印南敦史のクラシック・コラム「クラシック音楽の穴」。ここで明らかにしようとしているのは、文字どおりクラシック音楽の「知られざる穴」。クラシックにはなにかと高尚なイメージがあって、それが「とっつきにくさ」につながっていたりもします。しかし実際には、そんなクラシック音楽にも“穴”というべきズッコケポイントがあるもの。そこでここでは、クラシック音楽の「笑える話」「信じられないエピソード」をご紹介することによって、ハードルを下げてしまおうと考えているわけです。そうすれば、好奇心も高まるかもしれませんからね。だからこそ肩の力を抜き、リラックスしてお読みいただければと思います。
「歌声喫茶」と関係の深い名曲がある
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ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン『交響曲第9番ニ短調作品125「合唱付き」』
コロナ禍の影響で、時間の経過がよくわからなかった一年でした。だから、もう年末だといわれても実感が伴いませんよね。
ところでそんな2020年は、ベートーヴェン生誕250年という節目でもありました。となれば年末の恒例行事である「交響曲第9番」(以下:第9)への期待が高まるのも当然で、多くの演奏会が予定されているようです。
ただ、この原稿を書いている時点でも感染者数は激増しており、ふたたび緊急事態宣言の可能性も取り沙汰されたりしているので、はたして実現するのやら。やはり気になるところではあります。
それはともかく、昨年も取り上げた「第9」が日本で演奏されるようになったきっかけはなんだったのでしょうか?
そのことについて、先ごろ読んだ『ベートーヴェンと日本人』(浦久俊彦 著、新潮新書)のなかに興味深い記述がありました。
参考までに書き添えておくと、これまでにも『フランツ・リストはなぜ女たちを失神させたのか』『悪魔と呼ばれたヴァイオリニスト パガニーニ伝』という名著を残してきた著者の最新刊です。
この本は、日本のベートーヴェン受容史でもなければ、日本のベートーヴェン演奏史でもない。明治時代にやってきたベートーヴェンというひとりの音楽家の人物像と作品を通して、明治・大正期の日本と西欧文化を眺めてみるという試みである。(「はじめに」より)
そう、日本におけるクラシック音楽の黄金時代というべき昭和期については、あえて触れていないのです。したがって、歴代の名識者や名演奏家の話題も登場しません。焦点が当てられているのは、近衛秀麿など当時の音楽界で尽力した人たちのみ。
つまり、明治・大正時代の人々が、どのようにクラシック音楽に触れ、それを受容していったかに焦点が当てられているわけです。
知られざるエピソードが次々と紹介されていくのですが、特に新鮮に思えたのは第九章「『第九』が日本人の魂になった日」でした。タイトルからもわかるように、「第9」が日本に浸透していく過程が明らかにされているからです。
なかでも、いちばん驚かされたのは次の部分。
『第九』の日本初演は、大正七年(一九一八)に遡る。徳島県の板東俘虜収容所のドイツ人捕虜たちの音楽活動として、同年六月一日、捕虜たちのオーケストラと八十人の男性合唱団によって全楽章が演奏された。(221ページより)
第一次大戦期に存在した坂東収容所では、所長の「博愛の精神と武士の情け」という方針によって、捕虜たちは比較的自由な活動が許されていたのだとか。つまり、そんな環境下で「第9」は初演されたというのです。
さらにその後、関東大震災と第二次世界大戦という大きな悲劇を乗り越え、「第9」は日本人を魅了するようになったということ。
ちなみに戦後、高度成長期を起点として「第9」がオーケストラ公演を超え、“市民参加型イベント”として浸透していったのは、平和と自由の象徴として演奏された「第9」の強烈な吸引力の影響だと著者は記しています。
もうひとつ、以下の記述もまた的確な指摘だと感じます。
次に、市民が参加できる作品という観点からみれば、その最大の魅力は大規模な交響曲でありながら「合唱付」というユニークな編成にあることは明らかだ。しかも、合唱付といっても、アマチュアにはさすがに全曲歌いっぱなしは厳しいが、クライマックスの第四楽章だけに颯爽と登場できる。これによって演奏が至難の大曲でありながら、市民が合唱団の一員としてプロのオーケストラとも共演ができ、しかも「みんなとともに」という感覚と感動を観客とも共有できるという、合唱好きの日本人には理想的な作品なのだ。(241ページより)
加えて“合唱好き”の国民を育てた背景には、戦後まもなく日本青年共産同盟中央合唱団から全国に広がった「うたごえ運動」や「労音」(勤労者音楽協議会)などによる音楽活動の普及があるというのも納得できるところ。
当時の労働者にとって、それは仲間との「連帯」や「集い」の場にふさわしい文化的な活動だったというわけです。そう考えると、当時なぜ「歌声喫茶」が流行したのかということも理解できるのではないでしょうか?
