印南敦史のクラシック・コラム「クラシック音楽の穴」。ここで明らかにしようとしているのは、文字どおりクラシック音楽の「知られざる穴」。クラシックにはなにかと高尚なイメージがあって、それが「とっつきにくさ」につながっていたりもします。しかし実際には、そんなクラシック音楽にも“穴”というべきズッコケポイントがあるもの。そこでここでは、クラシック音楽の「笑える話」「信じられないエピソード」をご紹介することによって、ハードルを下げてしまおうと考えているわけです。そうすれば、好奇心も高まるかもしれませんからね。だからこそ肩の力を抜き、リラックスしてお読みいただければと思います。
午前中しか働かなかった作曲家がいる
↓
モートン・フェルドマン
新型コロナの影響でリモートワークが浸透し、働き方が大きく変わったという方の声をよく聞きます。
僕の場合は、あんまり関係ないんですけどね。なにしろもう20年以上、ずーっと家で仕事をしているので。
だから、なんにも変わらないんですよ。
しかし僕のことはともかくも、多くのビジネスパーソンにとってリモートワークは衝撃的な変化であったようです。で、そういう生活をするようになると、それ以前には当然のこととしてあった“無駄”に気づくことにもなるのではないでしょうか?
通勤時間が最たる例ですが、他にも、省ける時間が意外に多かったということを身をもって感じるのではないかということ。事実、「仕事の効率は上がったのに、実質的な労働時間は減った」と実感している方も少なくないみたいで、それはとてもいいことだと思います。
過去には会社に泊まることが美徳だったような時代もありましたが(僕も泊まったっけなー)、そもそも、それはおかしな話です。長く働けばいいというものではなく、効率的に無駄なく働くことこそが理想なのですからね。
ちなみに、“家仕事”に慣れている僕が無駄な時間を省けているかといえば、残念ながらNOとしか答えようがありません。起きた瞬間から仕事ができてしまう環境だし、もともとワーカホリックだし、気が小さいから、なにかやってないと落ち着かないんですよね。
だから通勤時間がないとはいえ、あまり休むことはできない(しない)のです。ニントモカントモ。
ところでクラシックの世界には、大胆かつ効率的な時間の使い方をしていた人がいました。それはアメリカの作曲家、モートン・フェルドマン。ジョン・ケージらとも交流の深かった彼は、いわずと知れた現代音楽の重鎮ですね。
フェルドマンは1971年に行われたインタビューで、「朝6時に起きて、11時まで作曲、それで一日の仕事は終わりだ」と答えているのです。だとすれば、働くのは午前中だけだということになります。
では、そのあとはどうするのかといえば、「元気に何時間も歩く」のだそうです(なんとなくかわいい)。しかもジョン・ケージのみならず、画家のマックス・エルンストなどの友人も近くで暮らしていたというので、環境的にも申し分なかったのでしょう。
このインタビューが行われた時点で、彼はそんな「時間のある生活」に満足していたということです。が、そうはいっても決して最初から時間に恵まれていたわけではなさそうです。
両親が事業をしており、フェルドマン自身も親の心配事や生活に関わっていたため、以前は慌ただしく仕事に追われながら作曲するしかなかったというのです。つまり以後は、そこで失った時間を取り戻そうとしたのかもしれません。
なお結婚も、彼に余裕のある時間をもたらしてくれた要因のひとつでした。奥さんが仕事で一日中外に出ていたので、時間を有効に使うことができたのです。
朝6時に起き、買い物をしたり、ごはんをつくったり、家事をしたりして過ごし、夜になればたくさんの友人が来訪したのだとか。早い話が、非常に自由度の高い「主夫」だったということですね。
ところが、そんな生活を続けていた年の暮れに「今年はひとつも曲をつくっていない」と気づいたというのですから、なんとも呑気な話です。
ちなみに作曲のための時間が充分に確保できたとき、フェルドマンはジョン・ケージに教わった作曲法を取り入れたのだそうです。それは、少し書くたびに中断して、書いたものをもう一度書き写すという方法。
書き写している間はその曲のことを考えているので、おのずと新しいアイデアが浮かんでくるというのです。彼は「いままで人から教わったなかで、最高の助言だった」と感想を述べていますが、これは作曲以外のさまざまな作業にも応用できそうではありますね。
また、よい筆記用具や椅子など、周囲の環境の重要性も説いています。仕事をしやすくするためにはどうすればいいか、具体的に考えることに夢中になってしまうというのです。
そればかりか「すわり心地のいい椅子さえ見つかれば、モーツァルトにも匹敵する音楽家になれるのに」とすら言っていたそうですが、椅子を見つけたくらいで天才になれるのなら苦労はしませんね。
というのは冗談ですが、すわり心地のいい椅子がない状態で作曲されたのだとしても、フェルドマンの精緻で緊張感に満ちた音楽性は、それだけで充分に魅力的だと思います。
『Rothko Chapel - Morton Feldman / Erik Satie / John Cage』
キム・カシュカシャン, Sarah Rothenberg, Steven Schick, Houston Chamber Choir, Robert Simpson
◆バックナンバー
【5/29更新】『ハチャトゥリャン ヴァイオリン作品集「ソナタ=モノローグ」』木野雅之
たったひと晩で書かれた名曲がある→アラム・ハチャトゥリアン『剣の舞』
【5/1更新】『Maurico Kagel: Ludwig Van』Mauricio Kagel
指揮者が倒れて痙攣する曲がある→マウリツィオ・カーゲル「フィナーレ」
【3/27更新】『ベートーヴェン: 交響曲 第5番、シベリウス: 交響曲 第2番』ジョージ・セル, ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
浮浪者に間違えられ逮捕された作曲家がいる→ベートーヴェン
【2/28更新】『チャイコフスキー:《くるみ割り人形》、《眠りの森の美女》組曲』パリ管弦楽団, 小澤征爾
性的嗜好に翻弄された作曲家がいる→ピョートル・チャイコフスキー
【1/31更新】『ヴィヴァルディ:四季』イ・ムジチ合奏団, フェリックス・アーヨ
敏腕DJ以上に仕事が速かった作曲家がいる→アントニオ・ヴィヴァルディ
【12/27更新】『ベートーヴェン: 交響曲全集』ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団, ヘルベルト・フォン・カラヤン
当初、タイトルがものすごく長かった名曲がある→ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン『交響曲第9番ニ短調作品125「合唱付き」』
【11/29更新】『バッハ・カレイドスコープ』ヴィキングル・オラフソン
いち早く少子高齢化対策をした作曲家がいる→ヨハン・ゼバスティアン・バッハ
【11/1更新】『ショスタコーヴィチ:交響曲第10番&第11番 (96kHz/24bit)』スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ, 読売日本交響楽団
呪いをはねのけた作曲家がいる→ドミートリイ・ショスタコーヴィチ
【9/27更新】『ブルックナー:交響曲 第6番』上岡敏之, 新日本フィルハーモニー交響楽団
出だしが非常に遅かった作曲家がいる→アントン・ブルックナー
【8/30更新】『世界の愛唱歌ベスト』V.A.
