藤本昭子×佐藤允彦=『雪墨』~地歌とピアノの共演から生まれた新しい音楽

2020/04/22
日本の古典音楽の第一線で活躍する地歌箏曲演奏家の藤本昭子さん、そしてジャズシーンを中心に様々なジャンルへのアプローチも注目されるピアニストで作・編曲家の佐藤允彦さん。この両者が地歌・箏曲の代表曲で共演しました。異色のコラボレーションから聞こえてくるのは、紛れもなく新しい音楽の響き! 注目のセッションを録音したのはベテラン・エンジニアの高田英男さん。この斬新なサウンドはどのように誕生したのでしょうか。e-onkyo musicでは、藤本昭子さんと、そのご夫君であり本作のプロデューサーでもある藤本草さん、そして高田英男さんのお三方にインタビュー。作品のコンセプトから音作りの秘密まで、大いに語っていただきました。

取材・文◎山本 昇







■地歌・箏曲がピアノと出会うまで

-- 本作『雪墨』は、“古典の覚醒”をテーマに開催された “地歌ライブ”公演(2019年10月・紀尾井ホール)がきっかけになっているようですが、そもそもジャズ・ピアニストである佐藤允彦さんとの共演はどのような経緯で実現したのでしょうか。

藤本昭子 私は地歌・箏曲の演奏家ですから、“地歌ライブ”では古典の曲目だけを演奏しているのですが、そもそも古典を広くご紹介する方法は限られています。どうすれば古典の良さを皆さんに伝えられるかと常に模索する中で、いままでにご一緒したことのないジャンルの方と共演させていただくのも一つの方法ではないかと考えました。そこで、昔からとても素晴らしいピアノをお弾きになる佐藤さんにお声がけをさせていただきました。

-- 佐藤さんとは以前からご交流があったそうですね。昭子さんのお母様で人間国宝の藤井久仁江さんのアメリカツアーに同行されたのがきっかけたっだとか。

藤本昭子 もう30年以上も前のことで、母と尺八の山本邦山先生とのツアーだったんですが、それに参加していたのが佐藤允彦さんでした。1ヵ月ほど生活を共にさせていただきましたが、本当に楽しいツアーでした。公演では、邦山先生の尺八と佐藤さんのピアノで「テイク・ファイブ」をやったりして、なんて素敵な演奏なんだろうと当時から憧れていたんです。そして今回、地歌・箏曲の古典にピアノをつけていただきたいとお願いしたところ、佐藤さんも「面白そうだね」と言ってくださり、実現したわけなのです。

-- なるほど。ある意味で今回のコラボレーションは必然的な流れでもあったわけですね。それにしても、フィールドの違うお二人の共演です。昨年のライブに向けて、どのように準備していったのでしょうか。

藤本昭子 10月の本番を迎えるにあたり、リハーサルを2月に始めて毎月行いました。やはり、最初は雲をつかむような感じで(笑)。私は普段どおりに弾いて歌うことしかできないんですが、佐藤さんは音作りをたくさんしてイメージを膨らませてくださり、出来上がっていきました。いまにしてみれば夢のようでしたが、何か新しい音楽が生まれたのかなという気がしています。

-- ライブ当日、聴衆の反応はいかがでしたか。

藤本昭子 あの日は芸大の学生さんを含め若い方もたくさん来てくださいましたが、古典の良さを理解するのは難しいところもありますから、どう聴いてくれたかなと思っていました。そうしたら、演奏が始まった途端に涙が止まらなかったという声をお寄せいただいたりして……。もう演奏者としてこの上なく嬉しいご意見でした。


ビクタースタジオの301stにて


-- そうでしたか。そんなお二人の好演を、高田英男さんの手により、ビクタースタジオでレコーディングしたのが本作『雪墨』です。大変素晴らしい試みと思いますが、藤本草さんはプロデューサーとして、どのような構想をお持ちだったのですか。

藤本草 僕のレコーディング生活40年の中で、高田英男さんというエンジニアは特別な存在です。以前は鬼太鼓座を一緒に作りましてね。僕は元々、日本や世界の伝統芸能や民族音楽の制作に携わってきましたので、アコースティックな音楽を専門にしています。そんな僕から見ても、高田さんはその音の持つ本質を見抜いて録る数少ないエンジニアの一人です。レコーディングに対するアプローチの確かさに加え、自由な発想を持っているんですね。そして、いいものを作ろうという熱意がすごい。ただ、高田さんはレコード会社として“売れる”作品づくり=メインストリームを担っていた方なので、僕らが手がけていた古典や伝統の分野でご一緒することはあまりなかったのですが(笑)。

