月間50本以上の書評を執筆する書評家であり、ベストセラー『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』の作家としても知られ、更にヒップホップなどのブラック・ミュージックからクラシックまでを幅広くフォローする異色の音楽評論家としての顔を持つ印南敦史による連載「印南敦史の名盤はハイレゾで聴く」。
ウィリー・ネルソン『Stardust』
アメリカン・スタンダード・ナンバーを取り上げた、ブッカー・T.ジョーンズ・プロデュース作品
学生時代、小さなスーパーマーケットでアルバイトをしていたことがあります。恰幅のいい経営者と、20代半ばとおぼしき息子が同じ空間で働いているような家族経営の店。
その息子がレジ担当の女の子に気があるらしいとか、どうでもいい話がどこかから聞こえてきたり、なんだか牧歌的なムードでした。
従業員やアルバイトの人数も多くはないその組織のなかで、なぜか僕は青果担当のWさんという人に好かれていました。おそらく30歳前後の、ちょっとめんどくさい人です。
「あのレジの女の子さ、どうやら俺に気があるらしいんだよ」
どれくらいめんどくさいのかといえば、たとえばこんなことを真剣に話すわけです。
イケメンでもなく清潔感もなく、そもそもコミュ障っぽいWさんに、いちばんかわいいと言われていたレジの女の子が好意を寄せる可能性は皆無と言わざるを得ません。けれど、繰り返されるその言葉と真剣な目つきから察するに、どうやら本気で信じていた様子。
それ以前から経営者の息子の悪口ばかり言っていたのは、同じくその女の子に惹かれていた彼にライバル意識があったからなのかもしれません。
でも僕は年下で、反論するだけの勇気もありませんでしたから、結局はいつも彼の話の聞き役になるしかなかったのでした。
「俺は夜、小説を書いてるんだ」
「へえ、そうなんですか」
「ちびちび酒を飲みながらな。いつか、芥川賞でもとるかもな」
酒を飲みながら書いた小説で芥川賞をとれるはずもないことは、若造だった僕にもわかりました。でも、そんなことは指摘できず、「キッツいなぁ」と思いながら「そうですか」「そうですね」を繰り返していました。
一度だけ、Wさんのアパートに行ったことがあります。別に行きたくなかったのですが、「来い」と言われたので断りきれなかったのです。
スーパーから歩いて10分程度の住宅地の一角に建つ、木造アパートの一階奥の部屋でした。玄関のすぐ横が狭いキッチンになっていて、その奥が四畳半の和室。築数十年は経ているであろう、家賃の安さが想像できる部屋でした。
驚いたのは、部屋がきちんと片づけられていたことです。普段のWさんはどちらかといえばだらしなく見えたので、ちょっと意外でした。
デスクのようなものはなく、折りたたみ式の小さなテーブルがひとつ。その目の前に小さなステレオとテレビがあったので、そのテーブルでテレビを見たりしながら食事をしたり酒を飲むのだろうと想像できました。
たぶん、小説もそこで書いていたのでしょう。でも、原稿用紙もノートブックも見当たりませんでした。
「ウィリー・ネルソンって知ってる?」
「え、ああ、カントリーの人ですよね」
「あんまり知らねえか」
「はい、あんまり聴いたことないです」
「たしかに日本人には、ウィリー・ネルソンを理解できるやつは少ないかもしれねえなぁ。でも、俺は好きなんだよ」
まるで自分が外人であるかのようなことを言いながら、Wさんが青色のレコードをひっぱり出し、それをかけました。ウィリー・ネルソンの『Stardust』というアルバム。
「くぅ~、いいねえ。ブッカー・T・ジョーンズって知ってる」
「あ、はい。その人は知ってます」
「あいつがプロデュースしてるから、サウンドがまたシブいんだよ。スタンダード・ナンバー集なんだけど、深いわけよ」
Wさんが缶ビールとコイケヤのポテトチップスを持ってきて、ウィリー・ネルソンのしんみりとしたバラードをBGMにした、男ふたりの宴会がはじまりました。
その後、酒は「いいちこ」になり、ウィリー・ネルソンの他のレコードも何枚か聴かされました。当時の僕にはその魅力が理解できなかったのですが、Wさんはいいちこを飲み続け、歌の世界にどんどん入り込んでいきました。
「田舎、帰ろっかなぁ……」
