dream window Treeレーベル第3弾作品『ルイ・クープラン クラヴサン曲集』がリリース

2019/11/27
フランスはコルマールのウンターリンデン美術館に、長く佇む一台のチェンバロがあります。395年前に当代きっての楽器製作ファミリー“ルッカース”が手掛けた年代物でしたが、近年の大胆な弦の張り替えによって音質も劇的に向上したと言われます。その貴重なチェンバロを現地で録音する機会を得たのはチェンバリストの桒形亜樹子さん。dream window Treeレーベルの第3弾作品としてリリースされる本作『ルイ・クープラン クラヴサン曲集』は、前2作と同様にレーベルの主宰者で世界的に著名なレコーディング・エンジニアである深田晃さんとのタッグで実現した好企画です。本作の録音を巡るお二人の対話からは、音楽そのものを最良の状態で届けたいという切実な想いが伝わってくるようです。


取材・文◎山本 昇

チェンバロ:桒形亜樹子、録音:深田晃による大好評シリーズ
待望の第3弾はフランス・コルマールの美術館収蔵のオリジナルチェンバロ


『ルイ・クープラン: クラヴサン曲集』
/桑形亜樹子



2017年に自主レーベル「dream window Tree」を立ち上げたレコーディング・エンジニアの深田晃氏が、「ぜひ最初に録音したい」と声をかけたのがチェンバロ奏者の桒形亜樹子氏(以下、敬称略)であり、レーベルの第1弾は彼女の『メディテイション~フローベルガーの眼差し~』(2017年)だった。深田が録るチェンバロについて桒形は、「自分の演奏を聴いて泣いたのは初めて」と、その手腕を高く評価し、互いの信頼感が醸成され、続く第2弾『J.S.バッハ: 平均律クラヴィーア曲集 第1巻 BWV 846-869(1722年自筆手稿譜による)』(2018年)へと繋がった。いずれもPCM 24bit/352.8kHz やDSD11.2MHzなどのハイレゾで提供されている。
 そして今回の第3弾。こちらも桒形によるチェンバロ作品なのだが、前2作が日本のホールでのレコーディングだったのに対し、本作の収録はフランスのコルマール(オー=ラン県)のとある美術館で行われた。どのような経緯だったのだろう。
 きっかけは、かねてから桒形と親交のあるチェンバロ奏者から、「コルマールのウンターリンデン美術館にあるチェンバロを録音できるチャンスがあるので、この権利をあなたに譲りたい」という突然の、しかし嬉しい誘いだったという。ウンターリンデン美術館には、1624年にヨハネス・ルッカースが制作したオリジナルのチェンバロが所蔵されている。桒形はこの申し出を受け、「ぜひこのチェンバロで、大好きなクープランを演奏し、それを深田さんにレコーディングしてほしい」との想いに至り、dream window Treeレーベルの第3弾作品『ルイ・クープラン クラヴサン曲集』の制作が決定した。





■ウンターリンデン美術館での貴重な録音機会

 事前の下見を経て、ウンターリンデン美術館での録音が行われたのは6月10日~14日の5日間。フローベルガー、バッハに続き、桒形が選んだのは先述のとおりクープランだ。その理由について、本作の支援者を招いて開催された報告会で、彼女はこう説明する。
「実は、最初に録音させていただいたフローベルガーが亡くなったのが、コルマールのすぐ近くなので、フローベルガーを録ることも考えたのですが、ここでは同時代に生きた作曲家のルイ・クープランを弾きたいという思いが強くありました。第1弾、第2弾とドイツの作曲家が続いたので、深田さんも、“今度はフランスでいきましょう”と言ってくださり、今回はクープランでいこうと決めました。ちなみに、フローベルガーとクープランは交流があり、曲のモチーフを互いに交換し合ったり、同じタイトルの曲を書いたりしています。そんな繋がりもあるんですよ」




報告会に集まった支援者を前に語る桒形さん。会場は大いに盛り上がった




 桒形が「訪れたのは6月なので、ゼラニウムがたくさん咲いていました」と振り返るコルマールはパリからおよそ400km。フランス東部に位置し、中世からの古い建物も残る町並みでも知られているという。すぐそばを流れるライン川を渡ればそこはドイツのフライブルグ。アルザス地方の中で、ドイツ領とフランス領を行き来した歴史を持ち、この地に住む高齢者はドイツ語も話すらしい。美術館の名称となっている「ウンターリンデン」とは、「菩提樹の下に」という意味だそうで、13世紀にはここが修道院であったことを物語っている。そして、美術館の貴重な所蔵品として展示されているそのチェンバロは鉄柵で仕切られ、もちろん通常は触ることも許されない。
「この楽器は『フランダースの犬』で知られるベルギーのアントワープで1624年に作られ、フランスに持ち込まれました。一時期はサド侯爵の末裔のお城に置かれていたのですが、次第に管理ができなくなると売却が発表されます。そこであるイギリスのお金持ちが手を挙げたそうなのですが、フランスの宝をイギリスに売り渡すことはできないと、有志の方がお金を出してコルマール市に働きかけて購入したのだそうです。それはちょうど40年前のことでした」(桒形)