-- そこで今回のご指名となったわけですね。

藤本草 そうですね。昨年の1月頃でしたか、高田さんに電話してお願いしてみたら、二つ返事で了解してくれたんです。そのときの受け止めはどうだったのか。まだ聞いてないので、今日はそのあたりも楽しみにいてします(笑)。でも、僕としては高田さんが参加してくれると分かった時点で、この企画の7~8割は成功したと思いました。

-- コンサートホールでのライブ録音にしようとは思われなかったのですか。

藤本草 今回の紀尾井ホールはクラシック向けのホールです。邦楽の伝統芸能の演奏会も開かれるのですが、三味線やお箏など楽器の音がちょっと遠かったり、歌が響き過ぎてしまったりするので、レコーディングとなるとなかなか思い通りにいかないところがあるんですね。そこで、コンサートの成功を期す意味でも、実は本番の前にビクタースタジオで録音することにしたんです。リハーサルのまま本番という流れはちょっと博打なところがありますので、その前にレコーディングを挿もうというわけです。レコーディングでは、テイクを重ねることもできますから、ここで最終的な形を二人が共有することができるだろうと。ですから、10月27日の紀尾井ホールでの公演に先立つ10月2日と3日に、ビクタースタジオでの録音を行っているんです。

-- そういう流れだったのですね。

藤本草 ところが、僕の計算違いが起きました。ライブを終えた佐藤允彦さんにもっといいものにしたいというさらなる意欲が沸き出して「録り直しませんか」と。実は昭子も同じ思いだったことが分かったのですが、レコーディングとライブを経て初めてつかんだものがあることを、佐藤さんが率直に言ってくださったんです。運良く、高田さんとスタジオのスケジュールも調整できましたので、「影法師」と「乱輪舌」を再度録音しました。

藤本昭子 録り直した「乱輪舌」は傑作なんですよ。佐藤さんの新たなアプローチもすごくて。楽しかったですね。

藤本草 僕としても、『雪墨』は長く音楽制作に携わってきた者としての総集編というような心づもりもありましてね。このアルバムをリスナーの皆さんがどう聴いてくださるかはこれからですが、僕が考える新しい創作を古典で行うという意味で、一つの提案はできたかなと思っています。

-- 高田さんは、今回のオファーをどのように受け止めたのでしょうか。

高田 かつて藤本草さんとご一緒したのは、鬼太鼓座の『富嶽百景』だったんです。この作品は、スタジオで繊細に録りつつ、ホールで大太鼓の迫力ある音も録るというように、徹底的に音にこだわって作らせていただきました。そんな藤本草さんからのオファーですから、普通に録って終わるものでないことは分かっていました。

藤本草 ハハハハハ。

高田 お二人の音楽をどのようにして音で表現するのか。その答を僕なりに見出せるかどうかがポイントだと思っていました。ただ、僕は地歌の世界を、それほど詳しくは分かっていません。そこで、リハーサルに伺わせていただくことにしたんです。

-- そのときの印象はいかがでしたか。

高田 リハーサル室に入ったとき、僕は昭子さんの近くで座っていましたが、初めて聴いた昭子さんの声がすごくて、本当にびっくりしたんです。僕も長くエンジニア生活をしてきたんですけど(笑)、人の声というものがこれほどまでに感情を伴い、パワー感をもって伝わってくるものかと大変驚きました。「ああ、まずはこれだな」と、ひらめくものがありました。そして、佐藤允彦さんのほうは各楽曲のスコアを基に、昭子さんとの呼吸を大切にしながらピアノを弾くんですが、1音ポーンと鳴ったときの余韻、そして間(ま)といったものが常に昭子さんと共鳴し合っている。一つの音の長さやそれぞれの呼吸といったものが重要だなと感じたんですよ。歌、ピアノ、三味線、お箏を録音するにあたっては、通常のバランスとか音色を超越した音楽が表現できるんじゃないかという感覚を持ちました。では、そのために必要なマイキングをどうするか。録音の手法を僕なりに考えながら参加させていただきました。

-- なるほど。ではそのマイキングなどについては後ほど詳しくお聞かせください。ここからは、昭子さんに、地歌や箏曲という“古典”の持つ魅力についてお聞きしたいと思います。そのあたり、普段はあまり馴染みのない人に噛み砕いて説明するとどうなりますでしょうか。

