YMOハイレゾ第4弾インタヴュー! ブロードキャスター、ピーター・バラカンが語るYMOの歌詞作り

2019/08/28
アルファレコード時代のYMO作品が、名匠ボブ・ラディックによる最新リマスタリングで甦る−−−結成40周年記念の一大リイシュー・プロジェクトもいよいよ大詰め。第4弾のハイレゾ音源は『浮気なぼくら』『浮気なぼくらインストゥルメンタル』『サーヴィス』、そしてライヴ・アルバム『アフター・サーヴィス』の4タイトル。e-onkyo musicでは、松武秀樹さん、飯尾芳史さんに続き、YMOの歌詞制作に貢献したブロードキャスターのピーター・バラカンさんをお迎えし、歌詞作りからレコーディングの様子などを振り返っていただきました。取材は、東京・秋葉原の老舗オーディオ店「DYNAMIC AUDIO 5555」の4階にて、国内外のハイエンドなオーディオ・システムでハイレゾの最新リマスターを試聴しながら行いました。

文・取材◎山本 昇 写真◎山本 昇、e-onkyo music 協力◎DYNAMIC AUDIO 5555

 

 


■出会いのきっかけは坂本龍一のソロ楽曲

 

--ピーター・バラカンさんはYMOとの関わりの中で、その歌詞、とりわけ英語詞の部分で大きく貢献されました。作詞に協力されるようになったのはどんなきっかけだったのか。そのあたりからお話をお聞かせください。

 

バラカン もう何度もお話ししていることではありますが、僕はかつて吉祥寺に住んでいて、よく足を運んだ輸入レコード店に芽瑠璃堂がありました。ほぼ毎週通っていましたね。やがてそこの店員だった後藤美孝さんと仲良くなって、ときどきご飯を一緒に食べに行ったりしたものです。彼はその後、芽瑠璃堂を辞めてやはり吉祥寺にジョージアというレコード店を開くんですが、その頃は僕が吉祥寺から目黒に引っ越したので、後藤さんとはしばらくご無沙汰していました。後藤さんは1979年に、パス・レコードというパンクの専門レーベルを起こします。1980年の春頃だったでしょうか、久々に後藤さんから電話が来て、「僕の友だちがレコードを作っているんだけど、その中に英語の歌詞が必要なのが1曲あるから、ちょっと手伝ってもらえない?」と言われたんです。もちろん、「ああ、いいよ」って軽く返事をして(笑)。その友達というのが坂本龍一で、作っているのが彼の『B-2 UNIT』というソロ・アルバムであることは後になって知りました。

 

--その頃はもう、YMOブームが社会現象になっていた時期ですね。

 

バラカン そうですね。でも僕は、『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』(1979年9月)が大ヒットしているにもかかわらず、坂本龍一という名前を知らなかったんです(笑)。イエロー・マジック・オーケストラというグループのことはもちろん知っていました。でも、初期のYMOはあまり好きではなかったんです。いわゆるhypeというか、宣伝の仕方にちょっと胡散臭さを感じて、ネガティヴなイメージがあったんですよ。だから、相手がYMOのメンバーだと知っていたら、もしかしたら断っていたかもしれません。ただ、細野晴臣のソロ・アルバムはいくつか聴いていて、彼に対しては肯定的な印象を持っていました。

 

--坂本さんとはどのように対面されたのですか。

 

バラカン 当時、僕はシンコーミュージックに勤めていたのですが、僕のロンドンへの出張と、後藤さんとその友人が同じ飛行機でロンドンのスタジオに向かう飛行機がたまたま同じ便だったんです。そこで初めて紹介されたのが教授(坂本龍一)だった……と、何度も伝えてきたのですが、実はつい先日、後藤さんから連絡がありました。彼は『B-2 UNIT』のことで取材を受けた際に僕が話す内容を見て、記憶が違うことを教えてくれました。どうやら、一緒に行くことになっていたのは僕と後藤さんの二人で、教授は別行動でロンドンに入ることになっていたと。でも、何かの都合で教授の到着が1週間遅れてしまったと言うのです。記憶というものは時に、事実とちょっと狂ってしまうものですね。

 

--では、皆さんが合流したのはロンドンだったわけですね。

 

