印南敦史のクラシック・コラム「クラシック音楽の穴」。ここで明らかにしようとしているのは、文字どおりクラシック音楽の「知られざる穴」。クラシックにはなにかと高尚なイメージがあって、それが「とっつきにくさ」につながっていたりもします。しかし実際には、そんなクラシック音楽にも“穴”というべきズッコケポイントがあるもの。そこでここでは、クラシック音楽の「笑える話」「信じられないエピソード」をご紹介することによって、ハードルを下げてしまおうと考えているわけです。そうすれば、好奇心も高まるかもしれませんからね。だからこそ肩の力を抜き、リラックスしてお読みいただければと思います。
最後まで演奏するのに18時間かかる曲がある
↓
サティ「ヴェクサシオン」
たとえばハウス・ミュージックという音楽は、「四つ打ち」と呼ばれるリズムを特徴としています。四つ打ちの語源は、1小節に4分音符が4回続くリズムであること。
連続するバスドラムの「ドン・ドン・ドン・ドン」というビートが基軸になっているわけで、たとえば日本を代表するハウスDJであるKO KIMURAさんの『TECHNICAL GROOVES 』というアルバムをチェックしてみれば、そのニュアンスは伝わるのではないかと思います。
一方、現代音楽の範疇には、「ミニマル・ミュージック」というカテゴリーがあります。ミニマル(最小限)の音をパターン化し、反復させるというスタイル。こちらに関しては、この世界の代表的存在であるスティーヴ・ライヒ の作品がオススメです。
つまり音楽性が異なるとはいえ、ハウス(あるいはテクノも含まれるかもしれません)とミニマルには、同じパターンを反復するという共通点があるわけです。
では、なぜ反復が好まれるのか?
このことについては、さまざまな考え方があるでしょう。しかし、もっとも説得力を感じさせるのは「心地よさ」です。ハウスのビートは心臓の鼓動に近いと言われているのですが、そんなところからも推測できるように、反復されるサウンドは純粋に心地よいのです。
しかもハウスがそうであるように、踊りやすい。そしてミニマルがそうであるように、邪魔にならない。つまりはどちらも、人間の生活にフィットするのです。
ところでクラシックの世界にも、執拗に反復される楽曲があります。エリック・サティの、『ヴェクサシオン(Vexations)』がそれ。
というのもこの曲、52拍で構成された1分程度の曲を、840回も繰り返す曲なのです。つまりは単純計算でも、演奏を終えるまでに約840分=14時間かかるということになります。
サティに関しては以前も「ふざけた曲名の楽曲をたくさん残した 」ということでご紹介したことがありますが、やはりこの人、かなりヒネクレた人物だったようです。
先に触れたハウスやミニマルは、そこから快適性を引き出すために反復を利用しているわけですが、サティの場合はまったく別。この曲の根底にあるのは「悪意」、ひいき目に表現すれば「いたずら心」です。
なにしろ「ヴェクサシオン」は、「嫌がらせ」という意味だというのですから、悪意がミエミエですよね。
ちなみにこの曲がジョン・ケージらによってニューヨークで初演されたのは、1963年9月のこと。10人のピアニストと2人のサポート・メンバーによって、夕方の18時から演奏が開始され、終了したのが翌日の昼12時40分だったのだとか。
楽譜にはテンポの指定がなかったそうなので、演奏時間は演奏者によって異なるようですが、いずれにしても世界でいちばん長い楽曲であることは間違いなさそうです。
ところで、ちょっとすごい発見をしてしまいました。「いくらなんでも、840分もある曲がe-onkyoにあるわけないよなぁ」と思いながらチェックしてみたところ、あったのです。
アレッサンドロ・デリャヴァンの『Satie: Vexations(840 Times)』。この人は1987年生まれのイタリア人ピアニスト。2013年のヴァン・クライバーン国際コンクールにおいて審査員特別賞を受賞したという若手です。
ラストに42秒の“Vexations: Theme”が入っているので、厳密には1曲多い841曲。さて、その聴感はといえば……。
僕はもともとミニマルが大好きで、文章を書いているときにもよく聴いているのですが、これはあまり快適性がないようにも思えます。
たしかに邪魔にはならないのですが、1曲1分というタイム感は、反復の快適性を引き出すには長すぎもせず、短すぎもせず、どこか中途半端なのです。
まぁ、もともとが「嫌がらせ」なのですから、快適性がどうのということを主張するのもナンセンスなのでしょうが。
それにしてもこのピアニスト、根性あるなぁ。若いからこそできるのかもしれませんが、「嫌がらせ」を真正面から受けて立とうという意思が感じられて、その点は評価に値すると思います。
いま、これを書いている時点で63曲目。ずーっと聴き続けたら食事もできないし睡眠も取れませんから、途中で何度か一時停止はすることになるでしょう。しかし、それでも841曲目まで聴いてやろうと思っています。
「最後まで聴けなかった」ということになると、なんだか負けた気がするだろうから(勝ち負けの問題かよ)。
でも、どれだけかかるのかなぁ……。
◆今週のおすすめ

『Satie: Vexations (840 Times)』
Alessandro Deljavan
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印南敦史 プロフィール
印南敦史(いんなみ・あつし)
東京出身。作家、書評家、音楽評論家。各種メディアに、月間50本以上の書評を執筆。新刊は、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)。他にもベストセラー『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)をはじめ著書多数。音楽評論家としては、ヒップホップなどのブラック・ミュージックからクラシックまでを幅広くフォローする異色の存在。
◆ブログ「印南敦史の、おもに立ち食いそば」
◆連載「印南敦史の 名盤はハイレゾで聴く」