38セントしか遺産を残さなかった作曲家がいる→リストスティーブン・フォスター
【7/26更新】『レーガー: オルガン作品集 第14集 5つのやさしい前奏曲とフーガ/52のやさしいコラール 前奏曲』ジョセフ・スティル
食欲で身を滅ぼした(かもしれない)作曲家がいる→マックス・レーガー
【6/28更新】『R.シュトラウス:交響詩《ツァラトゥストラはかく語りき》、他』ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮, ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
家庭の事情を仕事に持ち込んだ作曲家がいる→リヒャルト・シュトラウス
【5/31更新】『Khachaturian: Suites from Spartacus and Gayane / Ravel: Daphnes et Chloe 』St Petersburg Philharmonic Orchestra, Yuri Temirkanov
突貫工事でつくられた名曲がある→ハチャトゥリアン「剣の舞」
【4/26更新】『ブルックナー:交響曲 第8番 (ハース版) 』朝比奈隆, 大阪フィルハーモニー交響楽団
実の息子に対抗意識を持った指揮者がいる→朝比奈隆
【3/28更新】『Satie: Vexations (840 Times)』Alessandro Deljavan
最後まで演奏するのに18時間かかる曲がある→サティ「ヴェクサシオン」
【3/19更新】『Debussy: Piano Works, Vol. 2 - Estampes, Children's Corner, Pour le piano & Other Pieces』Jacopo Salvatori
偏屈で嫌われていた作曲家がいる→ドビュッシー
【3/12更新】『リスト:《巡礼の年》全曲』ラザール・ベルマン
他人の曲を借用しまくって自分のスキルを自慢した作曲家がいる→リスト
【3/5更新】『Rossini:Overtures/ロッシーニ序曲集』アントニオ・パッパーノ指揮、サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団
誰よりも早く「働き方改革」を実践した作曲家がいる→ロッシーニ
【2/26更新】 『Kagel: Chorbuch - Les inventions d'Adolphe sax』マウリシオ・カーゲル指揮、オランダ室内合唱団、ラシェール・サクソフォン・カルテット
ティンパニ奏者が自爆する曲がある→カーゲル「ティンパニとオーケストラのための協奏曲」
【2/19更新】『Haydn: The Creation』ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、フリッツ・ヴンダーリヒ
妻への恨みを曲にした作曲家がいる→ハイドン「4分33秒」
【2/12更新】『Cage: Works for 2 Keyboards, Vol. 2』Xenia Pestova, Pascal Meyer, Remy Franck, Jarek Frankowski, Bastien Gilson
4分33秒、無音の曲がある→ジョン・ケージ「4分33秒」
【2/5更新】『ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第14番(弦楽合奏版)&序曲集』ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団, レナード・バーンスタイン
コーヒーに異常な執着を見せた作曲家がいる→ベートーヴェン
【1/29更新】『プッチーニ:歌劇『トゥーランドット』(演奏会形式)』アンドレア・バッティストーニ, 東京フィルハーモニー交響楽団
たばこ好きが高じて犯罪の域に足を踏み入れた作曲家がいる→プッチーニ
【1/22更新】『ドヴォルザーク:交響曲第9番《新世界より》 【ORT】』ヴァーツラフ・ノイマン指揮, チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
「鉄オタ」だった作曲家がいる→ドヴォルザーク
【1/16更新】『モリエールのオペラ~ジャン=バティスト・リュリの劇場音楽』ジェローム・コレア&レ・パラダン
床を足で叩いて命を落とした作曲家がいる→リュリ
【1/9更新】『モーツァルト:レクイエム』ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団, ヘルベルト・フォン・カラヤン
お尻をなめることを要求した作曲家がいる→モーツァルト
【新連載】『エリック・サティ:新・ピアノ作品集』高橋悠治
ふざけた曲名の楽曲をたくさん残した作曲家がいる→エリック・サティ
印南敦史 プロフィール
印南敦史(いんなみ・あつし)
東京出身。作家、書評家、音楽評論家。各種メディアに、月間50本以上の書評を執筆。新刊は、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)。他にもベストセラー『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)をはじめ著書多数。音楽評論家としては、ヒップホップなどのブラック・ミュージックからクラシックまでを幅広くフォローする異色の存在。
◆ブログ「印南敦史の、おもに立ち食いそば」
◆連載「印南敦史の 名盤はハイレゾで聴く」