印南敦史のクラシック・コラム「クラシック音楽の穴」。ここで明らかにしようとしているのは、文字どおりクラシック音楽の「知られざる穴」。クラシックにはなにかと高尚なイメージがあって、それが「とっつきにくさ」につながっていたりもします。しかし実際には、そんなクラシック音楽にも“穴”というべきズッコケポイントがあるもの。そこでここでは、クラシック音楽の「笑える話」「信じられないエピソード」をご紹介することによって、ハードルを下げてしまおうと考えているわけです。そうすれば、好奇心も高まるかもしれませんからね。だからこそ肩の力を抜き、リラックスしてお読みいただければと思います。
家庭の事情を仕事に持ち込んだ作曲家がいる
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リヒャルト・シュトラウス
モーツァルトの妻コンスタンツェ、チャイコフスキーの妻アントニーナ、ハイドンの妻マリアは、「音楽家の3大悪妻」と呼ばれています。
マリアについては以前書いたことがあります が、コンスタンツェには浪費癖があったとか、アントニーナも「結婚してくれなきゃ死ぬ」とチャイコフスキーに脅しをかけたとか、それぞれが散々な言われよう。
ただでさえ、夫婦関係を維持するにあたってトラブルのたぐいは避けられないものです。それをふたりで乗り越えてこその夫婦であるわけですが、芸術家の話であれば、ことさら面倒なことになってしまうのかもしれません。
しかし事実がどうであれ、そんなことが後世にまで語り継がれるとは、本人たちにとってはたまったもんじゃないですよね。
ところで悪妻と微妙なバランス感覚で向き合ってきた人物といえば、個人的にはもうひとり、リヒャルト・シュトラウスのことも思い出します。
いまさら言うまでもありませんが、スタンリー・キューブリックの映画『2001年宇宙の旅』に使われて話題となった交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』を筆頭に、『アルプス交響曲』、オペラ『町人貴族』などなど、数々の名作を残したドイツの作曲家。
後期ロマン派を代表する存在のひとりでもありますが、モーツァルトやハイドンと同じように、悪妻の尻に敷かれていた人物でもあるのです。
妻のパウリーネは、もともとシュトラウスの弟子だったソプラノ歌手。師弟関係をおよそ7年間にわたって続けた末に結婚し、ふたりは息子も授かったのでした。
とだけ聞けば、いかにも「師弟関係から発展した美しい結婚」という感じ。あたかも平和な家庭がそこにありそうです。が、実際にはそうではなかったようで。
というのもパウリーネはかなり強烈な癇癪持ちで、どこでも容赦なく感情を爆発させ、シュトラウスを罵倒しまくっていたというのです。
たとえば1901年にオペラ『火の危機』を発表した際には、その作品と作曲者であるシュトラウスを徹底的にけなしてみせたのだとか。新曲を成功させたいと願う夫にしてみれば、たまったものではありません。
しかも彼女はお金に対する執着心が強かったため、シュトラウスはいつも金欠状態だったのだといいます。そこで楽団員とトランプゲームで賭けをして、小遣い稼ぎをしていたという逸話も残っています。ただし、この話に関しては、ちょっと話が盛られているような気がするのも事実。
なぜなら、小遣い稼ぎがどうという以前に、シュトラウスはカードゲームにハマりまくっていたようだから。あるときなど、ゲームをする時間を確保するためオペラ『フィデリオ』をハイスピードで指揮したというのです。
とはいえシュトラウスが妻に不満を抱いていたことは間違いないようで、その思いは作品として残されることにもなったのでした。
1904年にニューヨークで初演された『家庭交響曲』がそれで、描写されているのはシュトラウスの家庭の情景。そう、妻への不満という「家庭の事情」を、堂々と仕事に持ち込んだのです。
第1部ではのんびりとした夫と快活な妻、叔母と叔父の人柄が映し出され、第2部では遊ぶ子どもと、その子を子守唄で寝かしつける母親の描写が。第3部では、妻と夫の時間が描かれていきます。
と書くと、なんだか穏やかな世界がそこにあるように思えますよね。ところがそうではないのです。続く第4部では、子どもの教育方針をめぐって熾烈な夫婦喧嘩が勃発するのですから。
ヒステリックなヴァイオリンを筆頭とする壮大なオーケストラが表現する緊張感は、紛うことなきクライマックスです。
やがて両者は落ち着きを取り戻し、和解して幕を閉じるのですが、そもそもこんなことを曲にしてしまうというところにも、妻に対するシュトラウスの悪意が表れているのではないでしょうか?
ちなみに『家庭交響曲』は、ニューヨークの有名なデパートである「ワナメーカー百貨店」のフロアで初演されたという説があります(カーネギー・ホールだという説もあるので断言はできませんが)。
しかし、いずれにせよこうしたエピソードを聞くと、彼が「守銭奴」などと呼ばれていたことにも妙に納得できてしまいます。そう、彼はお金に汚い人だと思われていたのです。
でも、その背後にあったのはパウリーネのお金に対する執着心だったのかもしれません。そう考えると、「守銭奴にならざる得なかったのかもしれないなぁ」と、話がきれいにまとまってしまうのです。
さて、真相はどうだったのでしょうか?
◆今週のおすすめ
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印南敦史 プロフィール
印南敦史(いんなみ・あつし)
東京出身。作家、書評家、音楽評論家。各種メディアに、月間50本以上の書評を執筆。新刊は、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)。他にもベストセラー『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)をはじめ著書多数。音楽評論家としては、ヒップホップなどのブラック・ミュージックからクラシックまでを幅広くフォローする異色の存在。
◆ブログ「印南敦史の、おもに立ち食いそば」
◆連載「印南敦史の 名盤はハイレゾで聴く」