バラカン それぞれに目的があったから、ロンドンでは別行動でしたが、一つだけ行動を共にしたのは、デニス・ボーヴェルの新しいスタジオにみんなで寄ったときです。おそらく教授に初めて会ったのはそこだろうと思います。そのスタジオはまだ完成していなくて、機材も完全には揃っていなかったと思います。地下のスタジオで、壁もまだコンクリートが剥き出しで。関係者ではないけど、僕もデニス・ボーヴェルに挨拶したことは覚えています。

 ロンドンには1週間ほど滞在する予定で、その間に日本語の歌詞をもらうことになっていましたが、結局彼らから連絡はなく、僕は日本に戻りました。そうしたら、会社にテレックスでメッセージが流れてきました。テレックスはアルファベットしか打てませんから、日本語の部分はローマ字になっていたはずです。そのタイトルは「Thatness and Thereness」という、ちょっと変わった曲でした。確か、心理学用語じゃなかったかな。英語の部分もけっこうあって、それが英語として正しいかどうかを判断したり、それにちょっと言葉を追加して発展させたりもしたと思います。そのようにして、やるべきことをやり、テレックスで送り返しました。その時点では曲も聴いていないから、僕はLPになって初めて聴いたわけですね。

 

--作品化された歌詞は、送られたものと同じでしたか。

 

バラカン ほとんど同じだったと思います。印刷された歌詞を見て、「ああ、これね」と思った記憶がありますから(笑)。まぁ、このときは、友達から頼まれた、ちょっとした仕事が完了したという感じで。僕もすでに日本に慣れていたから、ギャラのことも聞いてないし(笑)。

 

--確かにこの業界は、そのあたりが不明な仕事も多いですよね(笑)。

 

バラカン 日本に来たばかりの頃は、洋楽のレコードの歌詞の聴き取りもよくやっていたんです。というのも、僕が来日した1974年は、日本でブルーズがブームになりつつあったんです。レコード会社も各社、そういうレコードをたくさん出していました。普通のポップやロックの曲の聴き取りをしていた人たちには、ブルーズの歌詞は南部訛りがきついし、独特のスラングもいっぱい出てくるから聴き取りにくかったんだと思います。僕は15歳くらいからブルーズを聴きまくっていたから、ほとんどの曲は聴き取れましたね。初めて依頼してくれたのは、ブルーズのレコードでライナーノーツをよく書いていた神崎浩さんという方だったのですが、一度やってみたら、あっという間に各社から頼まれるようになって。でもそのとき、誰もギャラのことを口にしないんです。最初は不思議だなと思ったんだけど(笑)、まぁ、でもそのうち払ってくれるんだろうし、日本ではこういう感じなんだなと分かってきた。だから、後藤さんに仕事を頼まれたときも、ギャラがいくらか聞くという発想すらなかったんです。

 

--なるほど。では、70年代のブルースのレコードには、バラカンさんの対訳がたくさん載っているわけですね。

 

バラカン そうですね。ヴィヴィド・サウンドやPヴァインも当初からそういうレコードを出していて、初期のものはほとんど僕がやっていたと思います。

 

--日本のブルース界にも大きく貢献されたバラカンさんです。

 

バラカン いやいや(笑)、脱線でした。

 

--「Thatness and Thereness」のギャラがいくらだったかはさておき、その後、バラカンさんはあのお三方に接近することになるわけですね。

 

バラカン そうなんです。しばらくして、教授のマネジャーだったヨロシタ・ミュージックの大蔵博さんから電話があって、例のギャラの話もあるから、「一度会いましょう」と。六本木のパブ・カーディナルというお店で落ち合いました。ギャラの話は1分もかからないくらいで終わり(笑)。そこで大蔵さんは「ところで、もう一つご相談あります。うちの事務所で働く気はありませんか」と。先ほどもお話ししたとおり、僕は初期のYMOには全然興味がなかったんです。でも、ちょうどその頃、YMOは『増殖』という10インチ盤のアルバムを出していて、このレコードはけっこう気に入っていたんです。スネークマン・ショウも面白かったし、曲の雰囲気も最初の2枚とは違う。YMOは意外に面白いバンドなのかもしれないと思い始めていたところだったんです。それでちょっと、「なるほど。そうかそうか」と思って(笑)。

