【7/17更新】 印南敦史の名盤はハイレゾで聴く

2020/07/17
月間50本以上の書評を執筆する書評家であり、ベストセラー『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』の作家としても知られ、更にヒップホップなどのブラック・ミュージックからクラシックまでを幅広くフォローする異色の音楽評論家としての顔を持つ印南敦史による連載「印南敦史の名盤はハイレゾで聴く」。
ドナルド・フェイゲン『Kamakiriad』
決して評価は高くないかもしれないけれど、完成度は文句なし。個人的な思い出とも絡む秀作。

結婚したのは29歳のときで、そこから数年間は西武新宿線の西武柳沢というところに住んでいました。そもそも地味めな西武新宿線沿線でも、際立って地味な街です。

駅前には「柳沢北口商店街」という小さな商店街があるのですが、かといって街を象徴する個性的ななにかがあるわけでもなく、つまりは、どこにでもありそうな商店街。

でも、僕は初めて住んだその街の、その地味すぎる商店街が大好きだったのです。歩いてみれば、そして通りすがりのお店にふらっと入ってみれば、それだけで懐かしい気分に浸ることができたから。

買い物をしたいのであれば、都心まで出たほうがよっぽどいいものを買えるはずなんですけどね。でも、あえて「地元で買いたい」と思わせるような、不思議な引力がその商店街にはあったのです。

そんなことを考えてたのは僕だけかもしれないけれど。

当時、その商店街に小さなCD屋さんがありました。名前すら覚えてないけれど、おじちゃん(おばちゃんだったかな?)がひとりでやっている、これまたなんの変哲もないお店。

あのころレコードやCDは吉祥寺の「DISK INN」か池袋の「WAVE」(いまやどっちもなくなっちゃいましたね)で買うことが多く、当然のことながら情報収集手段としてはそれで充分でした。

ところが、仕事帰りにそのCD屋さんの前を通りかかったりすると、なぜか無性に「なんか買っていこうかな」という気分にさせられたのです。

なにしろローカルな“普通のCD屋”ですから、品揃えなど期待できるはずもありません。たとえば洋楽の棚を見てみれば、卸業者が持ってきた商品をそのまま置いているだけなんだろうなということが容易に想像できました。

けれど、人影もまばらな夜の商店街でひっそり営業しているその店でCDを買うという「行為そのもの」が、自分にとっては大切だった(ように思えた)のです。

ドナルド・フェイゲンの『Kamakiriad』を買ったのも、その店でした。

いつか買わなきゃと思ってはいたのですが、残業を追えての帰宅途中に立ち寄ったところ、たまたまあったから買ったという、それだけの話。

毎月かなりの量のレコードとCDを買っていたので、「CDを買う」という行為自体に特段の思い入れがあったわけではありません。にもかかわらず。その店で“特に珍しくもない当たり前のCD”を買うと、なぜかワクワクしたんですよね。

だからいまでも『Kamakiriad』を聴くと、仕事の疲れを抱えたままの帰り道の情景とか、不器用な新婚生活のエピソードとか、当時のどうでもいい記憶がいろいろ蘇ってしまうのです。

ドナルド・フェイゲンといえば、なんといっても1982年のファースト・ソロ・アルバム『The Nightfly』が有名です。“I.G.Y.”“New Frontier”などの名曲を生んだ、彼の代表的な作品。

一方、そこから11年を経て登場した2作目の『Kamakiriad』は、それほど高い評価を受けたわけではなかったように思います。

『The Nightfly』といえば、かつてスティーリー・ダン作品を手がけてきたゲイリー・カッツがプロデュースを務めていたことでも知られます。一方、 『Kamakiriad』はスティーリー・ダン時代のフェイゲンの相棒であるウォルター・ベッカーがプロデューサーとして参加した作品。

ということで当然のごとく、スティーリー・ダン色がさらに濃厚になっていたのですが、『The Nightfly』の完成度が高すぎたせいもあってか、このアルバムのことを否定的に捉える人は、決して少なくはなかった気がするのです。

でも比較論ではないし、客観的に考えるとこのアルバムも悪いわけがありません。たしかに突出した楽曲はないかもしれないけれど、それでも完成度はやはり高い。

たとえば“Countermoon”や“Tomorrow’s Girls”など、まさにスティーリー・ダンそのもの。だから聴いていると、ことばにしづらい安心感があることに気づきます。

それにハイレゾで聴きなおすと、録音状態のよさも際立つんですよねー。

「だったらスティーリー・ダンを聴けばいいじゃん」とかツッコミを入れないこと。1993年にドナルド・フェイゲンがこういう表現を“選択したこと”にこそ意味があるのですから。

そうでなくとも個人的には、西武柳沢というローカルな街を思い出させてくれるという点で、これは大切にしたいアルバム。誰にでも、そういう作品ってあると思うのですが、僕にとってはこれがそれにあたるわけです。



『Kamakiriad』
Donald Fagen



『The Nightfly』
Donald Fagen

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マーヴィン・ゲイ『I Want You』
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印南敦史 プロフィール

 

印南敦史(いんなみ・あつし)
東京出身。作家、書評家、音楽評論家。各種メディアに、月間50本以上の書評を執筆。新刊は、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)。他にもベストセラー『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)をはじめ著書多数。音楽評論家としては、ヒップホップなどのブラック・ミュージックからクラシックまでを幅広くフォローする異色の存在。

ブログ「印南敦史の、おもに立ち食いそば」

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