印南敦史のクラシック・コラム「クラシック音楽の穴」。ここで明らかにしようとしているのは、文字どおりクラシック音楽の「知られざる穴」。クラシックにはなにかと高尚なイメージがあって、それが「とっつきにくさ」につながっていたりもします。しかし実際には、そんなクラシック音楽にも“穴”というべきズッコケポイントがあるもの。そこでここでは、クラシック音楽の「笑える話」「信じられないエピソード」をご紹介することによって、ハードルを下げてしまおうと考えているわけです。そうすれば、好奇心も高まるかもしれませんからね。だからこそ肩の力を抜き、リラックスしてお読みいただければと思います。
38セントしか遺産を残さなかった作曲家がいる
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スティーブン・フォスター
もちろん僕も人間ですから、それなりに欲はあります。欲しいものもいくつかあるし、それらを手に入れるためにはお金が必要だということもわかっています。
しかし、お金に執着しすぎるのもどうかと思うんですよね。
端的にいえば、いちばん大切なのは家族と楽しく過ごすこと。僕にとってそれ以上の価値があるものはないので、もしも「お金はあるけど家庭は崩壊」なんて状態だったら、まったく意味のないことだなぁと思ってしまうのです。
あと重要なのは、いつか僕が死んだとき、家族が路頭に迷うことがないようにしておくことかな。そのためには蓄えを残さなければならないわけで、なかなか大変ではあるのですけれど。
さて、今回ご登場いただくのは、スティーブン・フォスターです。「アメリカ民謡の父」といわれている彼は、厳密にいえばクラシックの作曲家ではないとも考えられます。が、器楽曲なども残しているので、そこはあえて視野を広く持とうということで。
それに上記の「蓄え」について考えると、彼のことを思い出さずにはいられないのです。
フォスターは1826年7月4日、アイルランド移民の曽祖父の家系を引く裕福な家庭に生まれました。ちなみに10人きょうだいの末っ子です。
音楽的な環境にも恵まれていたようで、専門的な音楽教育こそ受けてこなかったものの、幼少期から横笛、ギター、クラリネットなど複数の楽器を修得。16歳のときには初めて作曲もしています。
とはいえ作曲家を仕事にしていたわけではなく、当初は兄の経営する蒸気船開運会社で簿記係として働いていたといいます。
なお、会社があったオハイオ州シンシナティには、南部の黒人音楽や荷揚げ作業人夫の労働歌があふれていました。彼はそんな環境に触発され、やがて代表曲の「おおスザンナ」を作曲。これが1848~49年のカリフォルニア・ゴールドラッシュの賛歌となり、高く評価されることになったのでした。
フォスターは「ミンストレルショー」の影響を受けており、そんななかから生まれた「オールド・ブラック・ジョー」などの楽曲も支持されました。ご存知の方も多いと思いますが、ミンストレルショーとは、白人が黒人の真似をして顔を黒く塗って歌うショーのこと。いまの時代では考えられない差別表現であったわけですが、おそらくフォスターの場合は、純粋に黒人霊歌に感化されていたのではないかと思います(推論ですけれど)。
いずれにしても彼は売れっ子になり、ニューヨークに移住して次々と作曲をすることに。私生活では医師の娘であるジェーンと結婚もし、娘も生まれました。
とだけ書くと、いかにも順風満帆であったように思われるかもしれませんが、実はそうではありません。1855年に両親が、翌年に兄も亡くなったことがきっかけとなって、多額の借金を背負うことになったのです。
当初は出版社に先払いしてもらうなどして糊口をしのいでいたものの、最終的には自分の楽曲をすべて売却せざるを得ないという事態に。
200曲もの楽曲を残したにも関わらず、そのようなことになったことには理由があります。当時は作曲家の地位こそ認知されていたものの、音楽著作権法も存在せず、出版社から支払われる印税も少額だったのです。
人気の作曲家だった彼の楽曲は多くの出版社から出版され、ときには同じ曲が複数の出版社から出版されることもあったといいます。ところが本人には、ほとんどお金は支払われなかったのだとか。
たとえば「おおスザンナ」の楽譜は、3年間に16社から30種類も出版されたそうですが、本人に渡ったお金はたったの10ドルというのですからひどい話。
しかも本人はお金に無頓着だったため、家庭は崩壊して妻子が離れていくことに。そんなこともあって追い詰められたフォスターは、孤独感のなかで酒に溺れていきます。
ボロ家の地下室に暮らし、近隣のレストランから料理を分けてもらっていたというほどの窮状。そしてついに1964年1月10日に、滞在中だったマンハッタンのノース・アメリカン・ホテルの一室で、頭部と頸部から大量出血しているところを発見されます。
数日前から発熱していたため、起き上がって洗面台の前で平衡感覚を失って転倒し、鏡の破片で頚動脈を切断。それが原因で、命を落としたのです。
しかも悲しいのは、残されていたお金がわずか38セントのコインだけだったこと。“dear friends and gentle hearts(親愛なる友人とやさしい心)”と書かれたメモも見つかったそうですが、いずれにしても「アメリカ民謡の父」の最期としては悲しすぎる気がします。
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印南敦史 プロフィール
印南敦史(いんなみ・あつし)
東京出身。作家、書評家、音楽評論家。各種メディアに、月間50本以上の書評を執筆。新刊は、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)。他にもベストセラー『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)をはじめ著書多数。音楽評論家としては、ヒップホップなどのブラック・ミュージックからクラシックまでを幅広くフォローする異色の存在。
◆ブログ「印南敦史の、おもに立ち食いそば」
◆連載「印南敦史の 名盤はハイレゾで聴く」