Nas『Illmatic』
90年代NYヒップホップ・シーンに多大な影響を与えた、紛うことなきクラシック
僕が音楽ライターになったのは31歳のとき、1994年の春でした。同業者とくらべるとちょっと遅めのスタートだったのですが、いずれにしてもその年の4月、『ミュージック・マガジン』誌に初の原稿が掲載されたのです。
そして、同じ月に長男が生まれました。だから自分の活動期間を計算したいとき、僕は息子の年齢を思い出せばいいのです(便利)。
初めて書いた原稿は、ニューヨークのラッパー、Nas(以下:ナズ)のデビュー・アルバム『Illmatic(イルマティック)』のレビューでした。当時21歳だったナズは、新人とは思えないほど高度なラップ・スキルと、“詩”としての評価に値するリリック(歌詞)によって、デビュー前から高い評価を受けていた男です。
ラージ・プロフェッサー、DJプレミア、ピート・ロック、Q・ティップなどトップ・プロデューサー陣が参加した『Ilmatic』も、デビュー・アルバムであるにも関わらず即クラシック化。この一枚によって、やや停滞気味だったニューヨーク・ヒップホップの勢いが一気に増したのでした。
ちなみに、音楽ライターとしてインタビューした3人目のアーティストもナズでした。先輩ラッパーのビズ・マーキーとともに来日し、いまはもうない六本木の「Jungle Bass」というクラブでライヴを開催したときのことです。
当初、編集部からは「16時に楽屋でインタビューしますので」と言われていたのですが、当日のお昼ごろに、「17時に六本木の中華料理店を予約しましたので、そこに変更です」との連絡が。
「中華料理を食べながらナズにインタビューできるなんて最高だなー」と思っていたら、夕方近くにまた電話が入り、「やっぱり20時に楽屋で」とのこと。この時点で、わけがわからなくてちょっとウケていたのですが、お楽しみはそれだけで終わりませんでした。
なにしろ、約束の時刻に楽屋へ行っても、ナズなんかいないのです。しかもプロモーターに連絡してもらったところ、「どうやら寝てるみたいですねぇ」という、信じられないような返答。
その公演はレコード会社を通さず、プロモーターが仕込んでしまったものでした。そのため、のちのち問題が起きたりもしたのですが、僕が巻き込まれた小さなトラブルは、その前哨戦のようなものだったのかもしれません。
でも寝てるんじゃどうにもならないので、とにかく待つしかありません。結局、ナズが現れたのは23時半のことでした。
ひとことで言えば、ふてぶてしい男でした。しかしまぁ、決して裕福とは言えない環境に育ったのち、才能だけを武器にのし上がってきた男なのですから、無理のない話ではあります。
それに、ただガキっぽいというだけではなかったのです。生意気なんだけれどおとなしく冷静で、21歳のわりには落ち着いた印象。少し枯れた声で伏し目がちに語るその仕草からは、不思議な知性が感じられたのでした。
しかも、それから数十分後にステージに現れるや、持ち前のスキルとアクティヴな動きによって観客をがっちりとキャッチしてしまったのです。ついさっきまで下を向いていた子とは思えないほどの、圧倒的なアーティスト性を感じさせてくれたわけです。
ところで話は変わりますが、ハイレゾの魅力はなんだと思いますか? まず最初に思い浮かぶのは、「解像度」の高さではないでしょうか? 以前、ダニー・ハサウェイの『ライヴ』 を取り上げたときにも触れましたが、解像度が高いがゆえに、あたかも目の前でアーティストが歌っているような、あるいは演奏しているようなリアリティを実感できるということ。
ただ、その魅力は生演奏でこそ発揮されるものだという気もします。逆に言えば、ヒップホップのようなデジタル・サウンドにはあまり向いていないのかもしれません。
いや、実はそう信じて疑わなかったのです。でも『Illmatic』を初めてハイレゾで聴いてみたとき、少しだけ印象が変わったのも事実。
もちろん、立体感がとりたてて際立つということではないのです。そもそもヒップホップは、立体感によって評価が高まるような音楽ではありませんし。けれど、それでも奥行きが増し、ボトムの図太さが増したような印象。
いわゆる「ハイレゾ的な音」ではないのだけれど、当時の最先端だったヒップホップ・サウンドが、下からぐいっと持ち上げられるようなかたちでレベルアップしているのです。
“The Genesis”から“N.Y. State of Mind”に続く冒頭の流れに顕著なのですが、よくも悪くも音が塊になっているからこそ、ヒップホップのダイナミズムが浮き彫りになるのです。そして、続く“Life’s a Bitch”では、ギャップ・バンド“Yearning for Your Love”をサンプリングしたメロウ・グルーヴがより心地よく聞こえます。
サンプリングといえば、マイケル・ジャクソン“Human Nature”を使用した“It Ain’t Hard To Tell”も素晴らしいし、アーマッド・ジャマル・トリオの“I Love Music”をセンスよく用いた“The World Is Yours”なども秀逸。
というよりも、天才ラッパーの実力を第一線のプロデューサーたちががっちりサポートしているだけに、無駄な曲がひとつも存在しないのです。だから、リリースから24年も経っているのに、まったく古さを感じさせません。それどころか、初めて聴く人にも十分に新鮮だと思います。
さて、『Illmatic』の発売から24年が経過しているので、同じ年に生まれた息子も24歳になりました。いまでは一緒にDJをやったりしているのですが、あるときサラッとナズの“Nas Is Like”という曲をかけたので、思わず笑ってしまったことがありました。
あいつはあのとき、どういう気持ちで“Nas Is Like”をかけたのかな? ナズとのちょっとした縁については話したことがあったと思うのですが、きっと忘れていたのではないかという気がします(それでいいのだ)。
◆今週の「ハイレゾで聴く名盤」

『Illmatic』
Nas

『Illmatic XX』
Nas
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印南敦史 プロフィール
印南敦史(いんなみ・あつし)
東京出身。作家、書評家、音楽評論家。各種メディアに、月間50本以上の書評を執筆。新刊は、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)。他にもベストセラー『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)をはじめ著書多数。音楽評論家としては、ヒップホップなどのブラック・ミュージックからクラシックまでを幅広くフォローする異色の存在。
ブログ「印南敦史の、おもに立ち食いそば」