藤本昭子 本当に地味な音楽なんですね。地歌の地は地味の地と言うくらいで(笑)。長唄などの邦楽は歌舞伎の伴奏音楽としてお芝居に関係していたりして華やかなところがあるんですが、地歌は一人で弾き歌うのが基本なんですね。ですから、先ほど高田さんが触れてくださったように、歌をいかに魅力的に聴かせるか、声をどう工夫するか、そして楽器のほうは練りに練った1音1音を、いかに響かせられるかが勝負です。楽器はなかなか思い通りに鳴ってくれないこともありますが、なんとか上手く伝わるように私たちも精進する。そんな地味な作業を続けています(笑)。初めて聴かれる方にとっては難しく感じられるかもしれませんが、詳しいことはライブでお配りしているパンフレットの解説などを参考にしていただくと、より興味深く聴いていただけると思います。でも私の目標は、何だか分からないけど、とてもいい音楽だと感じていただけること。邦楽や洋楽といったジャンルを飛び越えて、一つの音楽として魅力的だなと思っていただけるような歌と演奏を心がけています。

-- ライブではPAを通すこともあるのですか。

藤本昭子 いえ、地歌は基本的に生音で勝負しています。三味線を用いた音楽は本来、舞台芸術ではなく、お座敷など狭い空間で弾き歌いしていたものですが、時代が経つにつれて舞台でも演奏されるようになり、楽器も改良されて少し大きな音が出るようになりました。それに伴って、歌もより大きな声で歌うように進化してきたんですね。


■慣れ親しんだビクタースタジオでの共演

-- スタジオの環境はライブ会場とは違う響きだったかと思います。ビクタースタジオの301スタでの演奏にどう臨まれましたか。

藤本昭子 301スタジオでの録音はこれまでにも何度かございまして、馴染みのあるスタジオです。実はビクタースタジオには祖母(大正・昭和期に活動した地歌箏曲家の阿部桂子さん)の時代からお世話になっているんです。ただ、今回初めてブースに入らせていただいたんですが、最初はちょっと閉塞感に戸惑いました(笑)。

藤本草 地歌も箏曲も基本的には歌のある曲がほとんどで、今回録音した「乱輪舌」のように歌のない曲は、実はすごく少ないんです。お箏の曲にもほとんど歌があるんです。僕が言うのも変なのですが、地歌箏曲の歌い手としての昭子はいま、とてもいい状態なんですね。年齢的にも、これまで長年にわたってライブなどで培ってきた技術的な部分でも。今回のレコーディングでも、歌に関してはほとんどワンテイクでした。それほど、身体の中に歌が入っているんです。制作を担当した僕としては、佐藤さんのピアノはもちろんですが、昭子の歌が信用できる状態であったことも今回の録音の大きなポイントの一つだったと思います。
 地歌や箏曲は確かに地味で素朴なんですけれど、聴き込んでいくといつの間にか良さに気が付き、より深いところに魅力が感じられる音楽です。もっとリズムやビートがあったり、ハーモニーがあったりするほうが取っつきやすいものですが、日本の古典の音楽には深い方向に魅力が広がっています。この『雪墨』では、高田さんがスタジオでその深みを本当に上手く引き出してくださったと思います。やはりリハーサルに来てくださったときのひらめきが利いているんじゃないでしょうか。

高田 今回のレコーディングでは、歌のある3曲では昭子さんに広めのブースに入っていただき、ピアノはメインエリアで録りました。301スタのメインエリアは天井がすごく高くて、とても素直な響きが得られます。それぞれ別の空間での録音ですから、お二人にはヘッドフォンでモニターしながら演奏していただくことになります。そのとき、僕らが心がけるのは、可能な限り演奏しやすい音をヘッドフォンに返すことなのですが、今回はそれぞれの楽器の本質をつかんだ音にしなければならないと感じました。だから、録音しながらミックスをしているようなイメージでヘッドフォンに送る音を調整しました。

藤本昭子 ありがとうございます(笑)。

高田 でも、あのときに驚いたのは昭子さんや藤本草さんの感覚の鋭さでした。何10年にわたって和楽器の音色を深いところで知り尽くしているので、調整中、ほんの少しニュアンスが変わっただけで「違います!」と言ってもらえるんです。

藤本昭子 すみません(笑)。

高田 そういうときは、ほんの少しだけマイクのポジションを変えたりといった非常に基本的なことを詰めていくと、ある瞬間にふとフォーカスが合うんですよね。この音楽の世界が持つ音色感というものを教えていただきました。

藤本草 アルバムのライナーノーツで佐藤さんも触れていますが、高田さんは今回、素晴らしいリバーブを付けてくれました。1曲目「黒髪」の冒頭で、ジャーンと鳴るピアノの音がすでに、アルバムのコンセプトを物語っています。

藤本昭子 私もあの音で、サーッと鳥肌が立ちました。

藤本草 高田さんと佐藤さんはかねてから多くの仕事を共にされている間柄ですが、あの音でもう、『雪墨』とはこういうアルバムなんだということを見事に引き出してくれているんですね。