■音が劇的に変わったルッカースのチェンバロ

 「いいスタッフに恵まれた」(桒形)という今回の出張レコーディング。楽器のメンテナンスや調律の面でも強力な助っ人が現れたという。
「現場には、この楽器の修復を40年以上も前から手がけているイギリス人の修復家、クリストファー・クラークさんが来てくださいました。クラークさんは、ピアノフォルテの制作でも有名な方で、私がヨーロッパにいたときは7年~9年待ちということでした。日本では、小島芳子さんが初めて彼が作ったピアノフォルテを持ち帰っていますが、とにかく素晴らしい楽器です。最近はフランスに住み、修復の仕事に携わることが多いそうで、このウンターリンデン美術館のチェンバロも、彼にしか調整を許されていません」(桒形)
 曰くありそうなこのチェンバロについて、さらに詳しく解説していただこう。
「ルッカースによって作られたチェンバロは、そのほとんどが後に改造されています。ここのチェンバロも例外ではなく、2回にわたって大きな改造が施されていました。チェンバロの改造は通常、小さい楽器を大きくすることが圧倒的に多いのです。その場合は箱を拡大するような大手術となります。ところが、このチェンバロの改造は、外箱には手を加えずに鍵盤の幅をすべて狭くして鍵盤の数を増やしていたのです。これにより、いちばん上の鍵盤(d4)はギリギリのところにあるので、あまり良く鳴りません。ただ、低音は素晴らしく豊かな音が出るようになっていたんです」(桒形)
 桒形が驚くほどの音に変化した背景には、クラーク氏の技術と特別な弦の使用があったという。
「私は30年ほど前に、ドイツからこの楽器の見学に行ったことがあったのですが、そのときはオリジナルという意味ではすごいなとは思ったものの、さほど印象は残りませんでした。でも、3年ほど前にクラークさんが弦をすべて張り替えて、音が劇的に変わったのです。それは、古い弦の研究をしているカナダ人のプロフェッサーが、昔の金属の配合や製法で作ったもの。このチェンバロには165本の弦が張ってあり、それをすべて一度に張り替えると楽器が壊れてしまう危険もあったのですが、結果的に成功して、びっくりするくらい豊かな音になりました。もう、いままでのチェンバロの音は何だったんだろうというくらいの低音の鳴り、そして高音の伸びだったんです」(桒形)
 ピアノに比べれば張力は弱いとは言え、日常的に自然断弦もするというチェンバロは通常、すべての弦を張り替えることはしないという。それでもクラーク氏は時間をかけて全弦の張り替えを敢行したのだった。




チェンバロを調律するクリストファー・クラーク氏




 さて、このような貴重なチェンバロに、演奏者である桒形はどう対峙し、エンジニアの深田はどうアプローチしたのか。ここからは、本作の録音に関するお二人のやりとりをお楽しみいただこう。

■楽器が馴染んだ空間で行われた録音とマイキング

--まずはレコーディングに使用したマイクについて教えてください。

深田 使ったマイクは前に4本、後ろに2本です。これらはチェンバロからだいたい5メートルほどの距離、高さは3.5メートルくらいの位置に設置しました。役割としては前のバーに取り付けた両端の2本がメインですね。真ん中の2本を足していくと音がはっきりする傾向になりますが、どの程度混ぜるかはミックスの段階で決めたいと思います。後ろを向いている2本は部屋全体の音を狙ったアンビエンスマイクです。これも、どう使うかはミックスの際に考えていきます。




メインマイクは奥の両端2本で、手前はアンビエンス用。DPAの4006と4015を使用




チェンバロとマイクの位置関係




--今回の録音では、例えばピアノの録音のように弦の間近に寄せたマイクセッティングは行わなかったのですか。

桒形 バチバチという楽器のノイズや演奏者の息の音が拾われるのが私は絶対に嫌なんです。録音のことは深田さんにお任せしていますが、それだけはやめてくださいと最初にお願いしました。


深田 演奏者の息くらい、聞こえたっていいじゃない?(笑)