 事務所にはほかにも矢野顕子や大村憲司のほか、僕が好きなスタジオ・ミュージシャンも所属していました。ポンタ(村上秀一)や浜口茂外也もその周辺にいたはずです。そういう面白いミュージシャンが関わっている会社だったら良さそうだなと思いました。僕のほうはすでにシンコーミュージックを離れることになっていましたから、絶好のタイミングでもあったんですね。その場で「分かりました。いいですよ」と、わりと軽い気持ちでお受けしました(笑)。

 

YMOとの共同作業の様子を楽しげに語ってくれたピーター・バラカンさん

■YMOの歌詞作りに大きく貢献

 

--ヨロシタ・ミュージックでの初仕事のことは覚えていますか。

 

バラカン ヨロシタ・ミュージックに入社したのは1980年の暮れ。時期的にはちょうどYMOの2回目の海外ツアーが終わった頃で、12月に行われた日本武道館での凱旋コンサートをサポートした記憶があります。事務所での初仕事は、ジャパンの『Gentlemen Take Polaroids』(邦題:『孤独な影』1980年)に収録されている「Taking Islands In Africa」という坂本龍一とデイヴィッド・シルヴィアンの共作曲の共同出版契約書を作るというものでした。

 そもそも、僕がヨロシタ・ミュージックに雇われたのは、音楽の著作権管理を行うことでした。シンコーミュージックでもそうした仕事を担当し、主に洋楽の権利を取得して、日本で管理したり、展開させたりしていました。でも、この仕事はなかなか満足できるものではありませんでした。というのも、僕が好きな洋楽は日本で売れなくて、日本でよく売れる洋楽には僕の好みのものはほとんどないことはすぐに分かったから、この仕事はちょっと無理があるなと感じていたんです。そんなとき、ヨロシタ・ミュージックの大蔵さんからは、逆のことをやってみないかと誘われたんです。つまり、YMOのメンバーや矢野顕子らが作った曲の権利を、ヨーロッパをはじめ海外で展開する仕事に携わってほしいと。本当はそういう仕事がメインになるはずだったわけです。

 

--そうした中、YMOの作詞のお手伝いもされるようになるわけですね。

 

バラカン YMOは『増殖』まではイギリス人で詩人のクリス・モズデルが作った詩を歌詞として採用していました。この頃には、YMOのメンバーは自分たちで作った歌詞で歌いたいと思うようになっていましたが、英語の歌詞は作れないから、彼らが作った日本語の歌詞を英語に置き換えなければなりません。そこへタイミングよく僕が事務所の社員になったものだから、「ちょうどいい。君がやりなさい」という流れになってしまいました(笑)。僕は作詞家志望でもないので最初は固辞したんですが、「いや、やればできる!」と言われて(笑)。半ば強制的に歌詞作りをお手伝いすることになりました。

 

--その頃、YMO作品以外で作詞に携わったものはありましたか。

 

バラカン 大村憲司のアルバム『春がいっぱい』(1981年)の「The Defector」を担当しましたが、彼はけっこう英語ができる人でしたから、僕はそんなに難しいことをする必要はなかったと記憶しています。彼は発音もちゃんとしていましたね。

 

--そして、バラカンさんはYMOのアルバムでは『BGM』から作詞者としてクレジットされようになります。

 

バラカン もちろん、著作権関係の仕事もやりながらではありましたけど(笑)。当時のYMOは、ほとんどスタジオの中で曲を作るというスタイルでした。ドラムの音が決まるのに、2日くらいかかったりするから、当事者でなければ退屈なんです。レコーディング・スタジオは音楽好きなら誰でも面白い場所ですが、2~3時間ずっとドラムの音決めばかりではさすがに飽きてしまいます。もっとも、僕が必要とされるのは録音期間の後のほうです。歌詞が出来るのはいちばんあとでしたから。

 『BGM』でよく覚えているのは、発売日の1ヵ月前あたりのこと。印刷の締め切りが来ているのに、曲のタイトルが何も決まっていなかったんです。なんとかメンバーの3人にタイトルを決めてもらって、ジャケットに印刷するために、クレジット関係も含めて僕が全てタイプライターで打ちました。まだパソコンもない時代ですからね。ご存知のように『BGM』には歌詞カードが付いていません。それはもちろん、間に合わなかったから(笑)。結局、歌詞はYMOの写真集『OMIYAGE』に掲載されましたね。まさに異例の事態(笑)。彼らが日本語で作りかけていたものを僕が急いで英語に訳し、ヴォーカルのレコーディングでは発音指導もしましたからけっこう大変でした。