藤本昭子 佐藤さんも高田さんも、どれだけたくさんの引き出しをお持ちなんだろうと不思議でした(笑)。今回は音作りにも時間を費やしていただきましたが、集中を切らすことなく演奏させていただけたのも、高田さんのおかげだと思っています。

藤本草 ちなみに、「黒髪」は本来、頭から三味線が出てくる曲です。でも、今回録音したものは、例のピアノから始まって歌に入ります。佐藤さんが紡ぎ出すピアノと、高田さんが作るサウンドを聴いていたら、三味線が段々少なくなってしまいました(笑)。この歌も、後半に出てくる三味線の間も、完全に古典そのものなんですが、本当は頭にたくさんあるはずの三味線をなしにしたのは、計算したと言うよりも……。

藤本昭子 あのサウンド、あの空気感の中で素直に生まれたアレンジでしたね。あそこでは三味線を弾きたくなくなってしまったんですよ。


ブースには大きな窓があり、演奏中はアイコンタクトが可能な状態だったそう


-- それにしても、ピアノと三味線や箏は調律など異なる部分も多いですよね。そのあたりはどのように工夫されたのでしょうか。

藤本昭子 確かに、平均律と純正律とでは相容れないところがあると思いますが、リハーサルではそういった部分についても打開策を探していきました。弾くものだけでなく、歌のほうもありますしね。そこで佐藤さんがまず、ものすごく緻密なスコアを作ってくださったんです。調律だけでなく、地歌・箏曲には洋楽にはない独特の間があり、そういった部分をどうするかも、佐藤さんが解釈してくださったんです。私のほうは基本的にはいつものように弾いて歌うことしかできないんですけれど、調弦を少しだけ変えたり、勘どころのツボを若干高くしたりといった工夫はしたつもりです。ただ、三味線は弦が3本なのでまだやりやすいのですが、お箏は13弦なのでそれを全部変えるわけにもいきません。ピアノと合わせると、どうしても違和感のある部分が出てしまうんです。そこは佐藤さんが、本当に絶妙によけて弾いてくださったんじゃないかと思っています。

藤本草 気が付いたのは、ピアノとお箏よりも、ピアノと三味線のほうが楽器としての距離が遠いからか、合わせやすいんですね。ピアノとお箏による「乱輪舌」を、もう一度録り直したいと思ったのは、「こうすればさらに良くなる」ということが、ライブを経て見えてきたのでしょう。結果的に「乱輪舌」は本当によい結果になりましたが、それは十分なリハーサルからレコーディング、ライブ、そして再度レコーディングという過程を踏んだことでアイデアが湧きだして、方向性が定まっていったからだと思います。「雪」ではピアノのソロも入っているんですが、それもリハーサルの中で出てきたアイデアです。昭子のほうはほぼ古典のとおりに弾き、歌っているわけですが、ある部分は三味線を抜いてみたりすることでピアノを入れることの狙いがはっきりするという効果が生まれたのも今回の成果です。またの機会には別の方法が見つかるのかもしれませんね。
 佐藤さんは既存のジャンルの音楽に対する固定観念がなく、今回の地歌・箏曲についても面白がって新しいものを引き出すことに終止してくださり、それが本当にありがたかったです。ともすれば、共演者を自分の得意なフィールドに引き入れたくなったりするものですけれど、佐藤さんにはそのような振る舞いが全くありませんでした。

藤本昭子 そういう作業を佐藤さんも楽しんでくださったようで、「すげぇ、すげぇ」とずっとおっしゃっていました(笑)。レコーディングを終えて、「今度はまた違う曲をやりましょう」とも言っていただけましたので、私も嬉しかったです。

藤本草 昭子が続けてきた“地歌ライブ”もファイナルが近付いてきましたが、2021年4月4日に“よみうり大手町ホール”で開催する最後の100回目には佐藤さんがまた出演してくれることになりました。そのときはまた違う曲をやってくれるかもしれませんね。ただ、新型コロナウイルス禍の影響で、日程どおりにできるかはちょっと分からないんですけれど。

藤本昭子 佐藤さんとは「『雪墨』を持って世界に行こう!」と言っています(笑)。


■静寂感をも取り込むレコーディングの技

-- それは素晴らしいですね。ぜひ実現していただきたいです。ここからは、高田さんに再びレコーディングについて伺いたいと思います。あらためて、本作の音作りのコンセプトについてお聞かせください。

