印南敦史のクラシック・コラム「クラシック音楽の穴」。ここで明らかにしようとしているのは、文字どおりクラシック音楽の「知られざる穴」。クラシックにはなにかと高尚なイメージがあって、それが「とっつきにくさ」につながっていたりもします。しかし実際には、そんなクラシック音楽にも“穴”というべきズッコケポイントがあるもの。そこでここでは、クラシック音楽の「笑える話」「信じられないエピソード」をご紹介することによって、ハードルを下げてしまおうと考えているわけです。そうすれば、好奇心も高まるかもしれませんからね。だからこそ肩の力を抜き、リラックスしてお読みいただければと思います。
妻への恨みを曲にした作曲家がいる
↓
ハイドン
お酒の席などで、奥さんの悪口を言う人が苦手です。
もちろん、そのテの発言がテレ隠しであることも少なくはありません。それはわかっています。本当は好きなくせに、「あのバカが」とか言ってみたりね。当然ながら、そういう場合は微笑ましくもあるので話が別です。
が、たまにいるのです、本気で奥さんのことを悪く言う人が。さすがにそういう人には共感できないし、抵抗感を拭えないということ。
以前、そういうタイプの人に文句を言ったことがあります。その人と奥さんは同じ仕事をしていて、以前から仲がよさそうでした。だから、結婚の知らせを受けたときには「よかったなぁ」と感じていたのです。
ところが彼があるとき居酒屋で、奥さんのことを痛烈にディスったのです。「もう女として見られない」とか、そのテのえげつない話。でも、そういうことってあんまり聞きたくないじゃないですか。
だから、思わず聞いてしまいました。
「じゃあ、どうして子どもができたの?」
そう、そのとき奥さんは妊娠していたのです。だからちょっと納得できず、思わず言ってしまったんですよね。彼は苦笑してましたし、そののち生まれた息子のこともかわいがっていたので、結果的には問題なかったのかもしれませんけど。
そう考えると、単に僕が真面目すぎるだけなのかなぁ? でも、やはりそういう発言は好きになれないのです。
しかし現実問題として、仲が悪く見えても別れないカップルはいるし、逆に、すごく仲がよかったのにすぐ離婚してしまう人たちもいたりするので、夫婦というのはなかなか奥深いものだなぁと思ったりもするのですけれど。
さて、クラシックの歴史を振り返ってみても、結婚に失敗した作曲家は何人か存在します。そんななかでもすぐに思いつくのは、フランツ・ヨーゼフ・ハイドン。
ハイドンは28歳のときにウィーンの理髪師の娘であるマリア・アンナ・アロイジアと結婚しましたが、彼女は本命の相手ではありませんでした。もともとは、マリアの妹のテレーゼに好意を寄せていたのです。ところが、プロポーズしようかというタイミングで彼女は修道女となってしまったため、思いが断たれることに。
もしもそこまでだったなら、「残念だったね」で話は終わったのかもしれません。しかし、そののちハイドンはテレーゼの父親から、「せっかくだからこっちを頼む」とテレーゼの3歳年上の姉であるマリアを押しつけられ、結婚することになったのです。
ところがこのマリアが、家事は苦手でヒステリックで嫉妬深く、しかも多額の借金があったにもかかわらず浪費家で……と、非常に問題のある女性。
一般的にこうしたエピソードのたぐいは誇張されがちですが、モーツァルトの妻であるコンスタンツェ、チャイコフスキーの妻アントニーナと並び、音楽界の「3大悪妻」のひとりと語り継がれているくらいですから、あながち嘘だとは言えなさそうです。
でも、ハイドンにとってなにより不本意だったのは、彼女が夫の仕事にまったく関心を示さなかったことかもしれません。パートナーから自分の仕事を否定されたり、関心を示してもらえなかったりするのは、男にとって非常につらいことですからね。
夫が書き上げた楽譜を鍋敷きとして使ったり、ケーキの台紙や料理の包み紙にしたり、髪をカールするために使ったりしたというのですから、「あんた、いくらなんでもそりゃないだろう」とツッコミを入れたくなるほど屈辱的な話。
ハイドンは、「あいつは、自分の亭主が芸術家だろうが、靴屋だろうが、どうでもいいんだ」とこぼしていたそうですが、たしかにそんなことをされていたのではモチベーションが下がっても無理はありません。
「人生最大の失敗は結婚だった」と、新橋のガード下の一杯飲み屋で聞こえてきそうなことも話していたともいいますけれど、ここまでくるとシャレにもならない気がします。
それでもハイドンは、「仕事に影響するから」という理由で離婚はしなかったのだとか。不倫はしていたようですが(コラ!)、ずいぶん忍耐力があったんだなぁと感心させられます。
とはいえやはり、マリアのことは許せなかったようです。というのも、彼女が多額の借金を残して71歳で世を去ったあと、「悪妻(Hob.XXVIIb-23)」というカノンを作曲しているのです。しかもこれが、なんとも暗い曲でしてね。
妻の死後にこういう、あたかも恨みつらみを凝縮したかのような作品を残すとは、それはそれで恐ろしい気もしますね。
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印南敦史 プロフィール
印南敦史(いんなみ・あつし)
東京出身。作家、書評家、音楽評論家。各種メディアに、月間50本以上の書評を執筆。新刊は、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)。他にもベストセラー『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)をはじめ著書多数。音楽評論家としては、ヒップホップなどのブラック・ミュージックからクラシックまでを幅広くフォローする異色の存在。
◆ブログ「印南敦史の、おもに立ち食いそば」
◆連載「印南敦史の 名盤はハイレゾで聴く」