間が持たないなぁと困っていたら、Wさんがいきなりそんなことを言い出しました。
「どこの出身なんですか?」
「岩手。俺、長男だし、期待されてんだよ。お袋から戻ってこいって言われてんだけど、でもなぁ……。見合いとかさせられるだろうし、ちょっとなぁ。それに、こっちでやることあるしなぁ」
「小説ですか?」
「も、そうだし。っていうか、最近書いてないんだよ。スランプってやつ。ま、すぐにまた書きはじめるだろうけどね。ストーリーは頭んなかにできあがってるから。でも、それはともかくさ、あのレジの子にも告白しなくちゃなぁって思ってるし」
「あ、それだけはやめたほうがいいです!」と言いたかったのですが、やはり言えるはずはなく、ただモヤモヤとして気分のなかでウィリー・ネルソンの歌を聴き続けていたのでした。
スーパーからWさんの姿が消えたのは、それから数カ月後のことでした。Wさんの上司にあたるおじいさんに「Wさんはどうしたんですか?」と聞いても、「辞めた」と答えるだけ。
「どうして辞めたんですか」
「知らねえ」
「いま、どこに?」
「知らねえよ」
そんな答えしか返ってこなかったし、他の人もまったく話題にしなかったので、結局は辞めた理由も、いまいる場所もわからずじまいでした。レジの女の子にも変化はなかったので、告白しないまま去って行ったのでしょう。
先日、e-onkyoをチェックしているときに『Stardust』を見つけたので、ダウンロードして聴いてみました。あのとき以来とまではいかないけれど、それでも聴いたのはずいぶんひさしぶりです。
オープニングの「Stardust」がはじまったとき、Wさんの「くぅ~」というリアクションを思い出しました。
しかもハイレゾで聴くと、あの四畳半で聴いたそれとは印象がまるで違って、ウィリー・ネルソンが目の前で歌っているような気がしました。
だから、「Georgia On My Mind」「Blue Skies」「All of Me」と続く以後の楽曲にもぐいぐい引き込まれていったのです。
ウィリー・ネルソンの歌はあれからもときどき聴いて、決して嫌いではないということも自覚していました。でも、普通に「いいな」と思う程度だったのです。
ところが改めてハイレゾで聴いてみた結果、ちょっと印象が変わりました。「いいな」じゃなくて、「すごくいい」に。しかも、Wさんのことをひさしぶりに思い出しもしました。
たぶん、あの人は成功していないだろうし、あいかわらず人から敬遠されている可能性は大いにあります。僕も嫌いではなかったにしろ、決して好きでもなかったので、彼を煙たがる人も気持ちもわかるのです。
なのに、いま思い出すと、「元気でやってるかな」と少し気になったりもするから不思議。
ウィリー・ネルソンを聴くたびに思い出してしまうのは、ちょっと困りものではあるのですが。
◆今週の「ハイレゾで聴く名盤」

『Stardust』
Willie Nelson
◆バックナンバー
【2/8更新】ビル・ウィザース『スティル・ビル』
コンプレックスを抱えた苦労人だからこそ表現できる、暖かく、聴く人の心に寄り添うようなやさしい音楽
【2/1更新】フランク・シナトラ『The Centennial Collection』
シナトラの魅力を教えてくれたのは、あのときの上司、そしてバリ島のプールサイドにいた初老の男性
【1/25更新】マライア・キャリー『マライア』
南青山の空気と好きだった上司を思い出させてくれる、いまなお新鮮なデビュー・アルバム
【1/18更新】バリー・マニロウ『Barry』
地道な努力を続けてきた才人による、名曲「I Made It Through The Rain」を生んだ傑作
【1/11更新】渡辺貞夫『マイ・ディア・ライフ』
FM番組とも連動していた、日本のジャズ/フュージョン・シーンにおける先駆的な作品
【12/28更新】ビリー・ジョエル『52nd Street』
『Stranger』に次ぐヒット・アルバムは、1978年末のカリフォルニアの記憶と直結
【12/21更新】チャカ・カーン『I Feel For You』
ヒップホップのエッセンスをいち早く取り入れた、1980年代のチャカ・カーンを象徴するヒット作
【12/14更新】ドン・ヘンリー『I Can't Stand Still』