 

 

--バラカンさんから見て、お三方の英語の発音はどうでしたか。

 

バラカン 3人とも、それぞれ洋楽をよく聴いていたから、英語の発音が全くできないわけではありませんでした。いちばん上手いのは誰だったかな……。細野さんはそこそこ。幸宏もそこそこだけど、ちょっとクセがありました。そこは僕が指導させてもらってかなり修正しましたけど。英単語の母音をローマ字感覚で見てしまうクセは多くの日本人に見られます。例えば、溺れるという意味のDrownは“ドラウン”と発音しますが、これを“ドロウン”と言ってしまう人は多いんですよ。同じく、雲の意味のCloudも“クラウド”なのに“クロウド”と発音してしまう。そこは何度も何度も、それこそ何10回も練習して、なんとか英語らしく聞こえるように歌ってもらいました。

 

--ワールドワイドな展開のため、心を鬼にして……。

 

バラカン まぁ、大げさに言えばそういうことですね。世界でレコードを出すからには、それくらいはやったほうがいいと思いましたから、徹底的に指導させてもらいました。きっと、いまでも幸宏は僕のことを「あいつは厳しい」と言いますよ(笑)。発音でいちばん苦労したのは教授だったかな。いまはもうニューヨークにずっと住んでいるから、だいぶよくなりましたけど。

 

--『BGM』と『テクノデリック』で、歌詞作りで印象的だったのはどの曲でしょうか。

 

バラカン そうですね。1981年の3月に発売された『BGM』に「ラップ現象」という曲が入っています。当時、“ラップ”はそれこそまだ大きな現象にはなっていませんでした。ヒップホップという言葉もまだ一般的ではない時代です。グランドマスター・フラッシュの「ザ・メッセージ」が発売されたのも1982年です。ラップを取り入れたブロンディの「ラプチャー」を収録した『オートアメリカン』が出たのは意外に早くて1980年、トムトム・クラブの『Wordy Rappinghood』(邦題:おしゃべり魔女)は1981年の発売ですね。それらとほぼ同時進行で、細野さんがすごく早くラップをやっています。もっとも、この曲で歌われている“ラップ”は心霊現象のこと。ドアをトントンとノックすることもrapと言いますけど、それと言葉のラップをかけているわけですね。それに合わせて、僕もラップ調の歌詞を作っているんですが、意外に上手く出来たかなと思っています。

 『BGM』では「キュー」も好きですね。この曲の歌詞には一部、早口になるところがあります。メロディは決まっていて、そこに上手く歌詞をはめることができるか、また、はまったとしても、歌ってもらえるかも心配だったんです。でも、歌詞はちゃんと作れたし、しっかり歌ってもらうこともできたので、これは上手くいったなと思いました。『BGM』でのその2曲が特に印象に残っています。

 『テクノデリック』は、まぁ、「ジャム」ですね。あと、「灰色の段階」もすごく好きだな。曲としては「体操」も面白い(笑)。この3曲が好きですね。ちなみに、“ジャム”にはイギリスのスラングで“まぐれ”という意味があります。幸宏のソロ・アルバムを2枚、ロンドンのエア・スタジオで録っていますけど、そのエンジニアのスティーヴ・ナイがよく「ピュア・ジャム」と言っていました。エア・スタジオにはビリヤードがあって、気分転換によくやっていたんです。みんなそんなに上手くないんだけど、何かの拍子に二つの玉がそれぞれ違うポケットに入ると、それは完全にまぐれだから、スティーヴはそう言うわけですね。幸宏はその表現を気に入っていたんです。歌詞の内容はファンの方はご存知かも知れませんが、アルファレコードがあったビルの1階にあった喫茶店BUN(バン)から出前してもらったトーストのことです。そのトーストというのが日本特有の厚焼きのもので、それが銀紙に包まれて、ジャムと一緒に運ばれてきたんです。その銀紙を開いたときに、「こんな醜いトーストは生まれて初めて見た」ということを、僕は確かに言ったと思うけど、幸宏がこれにウケちゃって。それでこんな歌詞になってしまいました。いわゆるインサイド・ジョークのようなもので、公には何の意味もない内輪ウケのギャグみたいなものにすぎません。でも、この曲の妙にビートルズっぽいメロディと編曲に、そういうわけの分からない歌詞が妙に合っていて、いまでも懐かしく思い出しながら楽しく聴くことができます。

