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ハイレゾ版『First Love/宇多田ヒカル』徹底研究 〈前編〉~マスタリング・エンジニアと探る、テッド・ジェンセン氏のハイレゾ・リマスター

2014/04/25
96kHz/24bitハイレゾ音源の『First Love』は、アルバム発売15周年を記念し、アナログ・マスターからの最新リマスターにより誕生しました。 そのリマスターを手掛けたのは、なんとマスタリング・エンジニアの巨匠テッド・ジェンセン氏と話題が尽きません。

日本ポップス史上最高のセールスを記録したCDアルバムは、ハイレゾ化によってどのように生まれ変わったのでしょうか。今回はスペシャル企画として、その魅力を研究していきたいと思います。対談をお願いしたのは、小泉由香さんと西野正和さん。

小泉由香さんは、日本を代表するマスタリング・エンジニアで、福山雅治やEXILE、矢沢永吉などの大ヒット・アルバムのマスタリングを手掛けています。また、テッド・ジェンセン氏のマスタリング現場に実際に立ち会ったことがあるという経験の持ち主。マスタリングのプロという観点から、ハイレゾ版『First Love』を分析していただきます。

西野正和さんは、好評連載中の『辛口ハイレゾ・レビュー 太鼓判ハイレゾ音源はこれだ!』の筆者。著書『音の名匠が愛するとっておきの名盤たち』ではテッド・ジェンセン氏がマスタリングしたアルバムを数多く取り上げるなど、自他ともに認めるテッド氏ファンです。音楽を聴く側の代表として、ハイレゾ版『First Love』を厳しくチェックしてもらいます。

対談場所は、小泉さんの本拠地である東京青山のマスタリングスタジオ“オレンジ”。スタジオのリファレンス・システムでハイレゾ版『First Love』を実際に聴きながら、お二人には存分に語っていただきました。対談から、その魅力に迫ってみたいと思います。

『First Love [2014 Remastered Album]』 (96kHz/24bit)
/宇多田ヒカル



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■ レベルを攻めていた1999年CD盤『First Love』

西野:まず、ハイレゾ版『First Love』を聴きましょうか。曲は、1曲目『Automatic』です。

♪♪♪ハイレゾ版を試聴♪♪♪

西野:次はどちらのCD盤を聴きます?1999年の発売当時に私が買ったCD盤と、今回リマスターされた最新版CDの2パターンがあります。しかもリマスターCDは、デラックス・エディション仕様に付属しているプラチナSHM-CD盤を用意しました。

小泉:当時の90年代後半は、時代的にまだそんなにレベルは突っ込んではいないはずなので、当時のCDから聴きましょうか。

♪♪♪1999年CD盤を試聴♪♪♪

小泉:想像よりも、音圧をすごく突っ込んでいますね。レベルメーターが予想よりも大きく振っている。ハイレゾ版より6dBくらいアップしているんじゃないですか?

西野:私は事前に自分のシステムで聴いて予習してきましたが、なかなか興味深いでしょ?次に、『First Love 15th Anniversary Edition』のリマスターCD盤を聴いてみましょう。プラチナSHM-CD仕様です。

♪♪♪リマスターCD盤を試聴♪♪♪

小泉:今のテッドさんの音がしますね。やっぱり宇多田さん作品の音は、硬めでシャキーンとしている印象です。

西野:小泉さんは、アルバム『First Love』は今まで聴いたことがなかったんですよね?あれだけの大ヒットアルバムだったのに(笑)。やっぱりマスタリング・エンジニアさんは、自分の手掛けた作品以外は聴かないものですか?

小泉:いえいえ、たまたま聴いていないだけです。多分、90年代当時はもの凄く忙しかった時期だったからだと思います。『First Love』が1999年の作品ということは、まだシブサン(=3/4インチUマチック規格)のころだから、余計に忙しかったんですよ。デジタルとはいえシブサンはテープ規格なので、なんといっても作業時間がかかりましたから。