桒形 いや、演奏家が見えるのが私はダメなんです。録音されたものには作曲家だけがいてほしいんですよ。

--録音では、思わぬ珍客に見舞われたそうですね。

深田 録音している部屋の向かいにレストランがあって、そこは夜の10時に閉店するはずなんですが、結局いつも11時近くまで呑んで騒いでる人たちがいまして(笑)。毎日、美術館が閉まったあと、7時頃からマイクを立てて、「そろそろ静かにならないかなぁ」と思いながら待っていました。また、鳥の鳴き声もけっこう入ってきて、その中には雀もたくさんいたんですが、日本の雀と違って鳴き声が大きいんですよ(笑)。

桒形 チュン!(笑)

深田 なぜか部屋の窓際に止まって鳴き続けて、さすがにその間は録音できませんでした。そんなこともあって、録音が始められるのはだいたい11時とか12時くらいからでしたね。

桒形 午前2時くらいになると、今度はどこからともなく低音が聞こえてくるんですよね。何だろうと思ったら、近くを流れる運河の水の音だったんです。

深田 チェンバロにマイクを寄せれば、そういう外のノイズも少なくできるんですが、今回は楽器の音が部屋で共鳴して音楽が生まれているところを録りたいと思いました。

桒形 私がこれまで録音があまり好きではなかった理由は、音楽を録ろうとせず、“音”を録ろうとすることが多いからなんです。大事なのはこの場所でこの楽器を録るということ。深田さんの言葉を借りれば、「音楽は楽器と演奏家と空間が一体になったもの。それを録音したい」ということで、私も全くそのとおりだと思います。さらに言えば、私としては“ルイ・クープランの音楽”がいちばん生かされる空間を録ってほしいと。深田さんも張り切って、「だれも録ったことのない音を録ってきましょう」とおっしゃってくださいましたが、そのとおりのものが録れたと思います。




レコーディングの様子を楽しげに振り返ってくれたお二人




--録音した場所はどのように決めたのですか。


深田 美術館のスタッフからは、録音期間中にセットされていたコンサートを行う回廊での録音も薦められたのですが、実際に聴いてみると普段から展示されている部屋がいちばん良かったんです。楽器の音が部屋の響きとマッチしていて、桒形さんとも「やっぱりここだね」と。

桒形 いつも置かれているその部屋に楽器が馴染んでいるのが分かったんです。ありがたいことに、そこは深田さんとも意見が一致しました。部屋の中では隅の方に少し動かしましたけどね。




録音が行われたウンターリンデン美術館の展示室




--録音を行った日数は?


桒形 5日間で行いました。主な録音はなんとか4日間で終えることができたので、最後の1日はおまけの録音をしてきました。

--楽器が展示されていた部屋の響きや楽器の鳴りはどんな印象でしたか。

深田 響くでも響かないでもなく、言ってみれば普通の部屋なんです。ただ、この楽器自体が持つ余韻がすごく長い。

桒形 そうなんです。私も別の方に弾いていただいて少し離れたところで聴いてみたんですが、本当に10秒くらいは残っているんです。なので、その響きに合った曲に差し替えたりしました。やはり、弦を新しくしたことが大きいのでしょう。3日目くらいからは鳴りすぎて、倍音が多くなったり、共鳴が始まったりして……。

深田 面白いことに、楽器の鳴りが毎日違うんです。恐らく、最初はおとなしく桒形さんの様子を見ていたんでしょうね。だんだん慣れてくると、今度は自分を主張し出すんです(笑)。

桒形 最初はお互い「お久しぶりです」って感じで(笑)。

--新しい弦によって音質がどう変わったのか。そのあたりをさらに詳しく教えていただけますか。

桒形 まず低音の鳴りがものすごく豊かになりました。また、変化したのは先ほどもお話しした音の伸びですね。そして、私がいちばん気になるのは楽器としてのバランスです。低音ばかりが目立って、ディスカント(高音部)がついていかなければしょうがないですし、逆にディスカントが歌いすぎても良くなくて、倍音のきれいなピラミッドが出来ていないと上手く響かせることはできません。チェンバロという楽器はとにかく高次倍音が豊富で、特に奇数倍音が強いんです。それだけにバランスの善し悪しは大事なんですね。今回のルッカースのチェンバロは、素晴らしいものでしたが、ちょっと低音が鳴りすぎていたので、ディスカントの爪の調整を若干強くしてもらいました。それでも、395歳のこのチェンバロは、なぜか3日目からは鳴りすぎてしまって(笑)、なだめるのに大変だったりしました。ルイ・クープランなのに、何を弾いてもルッカースになってしまう。それがオリジナル楽器のすごさであり、怖さでもあります。

