印南敦史のクラシック・コラム「クラシック音楽の穴」。ここで明らかにしようとしているのは、文字どおりクラシック音楽の「知られざる穴」。クラシックにはなにかと高尚なイメージがあって、それが「とっつきにくさ」につながっていたりもします。しかし実際には、そんなクラシック音楽にも“穴”というべきズッコケポイントがあるもの。そこでここでは、クラシック音楽の「笑える話」「信じられないエピソード」をご紹介することによって、ハードルを下げてしまおうと考えているわけです。そうすれば、好奇心も高まるかもしれませんからね。だからこそ肩の力を抜き、リラックスしてお読みいただければと思います。
実の息子に対抗意識を持った指揮者がいる
↓
朝比奈隆
もちろん必要以上にベタベタしているわけではありませんが(そんなの気持ち悪いわ)、とはいえ息子と僕は、世間的な尺度からすれば“仲のいい親子”ということになるのかもしれません。
殴り合いの喧嘩もしましたが、基本的に反抗期のようなものはありませんでしたし、「ヒップホップ好き」という共通点があるから(それは英才教育をしてしまったからである)一緒にDJをやったりもしますし。
個人的には団塊世代あたりの方々がよしとしていた“仲よし親子”みたいな考え方には気持ち悪さを感じるので、自慢できるようなことではないという意識もあるのですけれど。
ただ、その程度のレベルならともかく、これが著名なクリエイターなどであったとしたら、親子の関係はもっと厄介なものになるんだろうなとは想像できます。
もちろん例外だってあるでしょう。しかし、たとえばロック・アーティストだとか歌手だとか、あるいは画家やタレントなど、親が絶大な社会的地位にあった場合、その子どもが親以上に成功することは現実問題として難しくもあるわけです。
それは仕方がないことですよね。場合によっては、それが親子の確執につながっていくことだってあるかもしれません。
もちろん親からしても、それは悩ましい問題ではあるはずです。子どもだからといって贔屓するわけにもいかず、ましてや才能のある子どもに嫉妬するわけにもいかないのですから。
ところがクラシックの世界に目を向けてみると、親子関係においてなかなか味わい深い立ち回りを見せた人がいるのです。
ブルックナーの名手として知られ、大阪フィルハーモニー交響楽団の音楽総監督を務めたことでも知られる指揮者の朝比奈隆がその人。
考えてみると、2001年末の逝去からはずいぶん時間が経っています。が、いまでも彼のブルックナーを聴き続けているのは、聴く側の感情を容赦なく揺さぶるような説得力がそこにあるからにほかなりません。聴くたびに、理屈ではなく心へとストレートに訴えかけてくるのです。
ですから余計に、彼が息子である朝比奈千足(ちたる)に向けた不器用すぎる感情には、とても味わい深いものを感じてしまうわけです。
それは、息子を手厚く支える一方、彼の活躍に嫉妬したという、なんだかよくわからない振る舞いなのでした。
クラリネット奏者として大阪フィルに加わった息子のことを朝比奈は歓迎しますが、彼が自分と同じ指揮者を目指しはじめ、活動を広げて行くに従い対抗心を見せるのです。
そのあたりのことは、朝比奈の生涯を追った名著『オーケストラ、それは我なり - 朝比奈隆、四つの試練』(中丸美繪著、中公文庫)に明らか。
たとえば千足がブルックナーの4番の初版版を指揮した際にも、その演奏会を聴きに来た朝比奈は「なんでそんなものやるんだ」とライバル意識を見せています。
父子が同業であると、その間にはさまざまな葛藤がある。
プロコフィエフが面白いよと千足が言うと、朝比奈が突如として演奏会にとりあげたこともある。
また、ホノルル・シンフォニーの指揮の話が来たとき、朝比奈はこれを一蹴した。朝比奈はハワイ嫌いである。中流意識で「ちゃらちゃらとした人々」が好んでいくハワイ。そんなところのオーケストラなんて、というわけである。
このとき千足は「その演奏会を僕にください」とマネージャーに積極的に申し出た。ホノルル・シンフォニーは「小澤征爾も指揮している立派な交響楽団」との認識があったからだ。結果として千足は「未完成」などを演奏して大成功をおさめた。現地の日系人たちも喜び、ふたたび招聘されることになったのである。
ところが、興味がないはずの父が今度は息子の代わりに指揮すると言い出し、千足の妻を通訳に使って、ハワイに飛んでその演奏会を指揮してしまった。(『オーケストラ、それは我なり - 朝比奈隆、四つの試練』272~273ページより)
どうです、この大指揮者とは思えないほどの子どもっぽさ。けれど、こういう人間くさいところが朝比奈の魅力でもあるわけです。
