【3/5更新】印南敦史の「クラシック音楽の穴」

2019/03/05
印南敦史のクラシック・コラム「クラシック音楽の穴」。ここで明らかにしようとしているのは、文字どおりクラシック音楽の「知られざる穴」。クラシックにはなにかと高尚なイメージがあって、それが「とっつきにくさ」につながっていたりもします。しかし実際には、そんなクラシック音楽にも“穴”というべきズッコケポイントがあるもの。そこでここでは、クラシック音楽の「笑える話」「信じられないエピソード」をご紹介することによって、ハードルを下げてしまおうと考えているわけです。そうすれば、好奇心も高まるかもしれませんからね。だからこそ肩の力を抜き、リラックスしてお読みいただければと思います。
誰よりも早く「働き方改革」を実践した作曲家がいる

ロッシーニ


「セミリタイア」ということばが出てきて、それが一般化したのはいつごろのことだったのでしょうか?

なんとなく、2000年代に入ってからよく見かけるようになったような気がするなぁ……。

いや、あくまで個人的な感覚ですので、真偽のほどは定かではありません。が、もしもこの見立てが当たっているのだとしたら、インターネットの出現により、若くしてリタイアできる余裕のある人が増えたとも考えることもできますね。

どうあれ、若くしてリタイアし、悠々自適の生活を送れるのであれば、それはうらやましいことではあります。しかしその反面、「自分はいまのままでいいや」という気もするのです。

人生は「大儲けできればそれで万々歳」というものではないと思うし、たとえばネットワークビジネスのようなうさんくさい仕事で荒稼ぎするくらいなら、“普通”のほうがしっくりくるといいますか。

それに僕はそもそも貧乏性なので、かりに早期のリタイアを実現できたとしても、結局のところ生活自体はあまり変化しないような気もします。なんだかんだいって、ずっと続けてきた地味な仕事を同じように続けていくことになるんだろうなということ。

要は、華やかな生活には向かないタイプなのでしょう。

ただし、どのようなライフスタイルで生きていくのかはともかくとしても、“好きなこと”だけは見失いたくないものですよね。

お金がたくさんあるかどうか、早々にリタイアできるか、どんな状況にいるか、などということより、好きなことをやっているかどうかということのほうが重要だからです。

さて、そういう意味で理想的な生き方をした人が、クラシックの世界にいます。イタリアの作曲家、ジョアキーノ・ロッシーニがその人。

ロッシーニといえば、『セビリアの理髪師』『チェネレントラ』『ウィリアム・テル』など数々の名作オペラで有名ですね。生涯で作曲したオペラは、39作品にもおよびます。

そして他にも管弦楽曲、室内楽曲、宗教曲なども数多く手がけているので、かなりの仕事量だったことになります。ところがそうでありながら、作曲家としての活動期間は意外なくらいに短くもあったのでした。

『結婚手形』でオペラ作曲家としてのデビューを果たしたのが、18歳だった1810年のことですから、早くから才能を発揮しはじめたことになります。ところが37歳だった1829年に最後のオペラ『ウィリアム・テル』を発表したのち、1836年には44歳の若さでオペラ界から引退してしまったのです。

で、以後は小品や宗教曲を手がける程度で、基本的には優雅な年金生活を過ごしたというのですから、なんともうらやましい限り。

つまり、実質的な活動期間はわずか19年だったことになるわけです。計算すると1年間で3~4曲の作品を生み出していたことになるので、それはそれで驚くべき話なのですが。

ところでそんなロッシーニといえば、「美食家」としても有名です。少年時代から食べることが大好きなグルメだったらしく、そのせいか若き日の肖像画を確認する限り、なかなかのポッチャリ系。それでもイケメンだったため、ブイブイ言わせてたらしいですけどね。

それはともかく、ただの美食家ではなく、後年には趣味が高じて高級レストランの経営にも尽力したといわれています。料理をつくる能力にも長けていたそうなのです。

たとえば「牛フィレ肉とトリュフのソテー ロッシーニ風」など、「ロッシーニ風」と名づけられた彼考案の料理は、いまでもたくさん残っています。見るからに高カロリーのものが多いので、「そりゃ太るだろうなぁ」と納得できてもしまうのですが。

いずれにしても、短期間のうちに多くの作品を効率的に書き、引退後は食の世界に没頭したロッシーニは、ちょっと前に流行ったYouTubeのキャッチコピー「好きなことで生きていく」を地で行く存在だったのかもしれません。

このコピー自体はチャラいですけれど、ロッシーニの場合、誰に焚きつけられるわけでもなく、自分の意思でそれを実践したわけですからね。

そういう意味ではセミリタイアの先駆者的な存在であり、誰よりも早く、自分なりの「働き方改革」を実践した人物であるといえそうです。


◆今週のおすすめ


『Rossini:Overtures/ロッシーニ序曲集』
アントニオ・パッパーノ指揮、サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団




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印南敦史 プロフィール

印南敦史(いんなみ・あつし)
東京出身。作家、書評家、音楽評論家。各種メディアに、月間50本以上の書評を執筆。新刊は、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)。他にもベストセラー『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)をはじめ著書多数。音楽評論家としては、ヒップホップなどのブラック・ミュージックからクラシックまでを幅広くフォローする異色の存在。

◆ブログ「印南敦史の、おもに立ち食いそば」
◆連載「印南敦史の 名盤はハイレゾで聴く」

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