西野:私がレゾナンス・チップというオーディオアクセサリーでこの業界に入ったのが、1998年後半。『First Love』が1999年前半の発売ということで、ほぼ私と同級生なんです。ですから、このアルバムは幼なじみ感がすごくあって。当時はオーディオのイベントもたくさん開催され、『First Love』が試聴音源としてよく鳴っていましたよ。だから1999年のCD盤はもちろん、アナログレコード盤まで持っているんです。とはいえ、ほとんどレコード盤は聴いたことがないですけど(笑)。当時、オーディオの仕事をするなら、『First Love』は絶対に持っていないといけないアルバムのひとつでした。良い音で鳴るかどうかというよりは、一番売れていたアルバムですから必須アイテムという感じですね。ジャズの名盤『ワルツ・フォー・デビイ』と同じくらい、仕事的に持っていなきゃいけない盤のひとつでした。

小泉:そうだったんですね。


西野:当時のイベントで聴いたときの『First Love』の印象ですが、私は特に優秀録音だとは思わなかったです。とはいえ圧倒的に売れたアルバムですから、自分自身のポリシーとして“売れている作品を一番イイ音で聴けなきゃダメ”というのがあるので、『First Love』は自分のイベントでもよく鳴らしていましたよ。その思い出の音源が、こうして15年の時を経て出会い直せるというのも感慨深いですね。『First Love』もリマスターして生まれ変わったけれど、こちらの再生テクニックも上がっているので、そういう意味で今回は非常に懐かしくて面白い試聴でした。更に今回はテッド・ジェンセンさんがリマスタリングを担当したというのが、すごくトピックな感じです。『Automatic』を3パターン聴いた感じはいかがでした?

小泉:1999年のCD盤は、当時としてはやっぱりレベルを入れすぎではないかな~?あそこまで日本の邦楽って、レベルを入れてなかったと思うから。そういう意味でも戦っている作品だと感じました。戦術として当時のレベル競争でのトップに立ち、ツカミはOK的な部分はあったと思うんです。

西野: 攻めていたわけですね。当時の国産CDから考えると、音はデカかった?

小泉:かなりデカいと思う。今聴いても音がデカいから(笑)。デビュー作品として、一般の人にカッコいいと感じてもらいやすいのは、やっぱりレベルが大きいことかもしれないです。だから業界全体がレベル戦争になっていったんですけど。そういう意味でのツカミ感はあると思いますね。

西野:私も当時、クレジットを見るまではテッドさんのマスタリングだと分からなかったですよ、やっぱり。

小泉:テッドさんが洋楽のほうで普通にやっているマスタリングより、かなりレベルは大きいです。1999年CD盤の音から想像すると、「思い切りレベルを入れてほしい」といったオファーがあったのではないかと。まあテッドさんご本人じゃないから分からないですけど、マスタリング時にそういう要望があったような気がします。

西野:でも『First Love』はこれだけ売れたのですから、その戦略は大成功だったと言えますよね。あの時代の音を私は否定もしないし。これだけ売れれば勝ちですよ。当時のマスタリング作業には、何の間違いもなかったと思います。けれども、テッドさんが「レベルと突っ込んでください」とオファーされたであろう作品は他にも多くあるのですが、個人的にその音はあんまり好きじゃないんです。テッドさんが「マスタリングの神様だ!」って言われた時期があったじゃないですか。あの時代で好きな作品は、今聴いてもレベルは押さえ気味だと感じます。

小泉:レベルにちょっと余裕が残っている感じの作品ですね。

西野:そうそう、音に奥行きがあって抜けが良くて、音像に空間の隙間がいっぱい見えるような、そんなテッドさんのマスタリングが私は好きなんです。だから、もうちょっと年代的には1999年よりも前の作品になるのかな?オーディオ好きの人も、全くテッド・ジェンセンという名前を知らなくても、例えばイーグルスのライブ盤『ヘル・フリーゼズ・オーヴァー』の「ホテルカリフォルニア」は、オーディオ・イベントなどで絶対に聴いたことがあると思います。あのライブ盤は何度かリマスターされているので違うエンジニアさんのバージョンもありますけど、初期盤のマスタリングはテッドさんです。

小泉:たぶん、パット・メセニー好きの人は少しテッドさんの名前を見ていると思いますよ。フュージョン系を多く手掛けていた時期がありましたから。

西野:私はテッドさんで一番好きなのは、デイヴ・グルーシンなどのフュージョン系ですね。明らかに他とは違うサウンドの作品があって、ある日気が付いたんです。自分が気に入っているイイ音のCDを集めていくと、「あれ、どうもこれはテッド・ジェンセンっていう人の名前が、全部の盤にクレジットされているぞ」と。日本の作品でいうと、そのエンジニア名は小泉由香さんだったんですけどね。

小泉:いやいや~。


■ スターリング・サウンドで鳴っているテッド・ジェンセン氏の音

西野:15年経って『First Love』の新しい音が出てきたわけですが、リマスターのご感想は?