ストレートで無垢で、けれど、どこか屈折していて……。そんな危なっかしさがあるからこそ、彼は他の誰にも真似のできない“なにか”を表現できたのかもしれません。
あ、それから、『オーケストラ、それは我なり - 朝比奈隆、四つの試練』はぜひ読んでみてください。思わず朝比奈作品をコンプリートしたくなるほどおもしろい内容なので。
◆今週のおすすめ

『ブルックナー:交響曲 第8番 (ハース版) 』
朝比奈隆, 大阪フィルハーモニー交響楽団
◆バックナンバー
【3/28更新】『Satie: Vexations (840 Times)』Alessandro Deljavan
最後まで演奏するのに18時間かかる曲がある→サティ「ヴェクサシオン」
【3/19更新】『Debussy: Piano Works, Vol. 2 - Estampes, Children's Corner, Pour le piano & Other Pieces』Jacopo Salvatori
偏屈で嫌われていた作曲家がいる→ドビュッシー
【3/12更新】『リスト:《巡礼の年》全曲』ラザール・ベルマン
他人の曲を借用しまくって自分のスキルを自慢した作曲家がいる→リスト
【3/5更新】『Rossini:Overtures/ロッシーニ序曲集』
アントニオ・パッパーノ指揮、サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団
誰よりも早く「働き方改革」を実践した作曲家がいる→ロッシーニ
【2/26更新】 『Kagel: Chorbuch - Les inventions d'Adolphe sax』マウリシオ・カーゲル指揮、オランダ室内合唱団、ラシェール・サクソフォン・カルテット
ティンパニ奏者が自爆する曲がある→カーゲル「ティンパニとオーケストラのための協奏曲」
【2/19更新】『Haydn: The Creation』ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、フリッツ・ヴンダーリヒ
妻への恨みを曲にした作曲家がいる→ハイドン「4分33秒」
【2/12更新】『Cage: Works for 2 Keyboards, Vol. 2』Xenia Pestova, Pascal Meyer, Remy Franck, Jarek Frankowski, Bastien Gilson
4分33秒、無音の曲がある→ジョン・ケージ「4分33秒」
【2/5更新】『ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第14番(弦楽合奏版)&序曲集』ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団, レナード・バーンスタイン
コーヒーに異常な執着を見せた作曲家がいる→ベートーヴェン
【1/29更新】『プッチーニ:歌劇『トゥーランドット』(演奏会形式)』アンドレア・バッティストーニ, 東京フィルハーモニー交響楽団
たばこ好きが高じて犯罪の域に足を踏み入れた作曲家がいる→プッチーニ
【1/22更新】『ドヴォルザーク:交響曲第9番《新世界より》 【ORT】』ヴァーツラフ・ノイマン指揮, チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
「鉄オタ」だった作曲家がいる→ドヴォルザーク
【1/16更新】『モリエールのオペラ~ジャン=バティスト・リュリの劇場音楽』ジェローム・コレア&レ・パラダン
床を足で叩いて命を落とした作曲家がいる→リュリ
【1/9更新】『モーツァルト:レクイエム』ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団, ヘルベルト・フォン・カラヤン
お尻をなめることを要求した作曲家がいる→モーツァルト
【新連載】『エリック・サティ:新・ピアノ作品集』高橋悠治
ふざけた曲名の楽曲をたくさん残した作曲家がいる→エリック・サティ
印南敦史 プロフィール
印南敦史(いんなみ・あつし)
東京出身。作家、書評家、音楽評論家。各種メディアに、月間50本以上の書評を執筆。新刊は、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)。他にもベストセラー『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)をはじめ著書多数。音楽評論家としては、ヒップホップなどのブラック・ミュージックからクラシックまでを幅広くフォローする異色の存在。
◆ブログ「印南敦史の、おもに立ち食いそば」
◆連載「印南敦史の 名盤はハイレゾで聴く」