高田 ちょっと抽象的な言い方で申し訳ないのですが、僕が今回いちばんこだわったのは、「音の感覚や感情を、どうすれば音で表現できるか」ということだったんです。佐藤さんのピアノにしても、昭子さんの声や三味線、お箏にしても、すべてが1音ごとに感情のようなものを伝えてくるんです。まるで、音として伝わるのではなく、気持ちそのもののような気がして……。そこを表現できるかどうかが最大のポイントだと思いました。そのためには、まず静寂感を作るのが大事なんです。例えばピアニシモの、音が鳴っているのか鳴っていないか分からない、本当に消えていく瞬間まで緊張感を保つ何かを引き出すことができるかどうかが鍵になるだろうと感じたんです。よって、マイキングにしても、ダイナミックレンジにしても、非常に広く、音が消えていくまで聴く人を引き付け、耳をもっていけるような音作りを大事にしました。

-- なるほど。では、実際のマイキングはどのように行われたのでしょうか。

高田 まず、三味線をあらためて録音してみると、これはほとんど打楽器なんですね。しかも、昭子さんはそれを歌いながら弾きますから、歌と三味線をマイクでバランスよく録るのは至難の業でした。歌のマイクにも三味線の音が入ってしまいますので、上手く分離しながらバランスをとって、声の深さや太さを調整しながら、三味線の艶とかリアリティを出す。なかなか大変でしたが、ここにはいちばんこだわりました。通常はボーカルにはコンデンサーのマイクを使うものですが、三味線との音の被りなどいろいろ試してみると、Sennheiser(ゼンハイザー)のMD441-Uというダイナミックマイクが、実際の声とマイクを通した音がぴたりと一致したんです。MD441-Uは、ナレーションなどのために特別に開発されたもので人間の声にとてもよく合うマイクなんです。
 そして、三味線のほうは、リボンマイクのRCA DX-77が定番ですが、この時代の音楽としてもう少し次のステージを感じさせるものにしたいと考えて、Audio-TechnicaのAT-4081という新しいリボンマイクをペアで使いました。これまでのリボンマイクはエッジが立ったクリアな音が得られますが、総じて音が硬くなりがちです。でも、AT-4081は音の深さを作ることができるんです。「影法師」や「雪」では、三味線の音色がより艶っぽく色めいて、いい感じで表現できたと思います。リスナーの皆さんにはぜひそのあたりも聴いていただきたいですね。

-- ピアノはどうですか。

高田 ピアノについてはできるだけ透明感のある音を狙って、メインはSchoeps(ショップス)のCMC-521としました。そして、歌のある3曲に関しては、ゴーンという鐘の音がピアノで表現されているんですが、この音は低域の深みを重視しています。ダイナミックレンジも深くとるために、Neumann(ノイマン)のM-149という新しい真空管のマイクで低域を押さえています。

藤本昭子 地歌の歌詞に「鐘」というキーワードが出てくるんですね。

高田 そうなんです。その音をそれぞれ聴き分けていただくのも面白いと思います。

-- そして、歌のない「乱輪舌」では箏が登場します。

高田 お箏も、最初はやはりブースで録ったんです。今回、昭子さんは特別に絹糸を張って演奏されているんですが、録った音を聴いてもらうと「これは絹糸の音じゃない」と言われました。「爪の音が」とおっしゃっていたので、最初のトライでは弦をはじいたときのアタック感が上手く捉えられていないようだったんです。そこで、2回目の録音ではピアノと入れ替えて、お箏をメインエリアに持ってきました。藤本草さんにこれまで301スタでお箏を録ってきた中でのベストポジションを教えていただき、そのとおりにセッティングしました。

藤本草 301スタジオの床には、昔付けた印が今も「この場所が箏」という具合に残っています。

高田 助かりました(笑)。そうしてようやくセッティングも決まり、マイクはSchoepsのCMC-62Hというクリアさがあって純邦楽にも最適なものをメインにすえ、低いほうはNeumannのチューブマイクM-49で押さえました。すると、フェーダーを上げた瞬間に、昭子さんが言っていた爪の音や絹の質感とはこれのことじゃないかと思ったんです。さっそく聴いていただくとやはりそのとおりで、お箏についてはお叱りを受けずにすみました(笑)。

藤本昭子 そんな、怒ってなんかいませんでしたよ(笑)。

藤本草 江戸時代のお箏は、少し張りが緩かったらしいんです。そして当時は養蚕が盛んで良質な絹糸が豊富にあったんですけど、戦後を経て現代になるといい絹糸が段々なくなってきます。また、絹は演奏中に切れてしまうことが多いので、いまは合成繊維のテトロンを使うのが普通です。でも、レコーディングなら切れても締め直すことができますから、今回は大枚をはたいて? 絹糸を用意しました(笑)。

高田 「乱輪舌」では逆にピアノをブースに入れたのですが、音のトランジェントの鋭さはこのほうがよく録れるんです。この曲は後半になると、ピアノのジャズ的なフレーズも出てくるので、上手く棲み分けることができたと思っています。


