印南敦史のクラシック・コラム「クラシック音楽の穴」。ここで明らかにしようとしているのは、文字どおりクラシック音楽の「知られざる穴」。クラシックにはなにかと高尚なイメージがあって、それが「とっつきにくさ」につながっていたりもします。しかし実際には、そんなクラシック音楽にも“穴”というべきズッコケポイントがあるもの。そこでここでは、クラシック音楽の「笑える話」「信じられないエピソード」をご紹介することによって、ハードルを下げてしまおうと考えているわけです。そうすれば、好奇心も高まるかもしれませんからね。だからこそ肩の力を抜き、リラックスしてお読みいただければと思います。
「葬式が多いと収入が増える」などと発言した作曲家がいる
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ヨハン・ゼバスティアン・バッハ
人の生き死にはデリケートな問題であるだけに、発言をする際には周囲に気を使わなければなりませんよね。本人に悪意がなかったとしても、ちょっとした誤解からトラブルに発展するようなことはあるものですから。
クラシックの世界にも、場合によっては誤解されかねない“ギリギリ”の発言をした人がいます。なんと、「葬式」と自分の「収入」とを紐づけたのです。
誰あろう、「音楽の父」ことヨハン・ゼバスティアン・バッハがその人。
『音楽の名言名句事典』(朝川 博、水島昭男、著、東京堂出版)によると、バッハ(大バッハ)が友人のゲオルク・エールトマンに宛てた手紙(「エールトマン書簡」)には、次のような文章があるのだとか。
「いつもより葬式が多い場合には、それに応じて臨時収入もふえるのでありますが、ひとたび健康の風が吹くと、反対に収入が減ります」 ゲオルク・エールトマンへの手紙
「ひとたび健康の風が吹くと」だなんて、あたかも健康だと困るとでもいいたげに聞こえます。少なくとも、文面を表面的になぞっただけだと、大いに誤解される可能性がありそうですね。
もしもこの時代にSNSがあったとしたら、「#バッハ 失礼」「#バッハ 不謹慎」などとハッシュタグつきで拡散され、大炎上してしまいそうです。
しかし、もうお気づきかと思いますが、これは決してそういう意味で書かれたものではないのです。文面にインパクトがあるため大げさな書き方をしてしまいましたけれど、仕事を求めるために書かれた、いたって切実な手紙なのです。
幼くして両親を亡くし、苦労人として知られるバッハには、兄のヨハン・クリストフの家に引き取られていた時期があります。また15歳のころにはリューネブルクへ移り、修道院附属学校の給費生として勉学に勤しみました。
この手紙の受け取り人であるエールトマンは、そんな時期からの旧友。バッハはことのき、1730年にはロシア大使となっていたエールトマンに向け、就職依頼をおもな目的としてこの手紙を送ったのです。
バッハは子だくさんでも知られますが、最初の妻であるマリア・バルバラとの間に生まれた7人の子のうちフリーデマンとエマヌエルのふたりを音楽家として成功させています。
またマリアが病死したのちに再婚したアンナ・マクダレーナ・ヴィルケとの間にも13人の子をもうけ、その多くは幼少時に他界してしまったものの、末っ子のクリスティアンは音楽家として成功しています。
などと書くと、いかにも華やかに思われてしまいそうですが、生活は決して楽ではなかったよう。ただでさえ子育てにはお金がかかるものですが、それだけ子どもが多ければ仕方のない話かもしれません。
短めの曲を1曲3ターラー前後(日本円にしておよそ4500円程度)で売っては糊口を凌いでいたという話もあり、しかも曲を売った相手との間でしばしばトラブルを起こしていたりもしたのだとか。
まさに踏んだり蹴ったりですが、生活が困窮すると精神的に追い詰められたりもするもの。本人の性格を別としても、充分にあり得る話ではないかとも思えます。
いずれにしても、なんとか生活を立てなおさなくてはいけない。そのため、旧友のエールトマンに対し、日々の苦しい生活を伝えようとしてこの手紙を書いたわけです。
幼なじみなのに、かたやロシア大使、かたや売れない音楽家。なんだか切ない話だという気がします。
ちなみにバッハが活躍した時代には、上流階級の人々が葬儀のモテットを作曲家に依頼する風習があったのだそうです。モテットとは、13世紀前半に成立した声楽曲の一ジャンルですが、バッハの時代には小規模な宗教的合唱曲などをモテットと呼んでいたといいます。
「葬式が多い場合に収入が増える」という表現の裏側には、つまりそういった事情があるわけです。
とはいえ、いまとなっては、そのときどのような曲が量産されたのかは知る由もありません。だいいち、それらの楽曲と、現在残されているバッハの声楽曲との間に関連性があるというわけでもないでしょう。
でも、そうはいっても、この話にかなりのインパクトがあるのは事実。そのため僕は、有名な「マタイ受難曲」などを聴くたび、つい当時のバッハの苦労を思い描いてしまったりもするのです。
いずれにしても、葬式の数が収入の増減に影響していたとは、なんともシリアスな話ですね。

『J.S.バッハ: マタイ受難曲 BWV244』
ゲオルク・ポプルッツ, マインツ・バッハ合唱団, マインツ・バッハ管弦楽団, ペトラ・モラート=プシネッリ, ラルフ・オットー
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