 

−−その「ジャム」に出てくるトランシーバー風の声はバラカンさんですか。

 

バラカン はい、そうだったと思います(笑)。

 

■YMOのハイレゾ音源をハイエンド・システムで試聴!

 

−−では、ここからはDYNAMIC AUDIO 5555の素敵なオーディオ・システムでYMOのハイレゾ音源を試聴しながら、さらにお話を伺いたいと思います。

 

〈「ラップ現象」を試聴〉

 

バラカン うーん、いま聴くと何言っているか分からないところもあるね。記憶ではもう少し上手く出来ていたように思ったけど……。トラックは面白いけどね。1981年の音楽としてはかなり斬新だったと思いますね。

 

--そして、1983年にはアルバム『浮気なぼくら』がリリースされます。

 

バラカン あのレコードは歌詞も日本語だったから、僕はほとんど関わっていないと思います。不思議なもので、歌詞が日本語だとメロディも歌謡曲になってしまうんだと、すごく驚きました。彼らはよくアイドル歌手にも曲を提供していたから、日本語の歌詞の曲も作ってはいたけど、YMOとしてこれをやるとこんなアルバムになるのかと、僕にはちょっと違和感がありましたね。

 

DYNAMIC AUDIO 5555(4階)のハイエンドなオーディオ・システムを試聴中

--では、『浮気なぼくら』からバラカンさんが関わった「FOCUS」と「OPENED MY EYES」を聴いてみましょう。

 

〈「FOCUS」を試聴〉

 

バラカン このアルバムは作っているときのことをほとんど覚えていないんですよね。英語部分の歌詞には僕も関わっているはずだけど、たぶん発音指導はしていないんじゃないかと思います。

 

〈「OPENED MY EYES」を試聴〉

 

バラカン この曲はなんとなく覚えています。わりとポップな曲で、このアルバムの中では目立つかもしれないね。

 

--続いてのアルバムが……。

 

バラカン (小声で)恐怖の『サーヴィス』。いや、いいアルバムなんですけど、作っているときは地獄でした(笑)。

 

--では、いかに地獄だったのかを振り返っていただけますでしょうか。

 

バラカン 先ほど、『BGM』ではレコードに歌詞カードを載せられないほど時間がなかったというお話をしたように、YMOのアルバムは歌詞がいちばん後回しになりがちで、毎回同じような進行だったのですが、この『サーヴィス』に至っては本当にギリギリで……。だってね、曲のミックスをスタジオでやっているんですよ。それと並行して、ラフ・ミックスのカセットを僕がスタジオのロビーでヘッドフォンで聴きながら、彼らからもらった日本語の歌詞を英語に訳していたんです。もう一度言いますが、スタジオの中ではミックスをしているんですよ(笑)。で、歌詞が出来上がるとスタジオに持ち込んで、そのまま歌ってもらい、ヴォーカルを録音したらミックスの中にはめて、ミックス・ダウンが完了。それくらいの時間のなさだから、発音指導する余裕もほとんどありません。『サーヴィス』のレコーディングは、そんな感じでやっていました。僕としても、歌詞は大事だと思っていたし、もう少し時間をかけて作りたかったから、その意味では不本意な気持ちでしたね。

 

−−その『サーヴィス』では「SEE-THROUGH」で、バラカンさんが単独で作詞されていますね。

 

バラカン それはたぶん、3人のうちの誰かが、元になる日本語の歌詞を作ることができなかったからでしょう。時間のない中、とにかくもう1曲作らなければならなくなったけど歌詞がない。そこで、「君が書きなさい」ということになったんだと思います(笑)。そんな流れで作ったのが「SEE-THROUGH」ですね。

 

−−お三方との歌詞作りは、通常はどのように行われていたのでしょうか。

 