イーグルスのオリジナル・メンバーによるファースト・ソロ・アルバムは、青春時代の記憶とも連動
【12/7更新】Nas『Illmatic』
90年代NYヒップホップ・シーンに多大な影響を与えた、紛うことなきクラシック
【11/30更新】イエロー・マジック・オーケストラ『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』
最新リマスタリング+ハイレゾによって蘇る、世界に影響を与えた最重要作品
【11/23更新】ライオネル・リッチー『Can’t Slow Down』
世界的な大ヒットとなった2枚目のソロ・アルバムは、不器用な青春の思い出とも連動
【11/16更新】クイーン『オペラ座の夜』
普遍的な名曲「ボヘミアン・ラプソディ」を生み出した、クイーンによる歴史的名盤
【11/9更新】遠藤賢司『東京ワッショイ』
四人囃子、山内テツらが参加。パンクからテクノまでのエッセンスを凝縮した文字どおりの傑作
【11/2更新】ザ・スリー・サウンズ『Introducing The 3 Sounds』
「カクテル・ピアノ」のなにが悪い? 思春期の少年に夢を与えてくれた、親しみやすいピアノ・トリオ
【10/26更新】ロバータ・フラック『やさしく歌って』
1970年代の音楽ファンを魅了した才女の実力は、「ネスカフェ」のCMソングでもおなじみ
【10/19更新】井上陽水『陽水ライヴ もどり道』
思春期の甘酸っぱい思い出をさらに際立たせてくれるのは、立体感のあるハイレゾ・サウンド
【10/12更新】カーペンターズ『シングルズ 1969-1981』br>
思春期の甘酸っぱい思い出をさらに際立たせてくれるのは、立体感のあるハイレゾ・サウンド
【10/5更新】エアロスミス『Rocks』
倉庫でレコーディングされた名盤が思い出させてくれるのは、クリスチャンの人たちとの思い出
【9/28更新】サイモン&ガーファンクル『Bookends』
消息不明の親友との記憶を思い出させてくれる、個人的にとても大きな価値のある作品
【9/21更新】ジェフ・ベック『Wired』
前作『Blow By Blow』の成功を軸に、クリエイティヴィティをさらに昇華させた意欲作
【9/14更新】マーヴィン・ゲイ『I Want You』
リオン・ウェアとマーヴィン、それぞれの実力が理想的なかたちで噛み合った“夜の傑作”
【9/10更新】エアプレイ『ロマンティック』
ジェイ・グレイドンとデイヴィッド・フォスターによる“限定ユニット”が生み出したAORの名作
【8/27更新】上田正樹とSOUTH TO SOUTH『この熱い魂を伝えたいんや』
日本を代表するソウル・シンガーの原点ともいうべき、ハイ・クオリティなライヴ・アルバム
【8/19更新】アレサ・フランクリン『Live At The Fillmore West』
サンフランシスコのロック・ファンをも見事に魅了してみせた歴史的ライヴ
【8/13更新】ボビー・コールドウェル『イヴニング・スキャンダル』
南阿佐ヶ谷のカフェでの記憶と、ボビー本人の意外なキャラクター
【8/2更新】バド・パウエル『ザ・シーン・チェンジズ』
奇跡のピアノ・トリオが掘り起こしてくれるのは、三鷹のジャズ・バーで人生を教わった記憶
【7/27更新】ロッド・スチュワート『Atlantic Crossing』
「失恋マスター」を絶望の淵に追いやった「Sailing」を収録。言わずと知れたロック史に残る名作
【7/20更新】エア・サプライ『Live in Hong Kong』
魅惑のハーモニーが思い出させてくれるのは、愛すべき三多摩のツッパリたちとの思い出
【7/13更新】アース・ウィンド&ファイア『The Best Of Earth, Wind & Fire Vol. 1』
親ボビーとの気まずい時間を埋めてくれた「セプテンバー」を収録したベスト・アルバム
【7/6更新】イーグルス『Take It Easy』
16歳のときに思春期特有の悩みを共有していた、不思議な女友だちの思い出
【6/29更新】ジョー・サンプル『渚にて』
フュージョン・シーンを代表するキーボード奏者が、ザ・クルセイダーズ在籍時に送り出した珠玉の名盤
【6/22更新】スタイル・カウンシル『カフェ・ブリュ』
