【1/25更新】 印南敦史の名盤はハイレゾで聴く

2019/01/25
月間50本以上の書評を執筆する書評家であり、ベストセラー『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』の作家としても知られ、更にヒップホップなどのブラック・ミュージックからクラシックまでを幅広くフォローする異色の音楽評論家としての顔を持つ印南敦史による連載「印南敦史の名盤はハイレゾで聴く」。
マライア・キャリー『マライア』
南青山の空気と好きだった上司を思い出させてくれる、いまなお新鮮なデビュー・アルバム


1980年代が終わろうとしているころ、とある広告代理店に転職しました。広告代理店というと電通のような一流企業をイメージされるかもしれませんが、ぶっちゃけ求人広告を専門にする零細企業です。

しかしバブル真っ盛りの時期でしたから、やることがいちいち豪快さんでした。

なにしろ業界内に強豪大手が2社も存在し、両社とも有名な求人媒体を流通させていたにも関わらず、無名の分際で新媒体を創刊させてしまったのですから。CMもガンガン流れてたなー。

僕が入ったのはその会社の、南青山にできた制作部分室でした。本社は神田にあったのですが、直属の上司だったUさんが「売り手市場なんですから、神田じゃ人なんて集まりませんよ」と主張したため、青山に分室ができたのです。いかにもバブルなエピソードです。

事務所は骨董通り沿いのマンションの10階にあり、窓の外のテラスからは渋谷のあたりまでが見渡せました。

ちなみに当時40代後半だったUさんは、創刊にあたって大手広告代理店から招かれたクリエイティブ・ディレクターでした。

求人広告は、広告の世界では末端で、そもそもデザイン要素が求められるようなものではありません。しかしバブル期の勢いとは恐ろしいもので、その事務所はUさんの指揮のもと、「ワンランク上の求人広告をつくろう」というコンセプトのもとに生まれたのでした。

ですから、求人広告とは思えないほどクリエイティブなことができましたし、とてもやりがいがありました。忙しかったけれど仕事が楽しく、他のデザイナーたちが帰ったあとも、ほとんど毎日自主的に残業していました。

広告の世界では残業代が出ないのは当たり前のことだったのですが(少なくとも当時は)、ありがたいことに営業からご指名で仕事がどんどん入ってくるようになり、おのずとモチベーションも上がりまくっていたわけです。

英国紳士的な風貌のUさんは、とても上品な人でした。どうやら良家の出身だったようですが、充分に納得できる話でした。いつも冗談を言ってみんなを笑わせているようなムードメーカー。かといって自己主張はあまりせず、なにかあっても怒ったり説教するようなことはありませんでした。

たとえば当時、僕はよくランチのときビールを飲んでいたのですが(おい!)、一度だけそのことを指摘されたことがあります。

事務所に戻ってきた僕のことを席からじっと見上げたUさんは「酒、飲んできただろ」と言い、両側の頬のあたりに指で輪っかをつくりました。「この辺が赤い」。

それ以上はなにも言わないし、僕も「飲んでませんよー」とごまかすしかありませんでしたが、まったくごまかせていなかったことは確実。

あれは、怒鳴られるよりも効果があったかもしれないなあ。

でも(口には出さないけれど)、Uさんが僕のがんばりを認めてくださっていることははっきりわかりました。夜にふたりきり、特に会話をするでもなく黙々と残業することも少なくなかったのですけれど、その時間はなかなか心地よいものでした。

たまに「これやってみない?」といきなり言い出し、個人の仕事を振ってくれたりすることもありました。「同じことばっかりやってるんじゃ、つまらないだろう」と。「ちゃんと考えてくれてるんだな」と、うれしく思ったものです。

そんなことも含め、すべての仕事がとてもためになりました。いま物書きをしているのも、あの時期があったからだと思っています。

事務所ではいつも、開局したばかりのJ-WAVEがつけっぱなしになっていました。局として勢いがあったころで、あのころ青山の空を眺めながら聴いた曲は、どれもいまだに記憶に残っています。

ただ、Uさんとは音楽の好みがちょっと噛み合っていませんでした。僕は当時から下品なヒップホップが大好きだったのですが、なにしろ彼は絵に描いたようなお坊ちゃん育ちです。

フランク・シナトラを愛し、その流れをくむ(デビューしたばかりだった)ハリー・コニック・ジュニアを絶賛し……というような感じ。やがて僕もシナトラの魅力に気づいていくのですが、当時はまったく理解不能。「ただのお上品な音楽じゃん」としか感じることができなかったのです。

