はい、すみません。

藤田 フフフフフ。やっぱりノドが辛いのでね。

阿部 今回のアルバムがより多くの方に聴いていただけて、次の録音に立ち会ってみたいという方が全国に出てくれば、すごく嬉しいことですね。そのためにも、このミックスを頑張って仕上げたいと思います。

藤田 この試みは、オーディオファンの方にはご理解いただけると思うんですけど、一般の方にはなかなか趣旨が分かりづらいかもしれません。私も友達から「ホールなのに何でヘッドフォンで聴くの?」って言われたり、ヘッドフォンの試聴イベントだと思われたり(笑)。「いやいや、ヘッドフォンじゃないと聴けないから持ってきてほしいのよ」と、私も一所懸命に説明するんだけど、どこまで伝わっているのか分からないところがあって(笑)。次もあるなら、一般の方にも分かりやすく告知できるといいですね。







――その一助として、この記事が役立てば幸いです。では最後に、e-onkyo musicリスナーへのメッセージをお願いします。

宇戸 誰もやったことがないような今回の実験的な試みに参加し、仲間のミュージシャンや阿部さんたちと共有できたことを嬉しく思っています。阿部さんがいま、一生懸命にミックスしてさらにいいものに仕上げてくれると思いますので、どうぞご期待ください。そして、この企画はぜひ続けてほしいですね。今度はあそこでやってみたいなと、すでにいくつかのホールが頭に浮かんでいます(笑)。

藤田 私たちも阿部さんも、「一体どんなものができるんだろう」と思いながらスタートしたこの企画です。出発点から最後まで、すべてが前例のない、非常に希な環境と状況の中で仕上げてきました。音そのものは、一聴してきれいだなと分かっていただけると思います。その背景にある、チャレンジングで実験的な部分を含めて、リスナーの皆さんも一緒に楽しんでいただけたらなと思います。その成果は、ぜひハイレゾで確かめていただきたいですね。

阿部 本当にどうなることか分からないままやってみて、想定外のこともたくさんありました。いちばんやりかたったのは、先ほどもお話ししましたように、ライブでの引き込まれるようなすごい歌や演奏をしっかりと録ってみたいということです。特に恵美さんの歌は、スタジオで録るよりライブのほうがいいと思うことも多いんですよ。その瞬間を、そのテイクをぜひ録りたいと。今回も、ミックスをし始めたときは、作業を忘れて聴き入っていることがよくありました。音楽に引き込まれるんですね。ミックスではそれを壊さず、可能な限り色付けせず、演者の皆さんが伝えたかったものをダイレクトに届けられるよう心掛けています。そのうえで、いい音として納得できる範疇の中に収められれば、企画の狙いは達成できたと言えるでしょう。ともかく、この大事な一発目を成功させたいと思いますので、e-onkyo musicリスナーの皆さんには、ぜひこの実験的な作品の第一弾を楽しんでみてください。


 小規模なハコでのジャズ演奏をスタジオと同等のマイキングで録音したり、大きめのスタジオに観客を招いてライブレコーディングを行ったり。「いい音楽」を届けるために、いわゆるスタジオ作品としての制作プロセスの枠を飛び越えて作ってみる試みは、これまでも国内外で行われてはきた。あのジャズ/フュージョングループ、スナーキー・パピーもヘッドフォンを装着した観客を入れての大がかりなレコーディングを敢行している。しかし、今回の『Emi Fujita Headphone Concert 2021』はボーカル作品であること、また、ホールの残響を活かした音作りがなされている点などから前例は見当たらず、前代未聞かつ画期的な試みと言っていいだろう。
 この「実験」に立ち会った当日のオーディエンスは、通常のコンサートとは違う緊張感の中、ヘッドフォンを通じて聞こえるプロのサウンドを愉しみながら、その行方を静かに見守っていたように感じた。そして何より、ステージ上の演者たちが、この過酷なレコーディングを乗り切ったことに拍手を贈りたい。藤田恵美さんのボーカルはもちろん、宇戸トシヒデさん(ピアノ/ティンホイッスル/アコーディオン)、西海孝さん(ギター/コーラス)、武川雅寛さん(バイオリン/トランペット)、河合徹三さん(ベース)、朝倉真司さん(パーカッション)の演奏も、当然ながらアルバムと同じように素晴らしい。「途中経過」のミックスを聴けば、スタジオとライブの「いいとこ取り」はかなりの成果を上げているようで、完成が楽しみだ。
 当日の「見届け人」はどう感じたのだろうか。最後になったが、筆者が声をかけたオーディエンスの感想を一部紹介させていただこう。この反応を見れば、今回の企画が聴く側にも有意義だったことが分かるというもの。皆さん、お疲れ様でした。