バラカン いわゆる共作になるのは幸宏でした。彼は、日本語で作りながらも、それが英語に訳されることを念頭に置いていました。だから、日本語としては逆に不自然だったかもしれません。ちょっと英語的な表現を使うこともありました。僕としては作業がしやすかったですね。細野さんは、部分的に英語の言葉を使っていましたが、意図ははっきりしていました。僕がそれらを含めて、上手くメロディに乗るような英語にしていきました。教授の歌詞は、ポップス・ソングからかけ離れたものが多かったですね。どちらかというと抽象的な歌詞が多かったと思います。

 

−−抽象的な歌詞を英語にするのも大変だったのでは?

 

バラカン 普通の歌詞として訳すことはできませんから、その抽象性を残したまま、ある意味機械的に訳すというか。その際に、「この部分はこういうメロディにはめたい」と言われたらまたひと工夫加えるとか、そういうキャッチボールがあったような記憶があります。英語の歌として、最も普通に作業したのは幸宏の曲でしたね。

 

−−では、『サーヴィス』もハイレゾで聴いてみましょう。曲は何にしましょうか。

 

バラカン このアルバムの中では細野さんの「THE MADMEN」がかなり好きですね。曲として上手くまとまっている感じがするんです。幸宏の「CHINESE WHISPERS」もわりと好きです。

 

〈「THE MADMEN」を試聴〉

 

バラカン 時代を先取りしていますね。1983年当時のYMOは、なかなか海外で聴いてもらえませんでした。僕は事務所の仕事としてYMOやソロの音源をヨーロッパの音楽出版社やレコード会社に売り込んでいましたが、思うようにはいきませんでした。幸宏のソロ・アルバムのレコーディングでロンドンに行くと、向こうの雑誌のインタヴューを受けることがありましたが、ライターの人たちはYMOのレコードを聴いても、この感覚の良さを分かってくれないんですよ。冷たいと言われたりして。いま聴くとすごく格好いいんだけどね。このところ、海外でもYMOが遅ればせながら注目の対象になっているのも分かる気がします。

 

 

−−この時期、バラカンさんはどんな洋楽を聴いていましたか。

 

バラカン 1983年頃というと、意外に思い出しにくいね。まだニュー・ウェーヴの時期でもあって、いわゆる名盤はそれほど出ていないんじゃないかな。1980年代前半の自分の年間ベストを見てみると、アルバムではなくシングルをよく選んでいるんです。半分くらいはそうですね。つまり、この時期は個人的には曲単位で聴いていたようですね。ラジオの仕事を始めていたことが関係しているのかもしれません。あのときは矢野顕子と「スタジオ・テクノポリス 27」という番組をやっていて、毎週収録があったんですが、その選曲は僕もけっこうやっていたから、ラジオを意識して音楽を聴くことも多かったんだと思います。ファン・ボイ・スリーやトーキング・ヘッズあたりをかけていたのを思い出しますね。70年代から聴いていたロックのレコードも買っていましたし、そういう新しいものもよく聴いていました。一方で、アフリカ・バンバータやRun-D.M.C.が出てきて、ヒップホップがぼちぼち形になりつつある頃でもあります。

 ただ、この頃に聴いていたものを、いまはほとんど聴くことがありません。70年代に好きだったものはいまでもよく聴きますけれど。そして、1980年代の後半のベストを振り返ってみると、今度はCDの時代を反映させたものになっています。60年代の古い作品の復刻を年間ベストに選んでいたり。80年代の音楽は僕の感覚にはあまり響かなかったことが多かったのかもしれませんね。

 

−−では、『サーヴィス』から「SEE-THROUGH」を聴いてみましょう。

 

〈「SEE-THROUGH」を試聴〉

 

バラカン うん、いま聴くとずいぶんシニカルな感じの曲ですね。別にそういう心境ではなかったと思うけど。それにしても、やっぱりもう少し時間をかけて作りたかったかな。

 

−−その次は散開コンサートを収めたライヴ・アルバム『アフター・サーヴィス』です。このツアーに参加したゲスト・ミュージシャンのドラマー、デイヴッィド・パーマーを呼び込む際のMCの声はバラカンさんではなかったでしょうか。

 

