【7/31更新】印南敦史の「クラシック音楽の穴」

2020/07/31
印南敦史のクラシック・コラム「クラシック音楽の穴」。ここで明らかにしようとしているのは、文字どおりクラシック音楽の「知られざる穴」。クラシックにはなにかと高尚なイメージがあって、それが「とっつきにくさ」につながっていたりもします。しかし実際には、そんなクラシック音楽にも“穴”というべきズッコケポイントがあるもの。そこでここでは、クラシック音楽の「笑える話」「信じられないエピソード」をご紹介することによって、ハードルを下げてしまおうと考えているわけです。そうすれば、好奇心も高まるかもしれませんからね。だからこそ肩の力を抜き、リラックスしてお読みいただければと思います。
石橋を叩きすぎた作曲家がいる

ヨハネス・ブラームス


僕はどちらかといえば、「石橋を叩いて渡る」タイプではないだろうかと自分のことを分析しています。

性格的にはかなり大ざっぱなのですけれど、その一方には妙に慎重なところもあって、なんだかめんどくさいやつだなぁと自分でも思ってしまいます。

けれどそれは、過去の経験の影響なのかもしれません。

大きな仕事が決まって盛り上がり、「○○をやります!」とネットで宣言したものの、結果的にはポシャって恥をかいたとか、そんな恥ずかしい失敗もしてきたのです。

そのため、いまでは終了した仕事のこと以外は公言ししないようにしておこうと決めているわけです。

だから、「ある意味では」石橋を叩いて渡るタイプだということ……って、ただマヌケなだけなんですけどね。

クラシックの世界にも、石橋を叩いて渡るタイプがいました。ただし天才たるゆえんか、その方の“叩き具合”は僕なんかの比ではありませんでした。

誰かといえば、作曲家、ピアニスト、指揮者としての才覚を発揮したブラームス。19世紀のドイツ・ハンブルクに生まれ、ウィーンで名を挙げてウィーンに没した大人物です。

ベートーヴェン、バッハと並ぶ“ドイツの3大B”のひとり。愛想に欠けて皮肉屋、生涯独身を貫いて、家政婦とともにアパートで質素な生活をしていたことでも知られています。

お酒が好きで、着るものなどには無頓着だったと聞くとユルい性格であったようにも思えますが、こと作曲に関しては非常に慎重だったようです。

なにしろ『交響曲第一番』を書き上げるまでに、21年もの歳月を費やしたというのですから。

いまの時代、大物アーティストがひさしぶりに新作を出したとしたら、それが2年ぶりのことだったとしても「ずいぶん時間がかかったねえ」と思われるのではないでしょうか? レコード会社も、「2年の歳月をかけて練り上げた大作!」などと持ち上げるかもしれません。

たった2年でそうなのに、10倍の20年+1年です。作曲を開始した年に生まれた子も、あっという間に成人です。叩きすぎて壊れてしまった石橋を、また1からつくりなおしていたようなものです。

ブラームスが交響曲を作曲しようと決意したのは、22歳のとき。彼の才能を認めてくれたシューマンの『マンフレッド』序曲を聴いて感動したことがきっかけだったといいます。

そこで作曲を開始し、1862年ごろまでに第一楽章を書き上げたのでした。といっても書き始めたのが1855年だというので、この時点ですでに7年もの歳月を費やしていることになります。

ちなみに完成したのは1876年、43歳のときでした。

そんなに時間がかかったのは、目標としていたベートーヴェンを意識しすぎたから。「ベートーヴェンに負けない作品を書かなければ!」と意気込んでいたあまり、結果的には20年以上経ってしまったということです。

なーんて書き方をすると身も蓋もありませんけれど、ベートーヴェンが交響曲のアートフォームを確立したことは事実。つまり、それを乗り越えることはそうそう簡単なことではなかったのでしょう。

事実、彼は「ベートーヴェンの足音を背後に聞きながら」作曲することの難しさを明かしていたそうです。でも逆にいえば、途中で「もう無理」と投げ出すことなく、あえて膨大な時間をかけて作曲に臨んだということになります。すごいことだけど、なんだかもう修行の世界ですね。

とはいえ20年なにもしなかったわけではなく、その間にも『ピアノ協奏曲第一番』『オーケストラのためのセレナード』『ハイドンの主題による変奏曲』などを書いています。

そうやって「石橋」の強度を高めていき、さらには1868年に『ドイツ・レクイエム』を成功させ、その勢いを受けて(6年後の)1874年に作曲を再開。そこから2年の歳月をかけ、とうとう『交響曲第一番』を完成させるのです。

第一楽章の重厚な雰囲気、あるいは第四楽章の“盛り上がり感”が物語っているように、こうして生み出された『交響曲第一番』は少なからずベートーヴェンを思い出させるところがあります。

とはいえ亜流で終わっているわけではなく、メランコリックな雰囲気と優美さを兼ね備えた第二楽章など、明らかに妥協を許さないブラームスならではの個性が随所に反映されています。

そう考えれば、20数年の時間をかけたことも、あながち無駄ではなかったといえるのではないでしょうか?

それに、「同じことができるか?」と“自分ごと”として考えてみた場合、僕にはとうてい無理。だからこそ、屈することなく意思を貫き通した姿勢それ自体に、学ぶべきことがあると感じるのです。



『ブラームス:交響曲第1番』
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団, カール・ベーム




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印南敦史 プロフィール

印南敦史(いんなみ・あつし)
東京出身。作家、書評家、音楽評論家。各種メディアに、月間50本以上の書評を執筆。新刊は、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)。他にもベストセラー『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)をはじめ著書多数。音楽評論家としては、ヒップホップなどのブラック・ミュージックからクラシックまでを幅広くフォローする異色の存在。

◆ブログ「印南敦史の、おもに立ち食いそば」
◆連載「印南敦史の 名盤はハイレゾで聴く」

 

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