いずれにしても、一日も早くコロナが終息し、人々が安心して「第9」を歌える日がまた訪れることを願ってやみません。

『ベートーヴェン:交響曲 第9番 「合唱」』
ヴュルテンベルク・フィルハーモニー管弦楽団, 飯森範親
◆バックナンバー
【10/30更新】『シューベルト:冬の旅 【ORT】』ヘルマン・プライ
自らの死を予言した作曲家がいる→フランツ・シューベルト
【9/25更新】『ベルリオーズ : 幻想交響曲』ヤクブ・フルシャ, 東京都交響楽団
ストーカーに近かった作曲家がいる→エクトル・ベルリオーズ
【8/28更新】『R.シュトラウス:交響詩《英雄の生涯》』ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団, カール・ベーム, ゲルハルト・ヘッツェル
自らを「英雄」だと豪語した作曲家がいる→リヒャルト・シュトラウス
【7/31更新】『ブラームス:交響曲第1番』ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団, カール・ベーム
石橋を叩きすぎた作曲家がいる→ヨハネス・ブラームス
【6/26更新】『Rothko Chapel - Morton Feldman / Erik Satie / John Cage』キム・カシュカシャン, Sarah Rothenberg, Steven Schick, Houston Chamber Choir, Robert Simpson
午前中しか働かなかった作曲家がいる→モートン・フェルドマン
【5/29更新】『ハチャトゥリャン ヴァイオリン作品集「ソナタ=モノローグ」』木野雅之
たったひと晩で書かれた名曲がある→アラム・ハチャトゥリアン『剣の舞』
【5/1更新】『Maurico Kagel: Ludwig Van』Mauricio Kagel
指揮者が倒れて痙攣する曲がある→マウリツィオ・カーゲル「フィナーレ」
【3/27更新】『ベートーヴェン: 交響曲 第5番、シベリウス: 交響曲 第2番』ジョージ・セル, ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
浮浪者に間違えられ逮捕された作曲家がいる→ベートーヴェン
【2/28更新】『チャイコフスキー:《くるみ割り人形》、《眠りの森の美女》組曲』パリ管弦楽団, 小澤征爾
性的嗜好に翻弄された作曲家がいる→ピョートル・チャイコフスキー
【1/31更新】『ヴィヴァルディ:四季』イ・ムジチ合奏団, フェリックス・アーヨ
敏腕DJ以上に仕事が速かった作曲家がいる→アントニオ・ヴィヴァルディ
【12/27更新】『ベートーヴェン: 交響曲全集』ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団, ヘルベルト・フォン・カラヤン
当初、タイトルがものすごく長かった名曲がある→ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン『交響曲第9番ニ短調作品125「合唱付き」』
【11/29更新】『バッハ・カレイドスコープ』ヴィキングル・オラフソン
いち早く少子高齢化対策をした作曲家がいる→ヨハン・ゼバスティアン・バッハ
【11/1更新】『ショスタコーヴィチ:交響曲第10番&第11番 (96kHz/24bit)』スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ, 読売日本交響楽団
呪いをはねのけた作曲家がいる→ドミートリイ・ショスタコーヴィチ
【9/27更新】『ブルックナー:交響曲 第6番』上岡敏之, 新日本フィルハーモニー交響楽団
出だしが非常に遅かった作曲家がいる→アントン・ブルックナー
【8/30更新】『世界の愛唱歌ベスト』V.A.