小泉:ハイレゾ版ではなくリマスターCD盤のほうですけど、それはもう15年経った音がしています。最近のテッドさんの感じは、高さが違うんですよ。

西野:高さ?音像の高さということですか?

小泉:そうですね。音像の高さです。聴き比べると分かると思うんですけど、以前のマスタリングは、もうちょっと音像の高さが下のほうにある。最近のテッドさんの仕上がりは、例えば歌だったり、ギターの高いところだったり、そういうところの音像が上にひとつスパンと抜けているところがあって。それが今のテッドさんのスタイルだから、必ず何を聴いてもその感じがあるんですよ。ロック系作品ならニッケルバックでも「ああやっぱりここに山がある」っていうのが分かります。上へ抜けた一点があって、そこからなだらかに音像を作っているように感じます。本人的にそのポイントが出ているほうが気持ちいいということなのか、それがスタジオの場所が変わったことによる影響なのかはわかりませんが。

西野:同じニューヨークでも、スターリング・サウンドってスタジオが引っ越したんですよね、確か。

小泉:前は、もうちょっとマンハッタンの中央部だったんですよ。ビルの何階かのワンフロアー全部がスターリング・サウンドのスタジオでした。部屋の広さは、ここオレンジ・スタジオよりも狭い空間くらいのマスタリング・ルームが、いくつか並んでいたんです。そこに各エンジニアがいるというスタイル。テッドさんやグレッグ・カルビさんといった、そうそうたるメンバーが名を連ねているのがスターリング・サウンド。その中央にシーサーの置物が置いてあって、ちょっと泉みたいなのが作ってあるんです。そうやって各部屋を行き来するという感じのフロアの作りでした。テッドさんの機材的には、EQはソンテックをまだ使っていたから変わっていないんだけれど、ADコンバーターは変わっているだろうし、今はスピーカーが全然違う。

西野:テッドさんの使っているモニタースピーカーはB&Wですよね。スピーカーから手が生えている(笑)。

小泉:そうそう、スピーカーに手のオブジェが付けてあるんですよね。その前に使っていたスピーカーは、板みたいなルックス。私が行ったときは、板状の平面スピーカーだったんですよ。

西野:小泉さんはスターリング・サウンドに潜入したことがあるんですよね。テッドさんのマスタリング現場に生で立ち会ったとか。

小泉:2回行きました。平面スピーカーのときは、マスタリング作業は見ることができなかったんですけど、B&Wになってからはアルバム1枚分のマスタリング作業に立ち会っています。葉加瀬太郎さんのアルバム『Violinism With Love』のときにお邪魔して。

西野:小泉さんは、自分が日本のマスタリング・エンジニアだとは名乗っていないんでしょ?スタッフを装って忍び込んだんですか?

小泉:いえいえ、ちゃんと言いましたよ(笑)。日本のマスタリング・エンジニアとして紹介してもらっての立ち会いです。「高校生のころから、あなたを知っていました。目指してがんばっていました。」とご挨拶したら、テッドさんが、「オレも老けたな~」みたいなジョークを言っていましたよ(笑)。初回の平面スピーカーのときは、スタジオへ見学に行きました。そのときテッドさんはいらしたんですけど、作業の前準備みたいなことをしていて話は出来なかった。でも、こういう部屋だよってテッドさんの部屋は見せてもらいました。そのときにソンテックっていうEQを初めて見て、「この機材は知らないぞ」と、私も日本に帰ってからそのEQを買ったんです。今はソンテックのEQを私は使っていないけれど、あのときの日本ではアナログのEQをマスタリングで使っている人がまだ少なかったから、よい刺激になりましたよ。

西野:当時の日本では何を使ってマスタリングしていたんですか?