だから、ちょうど鳴り物入りでデビューしたマライア・キャリーのことをUさんが絶賛しても、「そうなんですか」くらいにしか反応していませんでした。いかにもUさんが好きそうな品のよい音楽にしか聞こえなかったし。

あとあと、その解釈がまったく的外れだったことに気づくわけですが。

あいかわらず仕事は楽しく、営業からの依頼も途絶えることがなかったので、充実した毎日を過ごしていました。ところが媒体自体は結果を出せず、同じころ、会社は傾きかけていたようでした。

なんとなく気づいてはいましたけれど、だからといって現場の僕が落胆したところでなんにもなりません。できることは、いい求人広告をつくることだとだけ考え、余計なことは考えないようにしていました。

いつのころからか外出する機会が増えていったUさんから、僕に電話が入ったのは、そんなある日の夕方ごろ。新媒体の創刊から、すでに1年半ほど経っていました。

「いま忙しいですか? ちょっと出られませんか?」
「わかりました。すぐに行きます」

骨董通り添いにUさんのオペルが停まっていました。運転席からこちらを見上げたUさんが、外に立つ僕に、助手席に座るよう目で指示しました。柔らかなシートに身を埋めると、見慣れた南青山の景色が、いつもと違って見えました。そしてそのまま、黙ってUさんの言葉を待ちました。

「……あのですね、雑誌は休刊です。会社もなくなります。事務所も解散です。だから早めに、次の勤務先を探してください」
「はい、わかりました」

予想はついていたので、驚きはしませんでした。でも、それは仕方がないとしても、誰より先に僕に告げてくれたことがありがたいと感じました。それだけで、入社以来の努力が報われるような気がしたからです。

かくしてその媒体は休刊となり、事務所は解散になり、会社は倒産しました。最後の日をどのように終えたのかは記憶にありませんし、それ以来、Uさんにも会っていません。

事務所解散からしばらく経ったころ、Uさんがベタ褒めしていたマライアのデビュー・アルバムを最初から聞きなおしたことがあります。特に意味があったわけではなく、本当に「なんとなく」。

でも、デビュー・シングルにもなったオープニングの「ヴィジョンズ・オブ`・ラヴ」がスタートした時点で、青山のあの事務所の光景や、窓際の席でみんなを笑わせるUさんの笑顔が頭に蘇りました。

「アイ・ドント・ウォナ・クライ」や、ダンス・トラックの「サムディ」あたりも懐かしいなあ。当時は「自分には関係ない音楽」ぐらいに思っていたけれど、しっかりと記憶に残っていたのです。そのことを、改めて実感したのでした。



その事務所に入ったばかりのころ、僕は大きな壁にぶちあたりました。どんな壁だったのかは覚えていませんが、たしか、つまらない人間関係のことだったんじゃないかな? せっかくいい転職先を見つけたのに、やっていけるのかなと不安に感じていたのです。

年末のことで、悩みを抱えたまま年を越さなければならないような状況でした。それが嫌だったので、Uさんに電話して悩みを打ち明けました。

バブルっぽいおっさんしか携帯電話を持っていないような時代でしたから、近所の公衆電話を使い、北風が吹くなか、寒さに耐えながら思いを伝えました。

「……あんまり、そういうことを深刻に考えないほうがいいですよ」

Uさんから返ってきた答えは、たったそれだけでした。ちょっと拍子抜けしましたが、そのことばを聞いた瞬間、頭のなかを覆っていた霧がさっと晴れるような気がしました。

おかげで僕はその壁を乗り越えることができ、翌年の始めから仕事を楽しめるようになったのです。おそらくあの経験も、いまこうして生きている僕に必要なプロセスだったのだろうなと思います。

Uさんは、おそらく70代後半になっていると思われます。でも、どこにいらっしゃるのかもわかりません。検索したりもしているのですが、なかなかたどり着けません。

でも、本当にお世話になったので、「またお会いしたいなあ」と強く感じるのです。ついさっきも、マライアを聴きながら当時のことをいろいろ思い出していました。


◆今週の「ハイレゾで聴く名盤」


『マライア』
MARIAH CAREY



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印南敦史 プロフィール

印南敦史(いんなみ・あつし)
東京出身。作家、書評家、音楽評論家。各種メディアに、月間50本以上の書評を執筆。新刊は、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)。他にもベストセラー『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)をはじめ著書多数。音楽評論家としては、ヒップホップなどのブラック・ミュージックからクラシックまでを幅広くフォローする異色の存在。

ブログ「印南敦史の、おもに立ち食いそば」

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