「通常のコンサートでは、席の位置によって聞こえ方にバラツキがあると思いますが、今回はそれがなく、しかも耳元で音が楽しめたのがすごく新鮮でした。今日はヘッドフォンとイヤフォンを両方持ってきて試しましたが、一つひとつの楽器の音が、ステレオ感がある中でもしっかりと確認できました。今日はとても楽しかったです」(男性)

「恵美さんの歌もお人柄も素晴らしく、感激しました。また、バックのプレイヤーの方たちの演奏もすごく良かったですね。皆さん息が合っていて、ファミリーのよう。とても心温まるコンサートでした。この場に来られて本当に幸せでした」(女性)

「ヘッドフォンを外してみると、楽器によってはボーカルよりも大きな音が出ていることが分かります。普段は意識しないことですが、アコースティックなコンサートもPAの方がバランスを調整したものを聴いていたんだということを改めて実感できて面白かったです。パーカッションの繊細な音など、普通のライブでは体験できないような気付きがあり、とても良かったです。この音源が発売されたら、今日の印象と聴き比べるのを楽しみにしています」(男性)





上手の舞台袖に設置された録音機材。上はADコンバーターとして使用されたRME FIREFACE 800やMOTU 896 mk3、同896HD、同HD192、下はヘッドアンプのAMEK System 9098 RCMA、NEVE 1272 MODULE、FOCUSRITE ISA828など



MOTU Digital Performerによるレコーディングは2ch/マルチの両方で、フォーマットは24bit/192kHzで行われた



ステージのすぐ前に立つアンビエンスマイクは阿部さんが考案した8本のアレイで、ステージに向けたメインのLR(B&K 4003)、客席に向けたLR(NEUMANN 184)、真上2本(NEUMANN 184)、真下2本(NEUMANN 184)という構成。ワンポイントで8方向をカバーでき、サラウンド作品の録音にも使われる。「人間の耳にとってサラウンドを感じるポイントは、下の反射と上の反射なんです。上下を同じ軸で録ることによって全体に立体感を与えることができます」と阿部さん


「オン」に使われたマイクも見てみよう。こちらは藤田恵美さんのボーカル用に使用されたTELEFUNKEN 47Tube



宇戸トシヒデさんにはNEUMANN 87が4本。右3本がビアノ用、左の1本はアコーディオンとティンホイッスルとコーラス用



西海孝さんのアコースティックギターは2本のSCHOEPS 55、コーラス用はNEUMANN 87






武川雅寛さんのバイオリン用NEUMANN 87(上)とトランペット用のリボンマイクはAEA R84



河合徹三さんのダブルベースにはNEUMANN 47Fet



朝倉真司さんのパーカッションは、トップに3本のAKG C414、スネア用にSHURE 57、
カフォンの内蔵マイクはSHURE BETA91



オーディエンスに音声信号を供給するFOSTEX PH-50



FOSTEX PH-50から客席に伸びる配線はすべて阿部さんの自作



客席では持参したヘッドフォンやイヤフォンをM-AUDIO Bass Travelerに接続する。
届くのは、演者がモニターしているのと同じ24bit/192kHzの高音質な音だ



リハーサル時の一コマ



無事にレコーディングを終えて安堵するエンジニアの阿部哲也さん







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