小泉:日本のほうが、オールデジタルが主流でした。送り出しから録りまで一貫してセットになったソニー製のシステムです。当時の日本では、マスタリング段階でアナログのEQをかけるという人はあまりいなかった。ADコンバーターも種類が無かったですからね。「どうなっているんだ、向こうのマスタリングは。何でこういう音になるんだ」と、ちょっと居ても立ってもいられなくって、休みを取ってアメリカへ(笑)。スターリングやマスターディスクといった現地の各スタジオを見学しました。ニューヨークでは、みんなアナログ機材でEQやコンプをかけてマスタリングしているから、この差は大きいなと。

西野: その後、葉加瀬さんのアルバムで行ったのが、スターリング・スタジオの場所も変わってから。といっても、その2回目もかれこれ10年前くらいの話ですよね。私もちょうどスピーカー開発をスタートさせたころで、葉加瀬さんのレコーディングでプロトタイプのスピーカーをテストしてもらっていたのでよく覚えています。そのスピーカー開発からちょうど10年くらい経っているので、2005年くらいの話で間違いないです。あのアルバムはテッドさんのマスタリングで、今でも良く聴きますよ。手の生えたテッドさんのB&Wスピーカーは、実際に音を聴いてどうでしたか?モニターとしての分かりやすさだとか。

小泉:もうそのころは、私もここオレンジ・スタジオを作っていたんですけど、自分が普段聴いている印象と変わらなかったという感じでしたね。同じトール型のスピーカーだから、「ああ、こういうふうに音像は見えるよね」っていうのは共通していました。あと、結構テッドさんはラウドだなと。音を大きく再生しながら作業する人だと感じました。

西野:当時はテッドさんが「マスタリングの神様」と言われていた時代だと思うのですが、「テッドさん用の特別なマスタリング機材があるんじゃないか?」というようなことも想像していたんですけど、意外と機材は普通だったんですよね。

小泉:そうそう。普通といっても、向こうはスタジオごとにテクニカル・エンジニアがいて、内部部品を交換するというカスタムはスタンスとして普通だから、市販機がそのまま使われていたわけではないですけど。それは平面スピーカーだったころに行ったときにも分かっていたことで、システムを組む人も作業効率をいろいろ考えて日本のスタジオとは全然違う組み方をするんです。でも、考え方のスタンスは変わらない。目指しているものはみんな同じなんです。

西野:マスタリングの神様は、神がかった機材を通すからあの音になったわけではなかったということですね。やっぱりその人の腕次第というか、あの音はテッド・ジェンセンさん自身が生み出しているものだった。

小泉:ただ、マスタリング・エンジニアは機材のチョイスに自由度はあります。録音スタジオではミックス卓のチョイスで音色の傾向があるかもしれないけど、マスタリングではエンジニアによって全然違う機材を使っているので、音の個性が広がっていくっていうのはあります。テッドさんはプラグイン・エフェクターも使うし、もちろんアナログのEQも使うし、かけるものが多いなとは感じました。EQだけで3台も使うとか、コンプも複数かけているとか、そこから更に「プラグインもいくのか!」みたいな(笑)。そういうところは、一般的な手法とは違うところでした。

西野:作業スピードはいかがでした?

小泉:早いんですよ、これが。それだけいろいろなエフェクターを使っていても、パッと聴いてハイっていう感じです。手際よく作業し、仕上がりまでのスピードが凄く早い。ただ、マスターのコピーを日本はその日に持って帰るっていう習慣があるから、それが向こうとしては負担だったみたいでした。「1日で完パケんのか?」みたいな(笑)。

・・・後編につづく

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プロフィール:

小泉 由香(こいずみ ゆか)
TDK、ポニーキャニオン、音響ハウスを経て、平成9年11月、日本初のエンジニアがオーナーのマスタリング・スタジオ“オレンジ”を設立する。20数年 の裏付けされた経験と、常に新しいアプローチにより音楽のジャンルを問わず幅広くマスタリングを行なう。作品に真摯に向かい合いマスタリングを行なうその姿勢は、メジャーやインディーズの区別なく、数々のアーティストに高く評価される。著書『マスタリング・エンジニアが教える 音楽の聴き方と作り方』(リットーミュージック刊)。
マスタリングスタジオ・オレンジ: http://www.mastering.co.jp/

西野 正和(にしの まさかず)
3冊のオーディオ関連書籍『ミュージシャンも納得!リスニングオーディオ攻略本』、『音の名匠が愛するとっておきの名盤たち』、『すぐできる!新・最高音質セッティング術』(リットーミュージック刊)の著者。オーディオ・メーカー代表。音楽制作にも深く関わり、制作側と再生側の両面より最高の音楽再現を追及する。自身のハイレゾ音源作品に『低音 played by D&B feat.EV』がある。