【6/19更新】 印南敦史の名盤はハイレゾで聴く

2020/06/19
月間50本以上の書評を執筆する書評家であり、ベストセラー『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』の作家としても知られ、更にヒップホップなどのブラック・ミュージックからクラシックまでを幅広くフォローする異色の音楽評論家としての顔を持つ印南敦史による連載「印南敦史の名盤はハイレゾで聴く」。
ノラ・ジョーンズ『Come Away With Me』
大阪から単身上京してきた友人が連れて行ってくれた店で、20年近く前に流れていた作品

ノラ・ジョーンズの新作『ピック・ミー・アップ・オフ・ザ・フロア』を聴いてみたらとってもよかったので、2002年の『Come Away With Me』をひさしぶりに聴いてみたくなったのでした。

ブルーノート・レーベルから彗星のごとく登場した彼女の、記念すべきデビュー・アルバム。グラミー賞8部門を受賞した名作です。

なおe-onkyoには名エンジニアのグレッグ・カルビがオリジナルのアナログ・ミックス・テープから192kHz/24bitにマスタリングした音源がありますが、これを聴くとなおさら、質の高さに驚かされますね。

で、数年ぶり聴いてみたら、当時の記憶がいろいろ甦ってきました。

思い出したのは、とある音楽関連の会社に勤めていらっしゃるOさんのことです。知り合いの編集者から紹介され、僕の手持ちのレコードを数枚お貸しすることになったのが出会いのきっかけでした。

いくつかレア盤もありましたが「一週間ほどでお返しします」と言ってくださいましたし、なにより彼はとても感じのいい方だったので、特に気になることもありませんでした。

ところが一週間どころか、一ヶ月くらい経ってもレコードは戻ってこず、連絡すら途絶えたのです。

人を騙すようなタイプには見えなかったし、そもそも会社の仕事としてお貸ししたわけですから、逃げるようなことをするはずがありません。そうは思ったけれどやはり気になるので、あるとき「一週間で返していただけるというお話でしたよね?」とメールを送ったのです。

その結果、すぐに届いた返事には、予想もしていなかったことが書かれていました。

「申し訳ございません。実は○○という病気で入院しており、先日退院したばかりでした。たいへんご迷惑をおかけしてしまいました」

あわわわわ。まさか、そんなことになっていたとは。嘘をついているのではないかという疑いの気持ちがなかったといえば嘘になりますが、あえてそういうことは考えず、信じることにしました。

そして、「ご挨拶も兼ねて手渡しでお返ししたい」とのことだったので、「じゃあ、ちょっと飲みましょうか」ということになったのです。

初めて会ったOさんは見るからに誠実そうで、表情と物腰を見ただけで、「嘘をつくような人ではない」ということが直感的にわかりました。

それに、とにかく魅力的な人だったのです。

大阪の出身で、少し前に東京に転勤してきた方でした。しかし東京にまったく知人がいなかったため、自分の足で人脈を広げていったのだとか。その過程で知り合った編集者から、僕のことを紹介されたという流れだったのです。

「リイシュー盤が出たら必ず買ってしまう」というほどのKISSファン。しかしKISSだけではなく、すべての音楽に対する好奇心を抑えきれない人でした。

その貪欲さ、純粋さ、正直さがとても心地よかったし、向こうも僕を受け入れてくれたので、一気に距離が縮まりました。

以来、仕事を依頼してくれるようになり、ちょくちょく飲みに行くようにもなったのです。

「兄貴、渋谷の『グランドファーザーズ』に行きません?」

あるとき、そんな誘いを受けました。なんでも知り合いもいないまま上京して以来、「グランドファーザーズ」にはよく顔を出しているのだそうです。行ったことはなかったけれど、その老舗のバーの名は聞いていたので、もちろんOKしました。

ちなみに僕より少しだけ年下のOさんは、なぜかその当時からずっと、僕のことを「兄貴」と呼んでくれます。ちょっと気恥ずかしいのですが、しかしそれもまた彼の個性なんだろうな。

Oさんに連れられて行ったグランドファーザーズは、予想以上に居心地のいい店でした。学生時代、先輩に連れて行ってもらった音楽系のバーみたいな雰囲気。木製のインテリアもレトロそのもので、アナログレコードの音色がとても似合っていました。

「東京に来てから、僕はいつもひとりでここに来てたんですよ」

ウィスキーのグラスを手に持ってニッコリと笑いながら、Oさんが話してくれました。

そうか、単身で知らない街に飛び込んできて、ここでストレスを発散していたのかもしれないな。

そんなことを考えていたときにレコードが変わり、ノラ・ジョーンズの『Come Away With Me』が流れはじめたのです。グランドファーザーズは70年代の音楽がかかる店だったので意外な気もしましたが、不思議と違和感はなく、やさしいヴォーカルが狭い店内に広がっていったのでした。

いま、これを書いていたら、無性にOさんと飲みたくなってきました。最近会ってないけど、また連絡してみようかな。



『Come Away With Me』
Norah Jones


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印南敦史 プロフィール

 

印南敦史(いんなみ・あつし)
東京出身。作家、書評家、音楽評論家。各種メディアに、月間50本以上の書評を執筆。新刊は、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)。他にもベストセラー『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)をはじめ著書多数。音楽評論家としては、ヒップホップなどのブラック・ミュージックからクラシックまでを幅広くフォローする異色の存在。

ブログ「印南敦史の、おもに立ち食いそば」

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