メインエリアに移して行われた箏の録音


-- そして、あの素晴らしいリバーブはどのように作ったのですか。

高田 ピアノのマイクはSchoepsのCMC-521、NeumannのM-149のほかにSanken(三研)のCO-100Kも使っています。そして、実はリバーブを付けているのはCMC-521とCO-100Kだけなんです。M-149にはリバーブを付けない。そうすると、低域がボケないんですね。上はカーンと伸びて、左手でバーンと弾く低いほうはけっこうリアルに出る。とても細かいテクニックですが、これも音作りの一つのポイントですね。

藤本草 「乱輪舌」の頭と終わりで、佐藤さんがビアノをマレットで叩いていましたね。

高田 そうですね。佐藤さんが「柔らかいマレットはないかな」と言うのでお渡ししたら、ペダルをオープンにしてピアノの弦を直接マレットで叩くんです。すると、ウーという低く響く音がずっと流れていく。ほどよい緊張感があって、あれもいい音でしたね。

藤本草 確かに、あの低音はすごくリアルでいい音ですね。

高田 「乱輪舌」では、昭子さんのお箏も、演奏方法によりふと音色が変わる瞬間があり、「ああ、気持ちいいなぁ」と思いながら録音していました。

-- 機材のリストを拝見すると、Tube-TechのCL-1B、LCA-2Bといったフィジカルな真空管のコンプレッサーも使われていますね。

高田 三味線もお箏も音のピークが出ますので、それを和らげつつダイナミックレンジを保つには真空管式のコンプレッサーを挿むと、とても自然な感じで録れるんです。

-- そして、リバーブもプラグインではなく、ハードの機材であるBricasti Design M7、Lexicon 960Lが使われています。

高田 いまの時代、音が消える瞬間の緊張感を保つためにも、リバーブに何を選ぶかはとても大事です。Lexicon 960Lは24bit/96kHz、Bricasti Design M7は24bit/192kHzに対応したハイレゾ用のリバーブで、この二つはいま、僕にとって絶対に必要な機材です。量子化も滑らかで、音が消える瞬間まで、音色とくっついてスーッと消えていきますので、先ほどお話ししたピアニシモもすごくいい形で伝えることができるんです。そのあたりはぜひハイレゾで体験していただきたいですね。なお、レコーディングは32bitフローティングの192kHzで行いました。


エンジニアの高田英男さん(左)と


■本作をハイレゾで聴くことの意味

-- ご自身の音をハイレゾで聴かれて、昭子さんはどのような印象を持たれましたか。

藤本昭子 先ほど高田さんもおっしゃったとおり、三味線はバチで革をアタックしますので、まさに打楽器のようなところがあります。近くで聴けば如実に分かるのですが、そのような鋭さを伴う音をいかに録音するかは本当に大変な作業だったことでしょう。しかも、余韻を含めて自然な響きにしていただけて、私としても嬉しく思いました。ハイレゾの音は今回のマスタリングで初めてじっくり聴かせていただきましたが、生音がしっかりと耳に届いているという感じがあり、これまでとは違う感動がありました。

藤本草 そう言えば、今回のレコーディングでは最終的に出来上がったマスターのデータを、SSDとハードディスクの両方で保存しました。私は回転系のないSSDのほうがいいかなと予想していましたが、ちょっと不思議なことがありましたね。

高田 そうですね。僕が今回いちばんこだわった音色感---ちょっと優しい深さと言いますか、そういうニュアンスはハードディスクのほうが感じられたし、音色自体も自然に聞こえました。SSDはものすごくクリアで音の立ち上がりもいいし、解像力も素晴らしいんです。でも、三味線の艶とか昭子さんの声の深さとか、そういうものが少し弱くなるように感じました。藤本草さんと相談して、最終的なマスターはハードディスクにアーカイブし、ハイレゾや高音質CDはすべてこれを使用しています。

藤本草 そのあたりも今回はすごく勉強になりました。

-- それにしても、私は普段、地歌や箏曲に馴染みはありませんが、この作品を聴かせていただき、ものすごい勢いで引き込まれました。収録曲はそれぞれ、どのような世界観を持っているのですか。

藤本昭子 途中で気が付いたのですが、今回は雪に始まり雪に終わるというアルバムになりました。歌のない「乱輪舌」は別として、1曲目の「黒髪」の歌は「積もると知らで、積もる白雪。」で終わります。「影法師」も、雪がしんしんと降る冬の寒い日の物語です。そして最後は「花も雪も払えば清き袂(たもと)」と始まる「雪」。そんなつながりから、アルバムタイトルを『雪墨』としました。ジャケットの題字も私が書かせていただいたんですよ。
 地歌には、男女の悲恋を歌ったものが多く、取り上げた3曲もすべて、好きな人を待っているという切ない内容です。「影法師」は、待っていた相手と話しているかのようでいて、実は自分の影法師に話しかけていた、つまり独り言であったというオチがつく歌です。「雪」は、かつて花街にいた人が尼僧となり、華やかだった頃を回想しながら物語を切々と歌っていきます。「乱輪舌」は器楽的な曲ですから、初めての方にも分かりやすく入っていただけると思います。

