印南敦史のクラシック・コラム「クラシック音楽の穴」。ここで明らかにしようとしているのは、文字どおりクラシック音楽の「知られざる穴」。クラシックにはなにかと高尚なイメージがあって、それが「とっつきにくさ」につながっていたりもします。しかし実際には、そんなクラシック音楽にも“穴”というべきズッコケポイントがあるもの。そこでここでは、クラシック音楽の「笑える話」「信じられないエピソード」をご紹介することによって、ハードルを下げてしまおうと考えているわけです。そうすれば、好奇心も高まるかもしれませんからね。だからこそ肩の力を抜き、リラックスしてお読みいただければと思います。
自らを「英雄」だと豪語した作曲家がいる
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リヒャルト・シュトラウス
少し前、新型コロナが猛威を振るう状況下で、感情に任せて特定の飲食店などを攻撃する「自粛警察」が問題になりました。
そんなところからもわかるとおり、SNSが浸透し、誰もが情報を発信できるようになった現代においては、目立った発言や行動をした人が叩かれる傾向があるわけです。
問題は、匿名性を武器として叩く人の多くが「叩くための根拠」を持っていないこと。感情的であり、本来あるべきエビデンス(根拠・証拠)がないので、ことさら暴走しやすいんですよね。
とはいえ、そもそも人間には多かれ少なかれ、「出る杭を打ちたくなる」性質があるものです(もちろん絶対に肯定はしませんが)。つまり当然ながら、似たような話は昔からあったのでしょう。
歴史を振り返ってみると、「叩かれまくった“出る杭”」として僕が思い出すのはリヒャルト・シュトラウスです。交流のあったマーラーと同様に、作曲と指揮をこなした才人。85歳で亡くなる前年まで作曲を続けていたばかりか、指揮は死の3ヶ月前まで続けていたというのですから、驚くべき情熱の持ち主です。
『サロメ』に代表されるオペラ作品も有名ですが、24歳のときには『ドン・ファン』を、31歳で『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』を、その翌年には『ツァラトゥストラはかく語りき』を、33歳のときには『ドン・キホーテ』を……と、数々の交響詩を残したことでも知られています。
その一方で指揮者としても活躍していたのですから、文字どおり音楽のために生きた人物であるといえそう。ところが才能を発揮すればするほど、評価を得れば得るほど、「目立った存在」になったのも事実。また、第二次大戦中にナチスに協力したこともあり、敵もどんどん増えていったのでした。
そんなことが続けば、やがて精神が疲弊してしまっても無理はないはず。しかし、リヒャルト・シュトラウスの場合はちょっと違ったのです。落ち込むどころか、なんと自らをモチーフにした交響詩『英雄の生涯』を作曲し、反論しててみせたのですから。
そこには英雄たる主人公(もちろん自分)が、幾多の苦難を果敢に乗り越えていくさまが壮大なスケールで描かれているのです。つまり、世間の批判に逆らうかのように、「英雄だからこそ、これだけの偉業を成し遂げたんだぜ。同じことをできるってんなら、やってみな!」といってのけたようなもの(こんなに口は悪くなかったでしょうが)。
しかも、そんな思いが込められたこの作品、めっちゃめちゃおもしろい。リヒャルト・シュトラウスには好きな作品が多いのですが、なかでもこれは突出していると個人的には思っています。
約45分にまとめられた楽曲は、以下のような6つのパートによって構成されています。
1:英雄
2:英雄の敵
3:英雄の伴侶
4:英雄の戦場
5:英雄の業績
6:英雄の引退と完成
もう、このタイトルからして抗戦的でしょ。で、曲もものすごくわかりやすいのですよ。
まずは重厚かつ壮大な1の主題で、英雄としての堂々たる存在感をアピール。かと思えば2では、敵の嘲笑や罵倒、誹謗中傷を、フルートやピッコロ、オーボエなどによって表現。
ヴァイオリンの繊細な音色によって伴侶(恋人)を表現した3で描かれるのは、英雄への求愛を拒まれた恋人が、さらに情熱をたかぶらせ、最終的にはふたりが結ばれるさま。
しかしトランペットが高らかに鳴らされる4では戦争が勃発し、緊張感に満ちたその流れは、やがて英雄が敵に打ち勝つクライマックスへ。続く5は、「『ドン・キホーテ』『ドン・ファン』『ツァラトゥストラはかく語りき』など、英雄が送り出してきた名曲の旋律が織り込まれた、グレイテスト・ヒッツというべきいちばん楽しいパート。
そして最後に、雄大な自然に囲まれて引退後の生活を穏やかに過ごす英雄の姿を映し出した6へ……と、ストーリーが明快で、非常に痛快な内容なのです。直球でわかりやすいだけに、聴いていると思わず笑い出しそうになるほど(好意的な意味で、ですよ)。
現代に当てはめれば、Twitterで叩かれまくった作曲家が、反論するための楽曲をSoundCloudで無料配信するような感じでしょうか? もしリヒャルト・シュトラウスが現代に生きていたとしたら、きっとそういうことをしそうな気がします。
だからこそ嫌いになれないし、それどころか「多少の苦難があっても、彼のように強く生きなければいけないな」と感じるのです。

『R.シュトラウス:交響詩《英雄の生涯》』
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団, カール・ベーム, ゲルハルト・ヘッツェル
◆バックナンバー
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石橋を叩きすぎた作曲家がいる→ヨハネス・ブラームス
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【5/1更新】『Maurico Kagel: Ludwig Van』Mauricio Kagel
指揮者が倒れて痙攣する曲がある→マウリツィオ・カーゲル「フィナーレ」
【3/27更新】『ベートーヴェン: 交響曲 第5番、シベリウス: 交響曲 第2番』ジョージ・セル, ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
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【11/1更新】『ショスタコーヴィチ:交響曲第10番&第11番 (96kHz/24bit)』スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ, 読売日本交響楽団
呪いをはねのけた作曲家がいる→ドミートリイ・ショスタコーヴィチ
【9/27更新】『ブルックナー:交響曲 第6番』上岡敏之, 新日本フィルハーモニー交響楽団
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【8/30更新】『世界の愛唱歌ベスト』V.A.
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【6/28更新】『R.シュトラウス:交響詩《ツァラトゥストラはかく語りき》、他』ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮, ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
家庭の事情を仕事に持ち込んだ作曲家がいる→リヒャルト・シュトラウス
【5/31更新】『Khachaturian: Suites from Spartacus and Gayane / Ravel: Daphnes et Chloe 』St Petersburg Philharmonic Orchestra, Yuri Temirkanov
突貫工事でつくられた名曲がある→ハチャトゥリアン「剣の舞」
【4/26更新】『ブルックナー:交響曲 第8番 (ハース版) 』朝比奈隆, 大阪フィルハーモニー交響楽団
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【3/28更新】『Satie: Vexations (840 Times)』Alessandro Deljavan
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【新連載】『エリック・サティ:新・ピアノ作品集』高橋悠治
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印南敦史 プロフィール
印南敦史(いんなみ・あつし)
東京出身。作家、書評家、音楽評論家。各種メディアに、月間50本以上の書評を執筆。新刊は、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)。他にもベストセラー『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)をはじめ著書多数。音楽評論家としては、ヒップホップなどのブラック・ミュージックからクラシックまでを幅広くフォローする異色の存在。
◆ブログ「印南敦史の、おもに立ち食いそば」
◆連載「印南敦史の 名盤はハイレゾで聴く」