月間50本以上の書評を執筆する書評家であり、ベストセラー『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』の作家としても知られ、更にヒップホップなどのブラック・ミュージックからクラシックまでを幅広くフォローする異色の音楽評論家としての顔を持つ印南敦史による連載「印南敦史の名盤はハイレゾで聴く」。
グレイトフル・デッド『ブルース・フォー・アラー』
歳を重ねてわかったのは、「グレイトフル・デッドは沼である」という絶対的真理
30歳になったばかりのころ、知り合いの編集者から声をかけられ、あるミーティングに出席したことがありました。
夜、指定された場所に行ってみると、著名なアート・ディレクターや編集者など、すごい人たちがズラリ。その時点ではまだライターにすらなっておらず、つまりは“ただの人”でしかなかった僕は、「なぜ自分がここにいるのだろう?」と思いながらちょこんと座っていたのでした。
ミーティングの目的は、新しいフリーペーパーをつくること。さまざまな領域で活躍するクリエイターたちが、採算度外視でつくりたいものをつくろうというような話をしたのです。
当然ながら僕も相応の期待感を持っていたのですけれど、いざミーティングがはじまると、予想だにしなかった展開になったのでたまげました。おそらく主導権を握っていたのであろう方が、こんなことをいい出したからです。
「グレイトフル・デッド(以下:デッド)の魅力を伝えるような媒体をつくりたいんですよ」
で、そこからは、「デッドがいかにすばらしいか」「その魅力を伝えるには、どんな体裁にすべきか」などについての討論会状態。
でも、熱いやりとりに圧倒されながらも、僕はすっかり醒めきっていました。1990年代にグレイトフル・デッドの魅力を伝えるフリー・ペーパーを出すなんて、ちっともキャッチーじゃないと感じたからです。
そもそも僕には、グレイトフル・デッドの魅力がまったく理解できていませんでした。「デッド・ヘッズ」と呼ばれる多くの信者を抱えているとか、徹底的にDIY精神を貫いているとか、たしかに彼らに関するトピックスは、ひとつひとつが興味深いものでした。
ところが、肝心の作品自体がわからなかったのです。
わからないのに、どこからともなく「デッドの音楽は、マリファナを吸いながら聴くと最高の気分になれるようにチューニングされている」というような話が聞こえてきたりもしたので、「そんなことをいわれてもなぁ」と戸惑うしかなかったわけです。
あ、ちなみに、結局そのフリーペーパーは発行されず、話はなんとなく消えていきました。
いずれにしても、そんなわけでデッドについてはモヤモヤした思いがずーっと消えなかったのです。勉強しなきゃと思ってCDを買い集めたりもしたものの、やっぱりわからなかったし。
ところが、それから10年以上あとのことだと思いますが、自分の内部で変革が起こったのでした。
ある日、なんとなく1975年作『ブルース・フォー・アラー』を聴いてみたら、ズッポリとハマってしまったという予想外の展開。
それまで肯定的になれなかったのですから、聴きなじんだ楽曲など存在しないと思い込んでいました。けれどオープニングの“Help on the Way / Slipknot”から“Franklin’s Tower”へと続く流れには、明らかな既聴感がありました。
なぜか中学生時代を思い出したりもしたのは、当時の自分がこのアルバムを無意識のうちに聴いていたからなのかな? そんな記憶はないんだけどな。
しかし理屈はどうあれ、ハマってしまったものは仕方がありません。
“King Solomon’s Marbles”で展開されるインプロヴィゼイション、“The Music Never Stopped”の気持ちよすぎるグルーヴ感、“Crazy Fingers”のカリプソ/レゲエ風味、“Sage & Spirit”のやさしくて柔らかな雰囲気、そして12分半にもおよぶタイトル・トラック“Blues for Allah: Sand Castles and Glass Camels / Unusual Occurrences in the Desert”の奥深さと、一曲たりとも無視できない高クオリティ。
遅まきながらその世界観に圧倒されまくったため、1967年のファースト・アルバム『Grateful Dead』から順に聴いていき、アルバムごとに異なる方向性に新鮮さを感じながら、ズブズブと“デッド沼”に引き込まれていったのです。
そして引き込まれていくほど、沼の深さにうっとりしてしまうというような、なんとも変態的な境地に達してしまったのでした。
だから決して大袈裟ではなく、『Blues for Allah』で開眼してからの20日間くらいは、デッドだけしか聴きませんでした。なぜって、デッドしか聴く気になれなかったからです。仕事をしていても気がつけばデッドのことを考えているし、“デッドのことをもっともっと知りたくてたまらない病”にかかってしまったかのようでした。
しかも恐ろしいことにその病は完治せず、忘れたころに発作が起きるんですよ。で、そうなるとまた、デッドばかりを聴いてしまう。聴けば聴くほどなんらかの発見があるので、またまた聴いてしまう。
「ディスコ・デッド」と揶揄される『Shakedown Street』ですら、とても愛しく感じてしまう。つまり、デッドであればなんでも許せるという領域に入っているということ。
実は現在もひさしぶりの発作に襲われているので、ここ4、5日はまたデッドしか聴いていません。
あのミーティングでデッド・ヘッズの人を冷ややかに眺めていたころは、まさか数十年後の自分がこんなことになるだなんて考えもしなかったなー。
でも、いまだから思えるのです。「デッドという沼にハマって本当によかった」と。

『Blues for Allah』
Grateful Dead