藤本草 実は先日、スウェーデンのストックホルムで開催されたノーベル賞授賞会場の小ホールでの演奏会に招かれて、昭子と尺八の善養寺惠介さん、お箏の毛塚珠子さんの4人で行ってきたんです。ちょっと冒険でしたが、20分以上もある「根曳の松」という曲を演奏しました。それほど広くはありませんが、会場は満員。地歌・箏曲を初めて聴く人たちがどう反応するかと思いましたが、終わってみれば大きなスタンディング・オベーションをいただきました。これまで地歌に馴染みのない方にも、まずは先入観なく聴いていただけると嬉しいですね。

-- では最後に、e-onkyo musicのリスナーのメッセージをお願いします。

高田 僕は『雪墨』によって新しい音楽が誕生したんじゃないかと感じています。マスターには、“音楽の感情”とも言えるようなものが音として表現されている気がします。ぜひともそれをハイレゾリューションならではの世界で楽しんでください。

藤本草 先ほどもお話ししましたように、古典・伝統音楽界で昭子の声はいま、本当にいい状態にあります。日本の伝統的な声のボーカリストとしての昭子の歌を、その声の力というものをぜひ聴いていただきたいですね。海外の方がそうであったように、忌憚なく聴いていただければ必ず伝わるものがあるはずです。今回はそれをハイレゾという大きな器でお楽しみいただけるのを大変嬉しく思っています。

藤本昭子 私も今回、初めてハイレゾの世界を覗かせていただき、その素晴らしさに驚きました。地歌をまだ知らない方もたくさんいらっしゃると思いますが、このハイレゾによって『雪墨』を一つの新しい音楽として聴いていただけたら嬉しいです。




 門外漢の不躾な質問にも丁寧に応じてくれたご夫妻の言葉は、地歌・箏曲というものにあまり馴染みのない聴き手にも分かりやすく、また、新しい音楽として聴き込んでみたくなるような発見に満ちたものだった。そして、これまでも様々な作品の取材でレコーディングの面白さを解説してくれた高田さんのコメントは今回も明解で、マイキングをはじめ音作りの狙いがよく理解できたし、その成果はしっかりと音に現れている。ハイレゾを聴いて印象的だったのは、お話に出てきたリバーブの素晴らしさもさることながら、その巧みなステレオ感だ。例えば「黒髪」などではピアノが歌を中心にどこまでも広がるが、インスト曲の「乱輪舌」では箏の音が鋭く左右を支配。その分、ピアノはステレオ感が抑えられている。古典に潜んでいた楽しさを、録りとミックスによって顕在化させた高田さんの手腕も実にお見事。ピアノと地歌・箏曲の幸福な出会いともとれる本作の輝きは、優れた録音ノウハウとのコラボレートも欠かせなかったということだろう。
 ともあれ、本作を味わうには、藤本草さんも言うように何の先入観を持たず再生ボタンを押してみるのも一興。「黒髪」の冒頭から、気持ちよくノックアウトされること請け合いだ。




〈プロフィール〉


藤本昭子(ふじもと あきこ)
幼少より祖母阿部桂子、母藤井久仁江(人間国宝)に箏・三弦の手ほどきを受ける。1988年、NHKオーディション合格、初放送出演。1995年、第1回リサイタル開催。以後現在まで全16回開催。2001年、新宿たべるな(客席数70)で「地歌ライブ」を開始。以後、2ヵ月毎の偶数月に定期開催し、現在まで全96回開催、約90曲の古典曲を演奏。地歌箏曲の将来を担う世代から、三曲界の第一人者に至る多彩な共演者とのトークを交えた演奏を通じて、現代における伝統音楽の継承と、古典演奏の新たな可能性を追求している。2003年、日本伝統文化振興財団賞受賞、CDアルバム制作。2004年、文化庁芸術祭新人賞受賞。2008年、全英語解説による「JIUTA」公演を東京で開催。以後全6回開催。伝統文化ポーラ賞奨励賞受賞。2010年、「地歌ライブ第50回記念公演」開催、CDアルバム制作。2011年、文化庁芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。2015年、結婚を機に芸名を藤本昭子に改める。2018年12月より「地歌ライブ・ファイナルカウントダウン公演」を開始。2019年、古典の新たな創造を目指し、高橋翠秋、鶴澤津賀寿、善養寺惠介と共に「SATZ」結成、7月に初公演開催。2020年4月、CDアルバム「雪墨」を公益財団法人日本伝統文化振興財団よりリリース。現在、九州系地歌箏曲家として演奏会・放送等に出演の他、後進の指導に当たっている。正派音楽院講師。