ザ・ジャム解散後のポール・ウェラーが立ち上げた、絵に描いたようにスタイリッシュなグループ
【6/15更新】コモドアーズ『マシン・ガン』
バラードとは違うライオネル・リッチーの姿を確認できる、グルーヴ感満点のファンク・アルバム
【6/8更新】デレク・アンド・ザ・ドミノス『いとしのレイラ』
エリック・クラプトンが在籍したブルース・ロック・バンドが残した唯一のアルバム
【6/1更新】クイーン『Sheer Heart Attack』
大ヒット「キラー・クイーン」を生み、世界的な成功へのきっかけともなったサード・アルバム。
【5/25更新】ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ『Live!』
「レゲエ」という音楽を世界的に知らしめることになった、鮮度抜群のライヴ・アルバム
【5/18更新】イーグルス『One of These Nights』
名曲「Take It To The Limit」を収録した、『Hotel California』前年発表の名作
【5/11更新】エリック・クラプトン『461・オーシャン・ブールヴァード』
ボブ・マーリーのカヴァー「アイ・ショット・ザ・シェリフ」を生んだ、クラプトンの復活作
【5/6更新】スティーヴィー・ワンダー『トーキング・ブック』
「迷信」「サンシャイン」などのヒットを生み出した、スティーヴィーを代表する傑作
【4/27更新】オフ・コース『オフ・コース1/僕の贈りもの』
ファースト・アルバムとは思えないほどクオリティの高い、早すぎた名作
【4/20更新】チック・コリア『リターン・トゥ・フォーエヴァー』
DSD音源のポテンシャルの高さを実感できる、クロスオーヴァー/フュージョンの先駆け
【4/12更新】 ディアンジェロ『Brown Sugar』
「ニュー・クラシック・ソウル」というカテゴリーを生み出した先駆者は、ハイレゾとも相性抜群!
【4/5更新】 KISS『地獄の軍団』
KISS全盛期の勢いが詰まった最強力作。オリジマル・マスターのリミックス・ヴァージョンも。
【2/22更新】 マーヴィン・ゲイ『ホワッツ・ゴーイング・オン』
ハイレゾとの相性も抜群。さまざまな意味でクオリティの高いコンセプト・アルバム
【2/16更新】 ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース『スポーツ』
痛快なロックンロールに理屈は不要。80年代を代表する大ヒット・アルバム
【2/9更新】 サイモン&ガーファンクルの復活曲も誕生。ポール・サイモンの才能が発揮された優秀作
【2/2更新】 ジョニー・マーとモリッシーの才能が奇跡的なバランスで絡み合った、ザ・スミスの最高傑作
【1/25更新】 スタイリスティックス『愛がすべて~スタイリスティックス・ベスト』ソウル・ファンのみならず、あらゆるリスナーに訴えかける、魅惑のハーモニー
【1/19更新】 The Doobie Brothers『Stampede』地味ながらもじっくりと長く聴ける秀作
【1/12更新】 The Doobie Brothers『Best of the Doobies』前期と後期のサウンドの違いを楽しもう
【12/28更新】 Barbra Streisand『Guilty』ビー・ジーズのバリー・ギブが手がけた傑作
【12/22更新】 Char『Char』日本のロック史を語るうえで無視できない傑作
【12/15更新】 Led Zeppelin『House Of The Holy』もっと評価されてもいい珠玉の作品
【12/8更新】 Donny Hathaway『Live』はじめまして。
印南敦史 プロフィール
印南敦史(いんなみ・あつし)
東京出身。作家、書評家、音楽評論家。各種メディアに、月間50本以上の書評を執筆。新刊は、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)。他にもベストセラー『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)をはじめ著書多数。音楽評論家としては、ヒップホップなどのブラック・ミュージックからクラシックまでを幅広くフォローする異色の存在。
ブログ「印南敦史の、おもに立ち食いそば」