印南敦史のクラシック・コラムが装いも新たにリニューアル!ここで明らかにしようとしているのは、文字どおりクラシック音楽の「知られざる穴」。クラシックにはなにかと高尚なイメージがあって、それが「とっつきにくさ」につながっていたりもします。しかし実際には、そんなクラシック音楽にも“穴”というべきズッコケポイントがあるもの。そこでここでは、クラシック音楽の「笑える話」「信じられないエピソード」をご紹介することによって、ハードルを下げてしまおうと考えているわけです。そうすれば、好奇心も高まるかもしれませんからね。だからこそ肩の力を抜き、リラックスしてお読みいただければと思います。
コーヒーに異常な執着を見せた作曲家がいる
↓
ベートーヴェン
僕が思春期を過ごした1970年代は、喫茶店文化華やかりし時代でした。「コーヒー専門店」と呼ばれるお店がどんな街にもあり、そこには常連さんたちが集まってワイワイやっていたのです。
同じころ、週刊少年チャンピオンで連載されていた「750(ナナハン)ライダー」という漫画が好きでした。どこに惹かれたかって、早川光という高校2年生の主人公が、行きつけの喫茶店のマスターと偉そうに語り合うわけですよ。
高校生がいい大人にタメ口をきくなんて、普通に考えれば非常識極まりない話です。が、ガキの目にはそれがかっこよく映ったんだよなー。だから僕も中学2年のころから、父親の財布から小銭をこっそり抜き取っては(コラーッ!)喫茶店に通うようになったのでした。
で、受験が終わった中学3年の3学期から喫茶店でアルバイトをはじめ、高校1年になると、もっと専門的な別のコーヒーショップでドリップコーヒーを淹れるようになっていました。いま考えれば、高校生の分際で生意気なんですけどね。
そんなわけなので、こだわりと言えるほど偉そうなものでもないけど、コーヒーについては「ここは譲れない」みたいなラインが当時からあったわけです。家でも豆を挽いて、一杯ずつコーヒーを淹れていましたし。
ちなみに現在、コーヒー豆は中央線の三鷹にある「はちや珈琲」というスペシャルティーコーヒー豆専門店で買っています。と書いてみて気づいたんだけど、考えてみればそのお店とは、もう20年くらいのおつきあい。
きちんとした考えをお持ちのオーナーがていねいに仕事をしていらっしゃるので、味に鈍感な僕にさえ普通のコーヒー豆との違いがはっきりわかるのです。たとえば、人気の高いシアトルの某チェーン店のコーヒーすら、おいしいとは思えなくなっているほど。
とはいえ好みの問題なので、どれがよくてどれがだめだと決めつけられるものではないんですけどね。ただ、コーヒー好きって、そういう些細なことを(必要以上に)気にしてしまったりするじゃないですか。
でも当然ながら、それはいまに始まったことではなく、クラシックの世界にもコーヒー好きな作曲家の逸話がいくつも残っています。まず最初に思い出すのは、「コーヒー・カンタータ」を作曲したことでも有名なバッハではないでしょうか。またブラームスも、コーヒーとたばこを好んだことで知られています。
しかしコーヒーに関して、さらに異様なまでの執着心を見せていた(らしい)人物といえば、やはりベートーヴェンに尽きるのではないかと思います。
なぜならベートーヴェンは朝食の際、1杯あたり60粒のコーヒー豆をきっちり数えていたというのですから。そんな神経質な朝はいやだなー。
正直、僕はコーヒー好きとはいえ大ざっぱなので、こういう話を聞くと「2粒や3粒、いや、5粒違ったって対して味なんか変わりゃしねーよ」と思ってしまうのですが、そこが天才と凡人の違いなのでしょう。
それに、たとえば弦楽四重奏第14番あたりを聴いたりすると、「この繊細さは、そういう小さなところに執着する人じゃないと表現できないんだろうなぁ」と感じたりもします(気のせいかもね)。
ところで「1杯あたり60粒」に関し、吉祥寺「武蔵野珈琲店」のサイトに興味深い記述があります。というのも、どうやら1杯60粒では都合がよろしくないようなのです。
コーヒー1杯あたりの豆は10グラム前後が標準で、同店では100ccのカップ1杯あたり15グラムと多め。これは、ちょっと贅沢な豆の使い方なのだといいます。
ところが、粒の大きいマンデリン60粒をはかりに載せてみると、約9グラムなのだとか。ベートーヴェンは濃いコーヒーを好んだと言われているのに、武蔵野珈琲店の15グラムとくらべてもかなり少ないことになります。
しかも、1780年後半あたりのウィーンに深煎りのコーヒーがあったとは考えにくく、だとすれば当時はコーヒーカップが小さめだったのではないかと同店のオーナーは推測しているのです。
僕も学生のころ、武蔵野珈琲店はよく利用していました。とはいえオーナーと親しいわけでもなく、きちんと会話をしたこともありません。でも、ちょっと神経質そうにも見えるあの方が、こういう実験をしてくださっていることに、とても親しみを感じました。
しばらく行ってないけど、また顔を出してみようかな、武蔵野珈琲店に。で、そのときには勇気を出して話しかけてみよう。「ベートーヴェンの記事、読みました」って。
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印南敦史 プロフィール
印南敦史(いんなみ・あつし)
東京出身。作家、書評家、音楽評論家。各種メディアに、月間50本以上の書評を執筆。新刊は、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)。他にもベストセラー『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)をはじめ著書多数。音楽評論家としては、ヒップホップなどのブラック・ミュージックからクラシックまでを幅広くフォローする異色の存在。
◆ブログ「印南敦史の、おもに立ち食いそば」
◆連載「印南敦史の 名盤はハイレゾで聴く」