[海外公演]
1986年 山本邦山、藤井久仁江と共にカナダ、米国各地巡演。
1989年 94年 99年 藤井久仁江と共に米国各地巡演。
2006年 シティーオブロンドンフェスティバルに招聘。ロンドンにて「藤井昭子地歌演奏会」開催。ロンドン大学SOASでワークショップを行う。
2008年 「オランダ・ベルギー地歌公演」開催。シドニーでの世界尺八フェスティバル招聘演奏。
2011年 「地歌箏曲ドイツ公演」出演、4都市で演奏。
2012年 「オーストリア・ハンガリー地歌公演」開催。
2015年 パリでラジオ・フランス出演。
2017年 「スイス地歌公演」(ジュネーブ他)開催、ワークショップを行う。
2018年 ロンドンでの世界尺八フェスティバル招聘演奏。
2019年 「ハンガリー地歌公演」(ブダペストほか4都市)開催、ワークショップを行う。
2020年 3月、ストックホルムで「RE:ORIENT FESTIVAL」招聘演奏、王立音楽大学マスタークラスのワークショップを行う。



藤本 草(ふじもと そう)
1950年東京都出身。1976年日本ビクター株式会社入社。伝統音楽・クラシック音楽・民族音楽を専門分野とする音楽・映像プロデューサーとして、これまで1000タイトルを超える音と映像作品を制作。2003年ビクター伝統文化振興財団理事長就任、11年公益財団法人認定を受ける。東京都文化発信プロジェクト委員、歴史的音盤アーカイブ推進協議会副代表幹事、国際交流基金審査委員、東京・邦楽コンクール審査委員長、長谷検校記念くまもと全国邦楽際審査委員長等を歴任。現在、(公財)日本伝統文化振興財団理事長、(公社)日本小唄連盟副会長、(公財)全国税理士共栄会文化財団理事、(一財)合唱音楽振興会理事、国立劇場専門委員。主な作品に、「JVCワールドサウンズ・シリーズ」「富嶽百景/鬼太鼓座」「キリスト教音楽の歴史」、「アイヌ神話集成」、「箏曲地歌大系」、「宮城道雄作品全集」、「明暗対山派全集」、「大般若経転読会」。毎日出版文化賞、文化庁芸術祭大賞・優秀賞、レコードアカデミー賞、レコード大賞企画賞等を多数受賞。著書に「アーカイブのつくりかた」(共著、勉誠出版、2012年)、「アーカイブ立国宣言」(共著、ポット出版、2014年)。



高田英男(たかだ ひでお)
1951年福島県生まれ。1969年に日本ビクター入社(現JVCケンウッド)し、ビクター築地スタジオに配属。ビクタースタジオにて録音エンジニアとしてアイドル、ポップス、ジャズなどアコースティック録音を中心に多くのヒット作品を手掛ける。2001年、ビクタースタジオ長に就任。2012年、(株)JVCケンウッド・ビクターエンタテインメントとサウンド・プロデューサー契約。2016年、MIXER’S LABとエンジニアマネージメント契約と、顧問に就任。JVCデジタル高音質技術「K2テクノロジー」、ウッドコーンスピーカーなどの音創りをサポートする。2017年度日本プロ音楽録音賞2CHハイレゾ部門最優秀賞など多数受賞。現在はハイレゾリューションによる音楽制作を推進している。一般社団法人 日本音楽スタジオ協会会長・技術委員長。

[主なアーティストと作品]
アイドル◎麻丘めぐみ、桜田淳子、石野真子、小泉今日子
ロック◎ギターワークショップ、サディスティックス、高中義正、後藤次利、スペクトラム、アラゴン
ジャズ◎サリナジョーンズ、国府弘子、中川昌三、ネーティブサン、MALTA、ポンタボックス、村上ポンタ秀一、阿川泰子、苫米地義久(TOMA)、石塚まみ
純邦楽&他◎鬼太鼓座、芸能山城組
主なハイレゾ作品◎VICTOR STUDIO HD-Soundシリーズ、芸能山城組 ハイパーソニックハイレゾシリーズ、苫米地義久『TOMA Ballads 3』,『TOMA Ballads 4』,  『Stereo Sound Hi-Res Reference Check Disc』、日本オーディオ協会監修『音のリファレンスシリーズ』、井筒香奈江『Laidback2018』、井筒香奈江『Direct Cutting at KING SEKIGUCHIDAI STUDIO』

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