バラカン そうでしたかねぇ……覚えていませんが、ありがちなことではありますね。このライヴでは、3人のイギリスの女性ダンサーが出てくる演出があったんですが、彼女たちは日本語ができないから僕がサポートしなければならなかったような気がします。

 

−−では、『アフター・サーヴィス』も何か聴いてみましょう。

 

バラカン では、「You've Got To Help Yourself/以心電信」を聴きましょうか。

 

〈「You've Got To Help Yourself/以心電信」を試聴〉

 

バラカン なるほど。いま聴きながら思い出したんだけど、このライヴはけっこうテープを使っていて、わりと簡単なところしか弾いていないんじゃなかったかな。スタッフとしてそれを見て、もうちょっと難しいところも演奏していいのではと思っていました。

 

−−まぁしかし、どの曲もライヴ向けのアレンジがきれいで、そのあたりはさすがだなと思います。ところで、バラカンさんはヨロシタ・ミュージックには何年頃までいらっしゃったのでしょうか。

 

バラカン 1986年の夏頃までいました。YMOは1983年に散開して、細野さんと幸宏は別の事務所を作って離れました。ヨロシタ・ミュージックに残った教授と、姉妹会社のヤノ・ミュージックにいた矢野顕子。この二人の仕事を僕は続けていました。でも、細野さんと幸宏のソロ・アルバムもちょっとだけ手伝ったかもしれません。その頃、細野さんはジャイルズ・デュークという作詞のパートナーを見つけていましたね。僕は僕で、1984年からテレビ番組「ザ・ポッパーズMTV」に出るようになると、いろんな話が舞い込んで来て、だんだん事務所以外の仕事が多くなりました。

 



■あの頃の東京の活気とYMOの影響力

 

−−YMOとの関わりということでは、アルバムで言えば『BGM』から『アフター・サーヴィス』までということですね。この頃をいま振り返ると、どんな感慨がありますか。

 

バラカン 1981年から1983年頃というと、東京がものすごく活気に溢れた時期でしたよね。その活気にYMOは深く関係していたようにも思います。僕が関わるようになった頃には彼らはすでに大スターになっていて、売上のピークは過ぎていたかもしれないけど影響力は絶大なものがありました。彼らに憧れる若いミュージシャンも次々と現れましたよね。それまでは型破りな人はそれほどいない印象でしたが、聴いたこともないような非常に変わった音楽を作る若者たちが突然、どこからともなく出てくるような時期だったんです。

 

−−新しいアーティストの活動というと、1982年にはYENレーベルが発足しますが、これにはバラカンさんも関わっていましたか。

 

バラカン YENレーベルでは、テストパターンの作詞を手伝ったり、少し関わっていたようです。数年前、アメリカのポートランドでレコード店を営んでいる人からFacebookか何かで連絡があって、「テストパターンの『Après-Midi』というLPを探しているんだけど、どこか買えるところがあったら教えてもらえませんか」って言うんです。「それは分からないけど、どうして僕に尋ねるんですか」って聞いたら、「あなたの名前がクレジットされているみたいだから」って(笑)。じゃあ、うちにもレコードがあるはずだと思って探したんですけど、なかったんですよね。でも、いまは海外でもそういうレアなレコードを掘る人がけっこういて、YMOも気に入ると次々と探すんですよね。それを買いに、わざわざ日本にまで来る人がいるくらいだから。

 

−−YMOとその周辺を世界につなぐことに、バラカンさんが大きく貢献されたのは間違いありません。

 

バラカン いやいや、それほどでもありませんが(笑)、海外のリスナーにとっては英語の歌詞があるとちょっと身近に感じるものです。その部分では少しはお役に立てたかもしれませんね。

 

−−バラカンさんにとって、YMOプロダクトへの参加はどういうものとして記憶されていますか。

 

バラカン もちろん、楽しかったです。『BGM』は確かに三人の人間関係が大変だったけど、『テクノデリック』は楽しいアルバムでした。『サーヴィス』も時間的な苦しさはあったけれど、アルバム作りそのものはやっぱり楽しかったです。スタジオでの作業をはじめ、僕にとってもいろいろ勉強になった時期でした。幸宏のソロ・アルバムで海外レコーディングに同行できたのも大きな経験だったし、YMOでなければできないことがいっぱいありましたね。いまでも思い出深い、いい時期でした。

