【10/26更新】 印南敦史の名盤はハイレゾで聴く

2018/10/26
ひょんなことからハイレゾの虜になってしまった、素直さに欠けたおじさんの奮闘記。毎回歴史的な名盤を取り上げ、それをハイレゾで聴きなおすという実験型連載。
月間50本以上の書評を執筆する書評家であり、ベストセラー『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』の作家としても知られ、更にヒップホップなどのブラック・ミュージックからクラシックまでを幅広くフォローする異色の音楽評論家としての顔を持つ印南敦史による連載「印南敦史の名盤はハイレゾで聴く」。
ロバータ・フラック『やさしく歌って』
1970年代の音楽ファンを魅了した才女の実力は、「ネスカフェ」のCMソングでもおなじみ


前回、荻窪にあった「新星堂本店」のことを書きました。家からすぐ近くの、とても大きなレコード店。レコードだけではなく楽器や楽譜も置いていて、子どもから見ればさながら「音楽の殿堂」という感じだったのです。

そういえば上の階にはレンタル・スタジオもあって、大学時代にはバンドの練習に使ったこともあったなー。でも練習の甲斐なく、あのバンドは結局ダメなまんまで終わったなー。

いずれにしても60~80年代あたりまで、新星堂本店は荻窪のランドマークというべき最重要音楽スポットだったのです。銀座の山野楽器を、もう少し小さくしたような店といえば、イメージは伝わりやすいかもしれません。

小学4年生のときに同店で買った「初レコード」は、天地真理のシングル「若葉のささやき」でした。たいへん気に入ったため、半年後にリリースされた「恋する夏の日」も購入しました。初の洋楽シングル盤として手に入れたのがカーペンターズの「プリーズ・ミスター・ポストマン」で、そののち前回取り上げた井上陽水『陽水ライヴ もどり道』に進んだわけです。

当時の経済事情からすれば、それが精一杯でした。本当はもっと欲しいもの、気になるものがたくさんあったのですが、小学生には到底買えるはずがなかったのです。

ですから新星堂に「レコードを見に行く」ことは、購入に代わる日常的な行動になっていました。「買えないけれど、せめて見たい」という発想。もっと小さかったころ、おもちゃ屋さんなどで「見るだけ!」と親を説得したことがありましたが、心情的にはそれに近いものだったと思います。

ロバータ・フラックの「やさしく歌って」という曲がヒットしたのは、僕がそんな「音楽生活」を送っていたのと同時期の1973年1月。そしてこの曲を知ったのは、ネスカフェのCMがきっかけでした。同じような経験をした同世代の方は多いと思うのですが、当時は「ロバータ・フラック=ネスカフェ」というくらいのイメージが浸透していたのです。

この曲を初めて耳にしたときは、ちょっとした衝撃を受けました。当時は音楽的な知識なんて皆無に等しかったのですが、「なんて歌がうまい人なんだろう」と純粋に心を揺さぶられたからです。

その結果、「こんなにきれいに歌う人って、どんな人なのかな?」と、見たことのない“ロバータ・フラック像”をどんどんふくらませていくことになったのでした。

なにしろそれは妄想ですから、イメージは自分の都合のいいように膨張していくわけです。わかりやすくいえば、「きっと、この世のものとは思えないほどの絶世の美女なのだろう」というように。そこである日、新星堂本店へこのレコードをチェックしに行ったのでした。

結局、妄想はやはり妄想だったと実感することになったのですが(失礼なことを言うな!)。

ピアニストの父とオルガニストの母の間に生まれたロバータ・フラックは、15歳のとき黒人学生を対象としたピアノ・コンクールでその才能を評価されたことから、ハワード大学に進学してクラシックと声楽を学んだという生粋の音楽エリート。1969年に名門アトランティック・レコードと契約し、デビューを果たしました。

この連載の第1回目でご紹介したダニー・ハサウェイと交流があったことでも知られており、1975年の『Roberta Flack & Donny Hathaway』、1980年の『Roberta Flack Featuring Donny Hathaway』と共作も残しています(ちなみに後者のレコーディング期間にダニーは逝去)。

「やさしく歌って」は、ロリ・リバーマンという女性シンガーが1972年8月にリリースした楽曲です。ヒットはしなかったものの、飛行機の機内BGMに採用されたことがおもしろい展開につながりました。それを機内で耳にしたロバータが気に入り、カヴァーしたいと思い立ったのです。その結果、1973年1月にシングル・カットされ、大ヒットしたということ。

なお、半年後の同年8月にはこの曲を含むアルバム『やさしく歌って』もお目見えしたのですが、こちらの完成度もなかなかのもの。ジャニス・イアンの「Jesse(邦題:「我が心のジェシ」)」、レナード・コーエンの「Suzanne」などカヴァーのセンスも抜群で、全8曲というコンパクトな構成でありながら、ずっしりとした聴きごたえを感じさせてくれます。

このアルバムがリイシューされた際、僕はライナーノーツを書かせていただきました。上記のように大きな出会いがあったものですから、依頼をいただいたときにはとてもうれしく感じたのを覚えています。そしていまでも、本当に不思議なことだと感じます。

それにしても、ハイレゾって声やヴォーカルの温かみをとてもリアルに再現してくれますね。ダニー・ハサウェイの『ライヴ』もそうでしたが、すぐ近くで歌ってくれているようなリアリティがあります。今回ひさしぶりに聴きなおしてみて、そのことを実感しました。


◆今週の「ハイレゾで聴く名盤」


『Killing Me Softly』
Roberta Flack






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印南敦史 プロフィール

印南敦史(いんなみ・あつし)
東京出身。作家、書評家、音楽評論家。各種メディアに、月間50本以上の書評を執筆。新刊は、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)。他にもベストセラー『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)をはじめ著書多数。音楽評論家としては、ヒップホップなどのブラック・ミュージックからクラシックまでを幅広くフォローする異色の存在。

ブログ「印南敦史の、おもに立ち食いそば」

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