印南敦史のクラシック・コラム「クラシック音楽の穴」。ここで明らかにしようとしているのは、文字どおりクラシック音楽の「知られざる穴」。クラシックにはなにかと高尚なイメージがあって、それが「とっつきにくさ」につながっていたりもします。しかし実際には、そんなクラシック音楽にも“穴”というべきズッコケポイントがあるもの。そこでここでは、クラシック音楽の「笑える話」「信じられないエピソード」をご紹介することによって、ハードルを下げてしまおうと考えているわけです。そうすれば、好奇心も高まるかもしれませんからね。だからこそ肩の力を抜き、リラックスしてお読みいただければと思います。
たったひと晩で書かれた名曲がある
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アラム・ハチャトゥリアン『剣の舞』
その昔、小さな小さな広告代理店で制作の仕事をしていたときには、しょっちゅう営業さんとやりあっていました。
先方の希望どおりの広告をつくっても、あとになってから「こうじゃないんですけど……」などという微妙な答えが返ってきたりすることがよくあったからです。
「こういう感じ……じゃないんですよねぇ……」
「え、でも、言われたとおりになってますよね」
「……でも……こう、じゃないんですよねえ……」
「じゃあ、どこがよくないんですか? つくりなおしますから、具体的に教えてください」
「……っていうか、こうじゃないんです……」
「ですから……」
ってな感じで、“どこをどうしたいのか”を伝えられない営業さんが少なくなかったのです。制作と営業の違いだと言われればそのとおりですし、営業さんには営業さんの事情があったのでしょう。
それはわかるのですが、少なくともこちらとしては、伝えてもらわないとやりようがないわけです。
なのに、何度も理由なくダメ出しされるので、「だったら好きなようにやっちゃえ!」という気分になり、やりたいことを勝手にやってしまったりもしたのでした。
すると意外なことに、「ありがとうございます! クライアントから絶賛されました! ぜひご一緒にお食事を、とのことですが、いかがでしょうか?」などと感激されたりして、なんとも複雑な心境。
ですからそんなときには「いや、うれしいんだけど、それ、最初に伺ってたことと全然違いますよねぇ?」と言いたい気持ちを押し殺し、「それはよかったです」と引きつりまくった笑みを返したりするしかないのでした。
あれは、つらかったなぁ。
でも広告はビジネスなのでまだいいとしても、これが芸術となると話は別。つくり手はこんな話とは比較にならないほど追い詰められ、とてつもなく悩むことになるのでしょう。
たとえばいい例が、ソビエトを代表する作曲家、アラム・ハチャトゥリアンです。
ハチャトゥリアンの代表曲といえば、なんといってもコーカサス地方のアルメニアを舞台にしたバレエ『ガイーヌ』のクライマックスを盛り上げる「剣の舞」。劇音楽としては世界屈指の演奏回数を誇るという、名曲中の名曲です。
疾走感に満ちた圧倒的なリズム、そして民族音楽のエッセンスを盛り込んだメロディーが強烈な印象を与える楽曲なので、ハチャトゥリアンを知らない人でも、聴けば「ああ、この曲か」とすぐに納得できるはず。
つまり、わずか2分半程度のこの曲は、彼の代名詞と呼ぶにふさわしい楽曲なのです。
ところが当人は、この曲を「私の騒々しい子ども」と呼び、あまりお気に入りではなかったのだとか。というのも、これは劇場幹部からの“圧”があったため、仕方なく書いた曲だったからです。
『ガイーヌ』の初演が披露されたのは1942年12月9日。しかしハチャトゥリアンが当時の政府と衝突関係にあったこともあり、劇場幹部から“最後を締めくくる勇壮な踊り”を追加することを命じられたのでした。
折りしも、初演直前のリハーサルが最終段階に入っていたタイミング。しかしソビエト連邦で大粛清が行われた数年後だったこともあって逆らうことなど許されず、もし失敗したら作曲家としての人生は終わることになってしまうわけです。おそロシヤ。
もし同じ立場に立たされたとしたら、冷静でいられる自信は僕にありません。しかしハチャトゥリアン はそんな状況下でも、たったひと晩であの名曲を書き上げたのです。
「8時間で書いた」という説がある一方には「11時間だった」と主張する人もいるらしいのですが、いずれにしてもものすごいスピードと集中力。しかも楽曲としての完成度がすばらしいので、まさに奇跡的な偉業と評価するべきでしょう。
ところで今回、このことについて書きたいと思ったことには理由があります。7月31日(金)から全国順次公開される映画『剣の舞 我が心の旋律』の試写を拝見して非常に感銘を受けたから。
タイトルからもわかるとおり、第二次大戦下のソ連におけるハチャトゥリアンの若き日を再現した、非常に生々しく、そして感動的な作品です。彼と近しい関係にあったショスタコーヴィチなども登場するので、「なるほど、当時ってこういう感じだったのね」とリアリティを感じることもできるはず。
正直なところ、ここに書いてきたようなエピソードは“文章”を通じて知っていたにすぎなかったので、映画を見たらバックグラウンドがとてもよく理解できました。
そのせいか「剣の舞」に対する関心が改めて湧いてきて、さまざまな縁者による演奏を聴きくらべたりもしています(それがけっこう楽しい)。
『ハチャトゥリャン ヴァイオリン作品集「ソナタ=モノローグ」』
木野雅之
『剣の舞 我が心の旋律』
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印南敦史 プロフィール
印南敦史(いんなみ・あつし)
東京出身。作家、書評家、音楽評論家。各種メディアに、月間50本以上の書評を執筆。新刊は、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)。他にもベストセラー『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)をはじめ著書多数。音楽評論家としては、ヒップホップなどのブラック・ミュージックからクラシックまでを幅広くフォローする異色の存在。
◆ブログ「印南敦史の、おもに立ち食いそば」
◆連載「印南敦史の 名盤はハイレゾで聴く」