 

−−ありがとうございます。ところで、バラカンさんがキュレーションを務める音楽フェス「PETER BARAKAN'S LIVE MAGIC!」が今年も、10月の19日と20日に東京の恵比寿ガーデンプレイスで開催されますね。このフェスには過去に細野さんや幸宏さんも出演されています。

 

バラカン 「LIVE MAGIC!」には、それほど知られてはいなくても、ほかのフェスでは聴けないような素晴らしいミュージシャンたちに出会えます。音楽のクオリティは僕がすべて保証します。つまらないミュージシャンを選んだことはありません。今年も多彩なミュージシャンがたくさんやって来ますが、日本のミュージシャンでは細野さんとも縁のある小坂忠が出演します。バックは鈴木茂、小原礼、林立夫という彼らが高校時代に結成した幻のグループ“SKYE”(スカイ)の三人にDr.kyOnが加わり、さらにゲストで桑名晴子も参加します。そして、同じく日本人ではシーナ&ロケッツも出ます。

 「LIVE MAGIC!」は大人が落ち着いて音楽を楽しめる音楽祭です。“FOOD MAGIC!”で提供するフードやドリンクも充実していて、どれも美味しいですよ。Spotifyには今回の参加ミュージシャンのプレイリストもありますので、これを聴いていいなと思ったらぜひ来てください。

 

−−さて、今日はDYNAMIC AUDIO 5555の4階で、ハイレゾ音源をハイエンド・オーディオで試聴いただきました。音の印象はいかがでしたか。

 

バラカン 触ることも躊躇するような高価な機材に囲まれて、さすがに一瞬緊張しましたが、35年以上前のYMOの音源を試聴して、録音のクオリティに改めて感心しました。良くも悪くも「80年代の音」というところがありますが、それもすべて如実に耳に届くので、内心ドキドキしながら聴いていました。

 

−−今日は楽しいお話をたくさんいただき、ありがとうございました。

 

試聴システム

パワー・アンプ:Accuphase A250

プリ・アンプ:Accuphase C3850

スピーカー:B&W 800D3

ネットワーク・トランスポート:ESOTERIC N-03T

アップ・サンプラー:CHORD BluMK2

D/A コンバーター:CHORD DAVE

ミュージック・サーバー:DELA HA-N1AH20/2

 

プロフィール◎Peter Barakan

1951年8月20日、ロンドン生まれ。1973年、ロンドン大学日本語学科卒業。1974年に来日し、シンコーミュージック国際部入社。著作権関係の仕事に従事する。1980年、同退社。このころから執筆活動、ラジオ番組への出演などを開始。また1980年から1986年までイエロー・マジック・オーケストラ、後に個々のメンバーの海外コーディネーションを担当。1984年、TBS-TV「ザ・ポッパーズMTV」というミュージック・ヴィデオ番組の司会を担当、以降3年半続く。1988年、10月からTBS-TV で「CBSドキュメント」(アメリカCBS制作番組60 Minutesを主な素材とする、社会問題を扱ったドキュメンタリー番組)の司会を担当。音楽番組以外では初めてのレギュラー番組。2010年4月からTBS系列のニュース専門チャンネル「ニュースバード」に移籍、番組名も「CBS 60ミニッツ」に変更。(2014年3月終了)。1986年から完全に独立し、放送番組の制作、出演を中心に活動中。現在担当するラジオ/テレビ番組は「Barakan Beat」(InterFM)、「Weekend Sunshine」(NHK-FM)、「Japanology Plus」(NHK BS-1)など。また、Webメディア「A Taste of Music」などでもメッセージを発信している。著書に『魂(ソウル)のゆくえ』、『ロックの英詞を読む―世界を変える歌』など。


<YMO過去記事一覧>
・YMOハイレゾ第1弾発売記念!TECHNOBOYS PULCRAFT GREEN-FUND ハイレゾ版YMO試聴座談会
・YMOハイレゾ第2弾発売記念インタビュー! シンセサイザー・プログラマー松武秀樹が語るYMOの音作り
・YMOハイレゾ第3弾発売記念インタビュー! エンジニア飯尾芳史に聞くYMOのレコーディング

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