--不思議なものですね。

桒形 そうなんです。楽器は本当に生き物ですね。毎日気分が変わるんですよ。

■ハイレゾが伝えるチェンバロの魅力

--ところで、桒形さんがチェンバリストへの道を志したのは、どんなきっかけがあったのでしょうか。

桒形 それは手が小さいからという、わりと単純な理由です。高校と大学は作曲科で、チェンバロを弾き始めたのは23歳から。ドイツへの留学をきっかけにチェンバロにはまってしまい、結局ヨーロッパには17年も居続けることになりました。性格的には細かい作業も好きなので、ツメを削ったり、弦を張って調律したりしなければならないチェンバロは性に合っていたのかもしれません。また、作曲科で勉強してきた対位法や和声などが、チェンバロではすごく役に立つことが分かったんです。作曲の勉強をしてきた10年はこのためにあったのかと、不思議な思いがしました。

--チェンバロの音色的な魅力についてはどう感じていますか。

桒形 全体的に音が小さく、ダイナミックレンジも狭い楽器ですが、私はその弦を弾く音が好きなんです。

深田 今回も、お世話になったクリストファーさんの作業を注意深く見ていましたね。

桒形 実は昔、パリの楽器屋さんに1年くらい就職して調整や調律の仕事もしたことがあるんです。でも、あまりにも握力が足りなくて諦めました。例えば新しい楽器が完成すると、まず160本もの弦を張らなくてはなりません。それも、張力のバランスがありますから、出来うる限り短時間に張っていく必要があるのですが、それがまず出来ませんでした。結局、私の役割としては弾くことがいちばんなのだと納得しました。

--そんなチェンバロを録音するにあたり、難しいのはどんなところですか。

深田 例えばピアノはダイナミックレンジがすごく広いですよね。人が扱える領域を超えている楽器だなといつも思うくらいで(笑)。

桒形 ピアノは演奏者が自分で調律や調整をすることは普通はしませんよね。でも、チェンバロは大体のことは私でもできますから。そこは大きな違いですね。

深田 ただ、録音という意味での考え方はどちらの楽器も変わりません。ピアノでもチェンバロでもヴァイオリンでも、ホールならホールで、演奏家によって発せられた音楽をその空間の中でいかに録るかということが大事なわけで、その手法は変わらないんですよ。

--ただ、チェンバロという楽器は、音楽ではない音も目立ってしまうと。

深田 そうですね。

桒形 ノイズは本当に多いです。でも、お客さんの中にはそういう雑音もあえて聴きたいという方もいらっしゃるそうですね。

--私もそうなのですが、そうした音も微笑ましく感じられるということですよね。でも、間近に接しているお二人はノイズをなるべく目立たなくしたいと思うわけで。オンマイクをセットされなかったのも、そうした理由ですね。メインマイクの位置はずくに決められたのですか。

深田 「ここだな」と思った位置からは、ほとんど動かしていませんね。

桒形 でも、私がぶつかって動かしてしまって……。

深田 「ああ、せっかく決めたのに」って(笑)。

桒形 すみません(笑)。でも、深田さんと作った最初のアルバム『メディテイション ~フローベルガーの眼差し~』の録音でびっくりしたのが、マイクの位置を決定する感覚の鋭さです。何本かはチェンバロから距離を保った場所に設置されていたのですが、1本だけ2メートルくらいの近さにあり、「これは嫌いだったら外してもいいです」って言われて。私はそのマイクが拾った音は1小節聴いただけで「いらないです」と答えると「分かりました」と。そして、それらは私が現場に着く前に決まっていたんです。普通は、私がリハーサルをしている間に少しは位置を直したりするものですが、深田さんは1ミリも動かしません。やっぱりこの人は宇宙人だなと思いました(笑)。

深田 今回は、近くにあと2本置いてみるつもりもあったんです。はっきりした要素が必要な場合もあるかなと思いましたので。でも、実際に聴いてみると、やっぱりいらないなと。

--倍音の豊かなチェンバロは、ハイレゾによってより楽しく再現されることになりますね。

深田 そうですね。ハイレゾの効果がいちばんよく現れるのが音の立ち上がりです。サンプリング周波数が上がるほど、立ち上がりの音がどんどん前にきますから、楽器の元の音により近くなってきます。周波数帯域の広さよりも、その影響のほうが大きいと思います。

