ライオネル・リッチー『Can’t Slow Down』
世界的な大ヒットとなった2枚目のソロ・アルバムは、不器用な青春の思い出とも連動
20歳のころだったかな? 時期は不明瞭だけれど、1982~83年あたりのお話です。
当時の僕は無目的に通っていただけの大学を中退し、某美術大学の通信教育部で美術を学んでいました。虎ノ門のお茶屋さんでバイトをしながら、非常に地味な生活を送っていたわけです。
ご存知の方も多いと思いますが、通信教育を利用して大学で学ぶ場合、夏の「スクーリング」への出席が義務づけられます。1か月ほど学校に通い、授業を受けるのです。
なにしろ、そのころ日常的に関わりがあったのは、お茶屋さんの若旦那と女将さんだけ。毎日自転車をこぎ、近隣の会社へお茶を配達し続けるような日々で、あまり人と関わる機会がなかったのです。そのため、人と出会えるスクーリングをとても楽しみにしていました。
そして、その期間に僕は恋をしました。
相手は2歳年上で、その美大を一度卒業したものの、もう一度勉強しなおすために再入学したという人でした。だから学内のこともよく知っていたし、デッサンの授業などで鉛筆を大胆に動かす仕草もかっこよく見えました。
しかも明るくて屈託がなく、その人を中心に人の輪ができるような感じでした。
スクーリングでの再ブレイクを狙っていた僕も“必要以上に”明るいほうだったのですが、でも、心の奥底では彼女との間に大きな隔たりを感じていました。
なにしろ向こうは、かわいくて洗練されていて、サバサバしていていつも笑っているような人です。バカなことばかり言って笑いをとっていながらも、ひっそりと闇を抱えていた自分とは、とてもじゃないけど折り合いがつくはずがないと思っていたのです。
ところが、いつの間にか彼女と僕はふたりで会ったり、遊びに行くようになっていました。ただ、おそらくどちらも、「つきあっている」とは思っていなかったとような気がします。
いまの若い子って、数日一緒にいただけで「つきあった」とか言ったりするじゃないですか。以前、「私、彼氏と3時間で別れたことがあるんです」とホザく子がいて、「それ、つきあったって言わないから」とツッコミを入れたことがあったのですが、それが今風なのかもしれません。
でも、もしもその程度の関係を「つきあう」と言っていいのであれば、彼女と僕はかなり深くつきあっていたことになります。やりまくっていたとかいうことではなく、精神的な部分で深く共感し合っていたという意味。
ある日、新宿のディスコに行こうと誘ったことがきっかけでした。こっちは緊張しまくってるのに、「あー、行く行く!」みたいな感じですぐにOKしてもらえたので、なんだか拍子抜けしたおぼえがあります。
いつもTシャツにジーンズというラフな格好をしていたのに、当日は女の子っぽい服装で現れました。その日以降も、会うたびどんどん服装や見た目がかわいくなっていきました。
そんなの、ドキドキするに決まっています。
かわいいと思ったんなら、せめて服装だけでもほめればいいのに、そんなことを考える余裕もなく、ただ平静を装っているのがせいいっぱいだったのですが。
ともあれ、その日以来、彼女とはちょくちょくディスコへ遊びに行くようになりました。マイケル・ジャクソンの『スリラー』が流行ってたな。で、その半年ぐらいあとの1983年の夏か秋ぐらいに、ライオネル・リッチーの『Can’t Slow Down』というソロ・アルバムが大ヒットしたのでした。
印象的な光景って、そこだけを切り取ったみたいな感じで記憶にしっかりと刻み込まれるじゃないですか。嫌な記憶が消えていくのとは対照的に。
だからよく覚えているのは、ある晩、ダンスフロアに『Can’t Slow Down』からのヒット・シングル“All Night Long”が流れたときのこと。
こちらに向き合い、こちらを見上げながら楽しそうに踊るその人の表情を見て、とても幸せな気持ちになったわけです……って、なんで恥ずかしげもなくクサいこと書いてんだろう?
そんなわけで、いつまでたっても「つきあっている」という認識を共有しないまま、彼女と僕は日常的に電話で話し、月に何度かデートするようになっていたのでした。彼女の実家に行って両親に挨拶までしたので、どうしてあれが「つきあっていなかった」のか、いま考えるとちょっと不思議です。
それはともかく、長く一緒に過ごしてみると、いつも明るいその人が、実は家庭において深刻な問題を抱えていることがわかったりもしました。やがて悩みを聞く機会も増え、ときにはぶつかったりもするようになりました。
まぁ、男女間ではよくある話。しかも最終的には「好きな人ができた」とかで、僕はふられることになったのです。
突然電話がかかってきたのは、それから1年ほど経ったころ。驚いたのは、あれだけかわいかった声が、別人のようにガラガラになっていたことです。それに、話も脈絡がなくて明らかにおかしい。聞いてみると、精神を病んで入院していたらしく、なにがあったか知らないけれど、とても複雑な気分になったものです。
そして、それ以来、もうずっと連絡はとっていません。どこにいるのか、生きているのかさえわかりません。
だから、まったくハッピー・エンドな話ではないのです。でも、彼女の存在はそれなりに大きかったので、いまでも『Cah’t Slow Down』を聴くと、当時のいろいろなことを思い出します。
この作品、アルバムとしてのトータルな完成度も高いですよね。また、レコーディング状態のよさも魅力。ハイレゾとの親和性がいいように感じます。
タイトル・トラックの粒立ち感とか、バラード“Penny Lover”や“Stuck On You”の温かみとか、“Love Will Find a Way”のメロウなグルーヴ感とか、純粋に「いいなー」と思える曲がぎっしり詰まっている感じ。
大ヒットした“Hello”はベタすぎて苦手だったんだけど、個人的にはやっぱり“All Night Long(All Night)”がいちばん好きだなー。思い出が絡んでいるからね。
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印南敦史 プロフィール
印南敦史(いんなみ・あつし)
東京出身。作家、書評家、音楽評論家。各種メディアに、月間50本以上の書評を執筆。新刊は、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)。他にもベストセラー『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)をはじめ著書多数。音楽評論家としては、ヒップホップなどのブラック・ミュージックからクラシックまでを幅広くフォローする異色の存在。
ブログ「印南敦史の、おもに立ち食いそば」