38セントしか遺産を残さなかった作曲家がいる→リストスティーブン・フォスター
【7/26更新】『レーガー: オルガン作品集 第14集 5つのやさしい前奏曲とフーガ/52のやさしいコラール 前奏曲』ジョセフ・スティル
食欲で身を滅ぼした(かもしれない)作曲家がいる→マックス・レーガー
【6/28更新】『R.シュトラウス:交響詩《ツァラトゥストラはかく語りき》、他』ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮, ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
家庭の事情を仕事に持ち込んだ作曲家がいる→リヒャルト・シュトラウス
【5/31更新】『Khachaturian: Suites from Spartacus and Gayane / Ravel: Daphnes et Chloe 』St Petersburg Philharmonic Orchestra, Yuri Temirkanov
突貫工事でつくられた名曲がある→ハチャトゥリアン「剣の舞」
【4/26更新】『ブルックナー:交響曲 第8番 (ハース版) 』朝比奈隆, 大阪フィルハーモニー交響楽団
実の息子に対抗意識を持った指揮者がいる→朝比奈隆
【3/28更新】『Satie: Vexations (840 Times)』Alessandro Deljavan
最後まで演奏するのに18時間かかる曲がある→サティ「ヴェクサシオン」
【3/19更新】『Debussy: Piano Works, Vol. 2 - Estampes, Children's Corner, Pour le piano & Other Pieces』Jacopo Salvatori
偏屈で嫌われていた作曲家がいる→ドビュッシー
【3/12更新】『リスト:《巡礼の年》全曲』ラザール・ベルマン
他人の曲を借用しまくって自分のスキルを自慢した作曲家がいる→リスト
【3/5更新】『Rossini:Overtures/ロッシーニ序曲集』アントニオ・パッパーノ指揮、サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団
誰よりも早く「働き方改革」を実践した作曲家がいる→ロッシーニ
【2/26更新】 『Kagel: Chorbuch - Les inventions d'Adolphe sax』マウリシオ・カーゲル指揮、オランダ室内合唱団、ラシェール・サクソフォン・カルテット
ティンパニ奏者が自爆する曲がある→カーゲル「ティンパニとオーケストラのための協奏曲」
【2/19更新】『Haydn: The Creation』ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、フリッツ・ヴンダーリヒ
妻への恨みを曲にした作曲家がいる→ハイドン「4分33秒」
【2/12更新】『Cage: Works for 2 Keyboards, Vol. 2』Xenia Pestova, Pascal Meyer, Remy Franck, Jarek Frankowski, Bastien Gilson
4分33秒、無音の曲がある→ジョン・ケージ「4分33秒」
【2/5更新】『ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第14番(弦楽合奏版)&序曲集』ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団, レナード・バーンスタイン
コーヒーに異常な執着を見せた作曲家がいる→ベートーヴェン
【1/29更新】『プッチーニ:歌劇『トゥーランドット』(演奏会形式)』アンドレア・バッティストーニ, 東京フィルハーモニー交響楽団
たばこ好きが高じて犯罪の域に足を踏み入れた作曲家がいる→プッチーニ
【1/22更新】『ドヴォルザーク:交響曲第9番《新世界より》 【ORT】』ヴァーツラフ・ノイマン指揮, チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
「鉄オタ」だった作曲家がいる→ドヴォルザーク
【1/16更新】『モリエールのオペラ~ジャン=バティスト・リュリの劇場音楽』ジェローム・コレア&レ・パラダン
床を足で叩いて命を落とした作曲家がいる→リュリ
【1/9更新】『モーツァルト:レクイエム』ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団, ヘルベルト・フォン・カラヤン
お尻をなめることを要求した作曲家がいる→モーツァルト
【新連載】『エリック・サティ:新・ピアノ作品集』高橋悠治
ふざけた曲名の楽曲をたくさん残した作曲家がいる→エリック・サティ
印南敦史 プロフィール