【3/27更新】印南敦史の「クラシック音楽の穴」

2020/03/27
印南敦史のクラシック・コラム「クラシック音楽の穴」。ここで明らかにしようとしているのは、文字どおりクラシック音楽の「知られざる穴」。クラシックにはなにかと高尚なイメージがあって、それが「とっつきにくさ」につながっていたりもします。しかし実際には、そんなクラシック音楽にも“穴”というべきズッコケポイントがあるもの。そこでここでは、クラシック音楽の「笑える話」「信じられないエピソード」をご紹介することによって、ハードルを下げてしまおうと考えているわけです。そうすれば、好奇心も高まるかもしれませんからね。だからこそ肩の力を抜き、リラックスしてお読みいただければと思います。
浮浪者に間違えられ逮捕された作曲家がいる

ベートーヴェン


我が家の近所に、ちょっと不思議なおじいさんが住んでいます。怒ったような表情でキッと前を向き、「ずん、ずん」と商店街を歩く姿をよく見かけるのですが、なにをやっている人なのか想像がつかないのです。

なにをやろうがその人の勝手ですけれど、なんとも不思議な存在感があるんですよね。

そういえば、某新古書店で店員を相手にわめいていたのを見たこともあったな(ちょっと怖かった)。

先日、行きつけの床屋で、そのおじいさんのことが話題に上りました。衝撃的だったのは、床屋のお兄ちゃんのことばです。

「あの人、すぐそこのアパートに住んでるですよ」
「なんで知ってんの?」
「先輩がそのアパートに住んでるんで遊びに行ったんですけど、チャイムを押して待ってたら、隣の部屋のドアが開いてあのおじいさんが出てきたんです。ビックリしましたよ」

そりゃービックリしますわなあ。

というわけで、どうやらおじいさんはそのアパートで暮らしているようです。ちなみに以後も新古書店の袋をぶら下げて歩いているところを何度も見ているので、本好きである可能性が高い気がします(店員さんとは和解したのでしょうか?)。

でも、それ以上の情報はなくて、いや実際のところ、別にその人がどう生きようがどうでもいいのです。が、なんだか気になってしまうわけです。

そういえば見た目が『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に出てきた博士のドクに似ている気がしなくもないから、発明家だということも考えられます(って、なんだよその安直な発想は?)。

なお、ドクを連想させてしまうのは、ひとえにその風貌のせいではないかと思われます。

乱れまくった長い髪はボサボサで、度がきつそうな瓶底メガネをかけていて、服は基本的にダボダボで、靴も少し大きめ(に見える)。正直なところ、ちょっと浮浪者風なのです。

でも、そういう人に限ってものすごい人だったりするもの。狭いアパートに住んでいるとはいえ、実は大金持ちだということも考えられます(考えようと思えば、どうとでも考えられるよね)。

ところで浮浪者といえば、クラシックの世界にも浮浪者扱いされた人がいます。誰あろう、ベートーヴェン がその人。

ベートーヴェンの神経質っぷりについては、かなり前に書いたことがあります。そこからも推測できるように、基本的には細かい人だったのでしょう。入浴が好きで洗濯も怠らない、きれい好きだったという話もありますし。

でも、そうでありながら「片づけができないタイプ」でもあったよう。死ぬまでに60回以上引越しをしたという話は知られていますが、それも片づけが苦手だったことと関係している気がしなくもありません。

しかも若いころはそれなりにきれいな格好をしていたものの、年齢を重ねるごとに風貌に気を使わなくなっていったのだとか。髪はボサボサのまま伸ばしっぱなしにしていたため、弟子のツェルニーからロビンソン・クルーソーのようだと言われたりもしたそうです。

ベートーヴェン が生まれたのは1770年あたりで、小説『ロビンソン・クルーソーの生涯と奇しくも驚くべき冒険』が刊行されたのが1719年ですから、まぁ、ありえない話ではないですね。

それはともかく、作曲にどっぷり集中していたあるとき、帽子をかぶらず逆立ったボサボサ頭のままで歩いていたら、浮浪者と間違えられて誤認逮捕されたこともあったというのです。

現代の感覚でいうと、まず「浮浪者だから逮捕」という発想自体が理解しづらいところですが、ともあれ結果的にはウィーン市長が謝罪することになったのだとか。

本人にしてみればさんざんなトラブルだったでしょうが、天才と呼ばれる人ならではのエピソードだという気もします。

しかしそう考えると、最初に書いたあのおじいさんも、やっぱりものすごい人なのかもしれません。そんな気がしてきた(安易だな)。



『ベートーヴェン: 交響曲 第5番、シベリウス: 交響曲 第2番』
ジョージ・セル, ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団




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印南敦史 プロフィール

印南敦史(いんなみ・あつし)
東京出身。作家、書評家、音楽評論家。各種メディアに、月間50本以上の書評を執筆。新刊は、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)。他にもベストセラー『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)をはじめ著書多数。音楽評論家としては、ヒップホップなどのブラック・ミュージックからクラシックまでを幅広くフォローする異色の存在。

◆ブログ「印南敦史の、おもに立ち食いそば」
◆連載「印南敦史の 名盤はハイレゾで聴く」

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