桒形 チェンバロの録音は、弦がツメに触った瞬間の音の再現性が重要だと私は考えます。その点、ハイレゾは発音のクリアさと速さにメリットがあるように思います。

深田 今回も録音は352.8kHz/24bitですから、CDの8倍の速さで録っています。立ち上がりが速いと、原音に近付くことは確かですね。

桒形 私も詳しいことは分かりませんが、チェンバロの録音にとっては特に重要な部分だと思います。

深田 もちろん、そこはどんな楽器でも重要で、あるいは歌にしても英語などは子音が多くて、極端に言えば音の頭が短いと意味が伝わりにくいんです。

桒形 ドイツ語も子音が多いですよね。そもそもバロック音楽は言葉との関わりが深く、フレージングがフランス語の文法やアクセントと一緒だったりするんです。だから、私はフランス語が話せない人にフランスの音楽は弾けないと思っています。訛っているのがすぐに分かってしまうので。そこはもう、100%当てられますよ(笑)。

■「演奏家は音楽より前に一歩も出てはいけない」

--先ほどの報告会で、桒形さんは「演奏家はアノニマス、つまり無名でいい」とおっしゃっていました。

桒形 深田さんはよくご自身の役割について「黒子だから」とおっしゃいますが、私も黒子でいいんです。誰が弾いているかということよりも、いかに音楽が生きた音で伝わるかが大事なんです。録音にしろ演奏会にしろ、私は演奏家の名前も出さなくていいと考えているくらいで。今回の録音で言えば、ルイ・クープランがいてくれればいいのです。

--なぜ、そう思われるのでしょう。

桒形 演奏家は音楽の僕(しもべ)であるべきで、音楽より前には一歩でも出てはいけないと考えています。自分を前に出したいのであれば、自身で作曲をすればいいのです。ベートーヴェンでもモーツァルトでも、それを利用して自分を前に出すのが私はいちばん嫌いなんですね。今回のアルバムでは、ルイ・クープランをいい形で世に出したいと、ただそれだけなんですよ。そして、それを録り、ミックスできるのは深田さんしかいません。と、これからのミックスに向けてプレッシャーをかけておきましょう(笑)。

深田 上手く出来るかなぁ(笑)。

--これから行われるミックスについて、その方向性などお考えを聞かせてください。

深田 スタジオやホールではなく、やはり暗騒音の多い場所での録音だったので、そのあたりをどうするか。チェンバロの低音の豊かさを損なわない範囲で、削るべきところは少し削ることになると思います。雀の声とかはあってもいいと思うのですが、自動車の音なんかも微かに入っていたりしますので……。

桒形 美術館の展示室ですからね。でも、もっと条件の悪い美術館もたくさんあると聞きました。

--では最後に、e-onkyo musicのリスナーへ向けて、メッセージをお願いします。

深田 1600年代の楽器で、同時代の作曲家であるクープランの作品を、同時代の建物の中で録音したわけですが、そこで生まれる音楽は、おそらく日本で演奏されたものとは違うと思います。その違いが上手く出せればいいと思って、これからミックス作業に入りますので、そんな雰囲気も感じていただけると嬉しいですね。

桒形 私には自分の音楽は一切ありません。あの日の演奏はあのときに聞こえたものを弾いているだけなので、今日なら今日でまた全然違う演奏になるはずです。私としては、あのときの瞬間瞬間を再現していただければ本望です。滅多にない機会を得て録音されたこのアルバムを、一人でも多くの方に聴いていただきたいと思います。


 取材後、ミックス作業を経て完成した『ルイ・クープラン クラヴサン曲集』のハイレゾを聴いて驚いた。年代物のチェンバロから放たれる数々の音符が、空間を溌剌と飛び交う様が見えるような音像の中に、オンマイクを使用していないマイキングで録られたものとは思えないほど、弦の響きや箱の鳴りといった楽器にとって重要な音の情報が十二分に伝わってくるからだ。その中には、楽器に特有のノイズなどもほんの少しは含まれているけれど、何ら音楽を邪魔するものではない。ヴォリュームを上げてもうるさくならないのがハイレゾのいいところ。スピーカーの前でゆったりと、広げた世界地図に悠久の昔に想いを馳せながら、クープランの音楽にどっぷり浸ることができた。
 聞くところによると、ウンターリンデン美術館はその後、チェンバロの録音に関して展示室の使用を禁じ、コンサートが行われる回廊でのみ許可する方針という。桒形と深田が「ここしかない」と直感した空間での録音は今回で最後となるかもしれず、ますます貴重な音源になったとも言えるだろう。
 なお、デジタルブックレットに掲載されている桒形自身による楽曲解説は、収録曲をより深く楽しむためのヒントに満ちているので、ぜひ参照してほしい。



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